※本記事は、2021年6月2日時点で書かれた内容となっています。

本を読むことが好きな人によくあることだと思いますが、「これは!」と思った人や出来事について、関連する本を立て続けに読む、あるいは全部読むという読み方があります。これを私的専門用語で「ずるずる読書」とよんでいます。「多面的読書」と言ってもよいでしょう。

高峰秀子さんという昭和の大女優を心から尊敬していまして、この人は僕にとって間違いなく「これは!」という人物です。ですから、彼女が書いたものは全部読みます。もうお亡くなりになって久しいので数は限られていますが、ご本人の書いたものだけではなく高峰秀子さんについて書いてある本はできる限り読みます。養女になった斎藤明美さんという方が高峰秀子さんについていろいろなことをお書きになっていて、もちろんすべて読みました。女優時代の高峰秀子さんの作品や演技についての一般的な評論なども次から次へとずるずると読みます。

そうすると、一緒に暮らしているというと大げさかもしれませんが、日常の生活や仕事の中でも何か自分の心のどこかにいる高峰秀子さんと対話できるような気がしてきます。生活の仕事の師として、高峰さんがそばにいてくれるような状態に近づきます。これが非常にありがたい。読書の究極の効用だと思います。

言うまでもなく僕は戦争には強く反対ですが、身近で戦争を経験したことはありません。自分の経験の中にないので、読書による疑似経験には大きな意味があります。いろいろな戦争についての本を読んで考えてみると、はっきりしていることがひとつだけあります。いつの時代もほぼ世の中の人すべてが戦争だけはやめたほうがいいと考えている。それでも戦争は起こる。「戦争反対!」とみんなが思っているにもかかわらず、気づいてみれば起きているのが戦争なのです。近現代のほとんどの戦争はこのパターンを踏襲しています。ということは「戦争反対!」というかけ声にはほとんど意味がないということです。戦争について自分なりに考えて、どういう基準で行動すればいいのかを多面的に勉強する必要があります。僕にとってその最高の教材が、戦時下に書かれた日記のずるずる読書です。

清沢冽の『暗黒日記』、高見順の『敗戦日記』、徳川夢声の『夢声戦争日記』、山田風太郎の『戦中派虫けら日記』、内田百閒の『東京焼盡』。全部同時代の戦時下の生活の日記ですが、こういう本をずるずると読んでいくと、時系列で毎日書いてあるものなので、世の中の動きや人々の心理など、本当にその同時代を自分が過ごしているような「ああ、こうやって戦争になっていくんだな」ということが疑似的に体験できます。

中でも『古川ロッパ昭和日記』は僕にとって特別なもので、古川ロッパという昭和の喜劇の大スターが戦時下で経験した日常が書かれています。開戦直前の東京では、今と変わらない日常生活があるわけです。もちろん「そのうちに戦争になるかもしれないよ」という物騒な話は新聞にも出てくるので、みんなぼんやりと心配はしているものの、普通の日常生活を送っている。古川ロッパは喜劇俳優なので、毎日舞台に立って主役でお客さんを笑わせるという日常を生きています。

昭和16年に太平洋戦争が始まり、ミッドウェー海戦で大敗して戦況はどんどん悪くなっていきます。報道が統制されていたので、当時の戦況をみんな詳細に知っていたわけではありませんが、古川ロッパはジャーナリスト出身のインテリなので何となく大変なことになってきたことはわかっています。でもそれはそれとして、戦場に出ている人以外の普通の人たちはそれぞれの日常を普通に過ごしています。昭和17年、18年になっても、まあ普通に暮らしている。しかし昭和19年に入り本土が直接空襲を受けるようになると、それまでの漠然とした不安が、最初はゆっくりと、途中からものすごいスピードで明らかな危機に転換していきます。当時の人々が遺した日記を読むと、こうした刻々と変化していく世相や人々の心象を時系列で詳細に疑似体験することができるのです。

戦時下の日本人の日記を読むと、もちろん人によって生活は違うし戦争の受け止め方も違いますが、驚くほど共通しているのは太平洋戦争が始まったときの日本中の人々の高揚感です。「ついに開戦」となったときに、それまでの鬱屈が一気に解放されたかのような高揚感が世の中を覆います。それがその後の悲劇につながっていく。こうした戦時下の日記を読むと、普通の人々にとって「戦争」というのがどういうものなのかがリアリティーを持って伝わってきます。

「戦争は悲惨です」というだけでは、戦争抑止に実効性はほとんどないと思います。そんなことはみんなわかっている。過去の戦争の悲惨な歴史を知りながら、それでも戦争は起きるわけで、戦時下の日記を読むことは、今を生きるわれわれにとって非常に得るものが大きいと思います。

ずるずる読書の例としてもうひとつあげたいのが、ポル・ポト派が主導したクメール・ルージュによるカンボジアの革命です。2000年にできた一橋ビジネススクールの第一期生として、以前にも一度お話したスレイ・ブースさんという留学生が来ました。彼は僕と同世代、カンボジアの財務省の官僚です。政府派遣の留学生で、僕が指導教官でした。彼は進んで話そうとはしませんでしたが、言葉の断片から推測するに、ポル・ポト革命下のカンボジアでご両親もご兄弟も殺害されるような、僕には想像が付かないほど凄惨な子ども時代を生き抜いてきた人でした。彼に接して、僕なりにこの重大事件について考えたいと思い読書を始めました。

1975年のクメール・ルージュによるプノンペン陥落の後、ポル・ポト(本名はサロト・サル)はカンボジアで独裁政権を打ち立て、極端な共産主義による実権的な政治を強行し、自国民族を大量に虐殺しています。まずは全体像を知るため、山田寛の『ポル・ポト<革命>史』を読みました。続けて井上恭介の『なぜ同胞を殺したのか』を読み、ポル・ポト革命が挫折した後のポル・ポト派を追ったクリストフ・ペシューの『ポル・ポト派の素顔』、日本のジャーナリストである本多勝一の『カンボジア大虐殺』、そしてポル・ポト評伝の決定版ともいえるデービッド・P・チャンドラーの『ポル・ポト伝』と、ずるずると読んでいきました。

ポル・ポトという主導者は、悪魔の所業としか言えないようなことをやった独裁者です。しかし同時に、とても「優しい」人でした。もちろんかぎかっこ付きの「優しい」なのですが、この辺の複雑な人格が大惨事の根底にあることを知りました。ご興味のある方は、ぜひ『ポル・ポト伝』をお読みください。これは名著です。

このように、ずるずる読書はひとつの事柄や人物を追いかけるという読み方です。人間と人間の世の中を多様な視点から見ることによって、本質に接近する――読書の醍醐味のひとつだと思います。

画像: 楠木建流「ずるずる読書」-その1
「これは!」と思えば全部読む。

楠木 建
一橋ビジネススクール教授
1964年東京生まれ。幼少期を南アフリカで過ごす。一橋大学大学院商学研究科博士課程修了(1992)。一橋大学商学部専任講師、一橋大学商学部助教授、一橋大学イノベーション研究センター助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科准教授、2010年より現職。

著書に『逆・タイムマシン経営論』(2020,日経BP社)、『室内生活 スローで過剰な読書論』(2019、晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる』(2019、文藝春秋)、『「好き嫌い」と才能』(2016、東洋経済新報社)、『好きなようにしてください:たった一つの「仕事」の原則』(2016、ダイヤモンド社)、『「好き嫌い」と経営』(2014、東洋経済新報社)、『戦略読書日記』(2013、プレジデント社)、『経営センスの論理』(2013、新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。

「第2回:『華族』という未知との遭遇。」はこちら>

楠木教授からのお知らせ

思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
この10年ほどTwitterを使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。

・140字しか書けない
・オープンな場なので、仕事や生活経験の具体的な中身については書きにくい
・考えごとや主張をツイートすると、不特定多数の人から筋違いの攻撃を受ける

「楠木建の頭の中」は僕のTwitterの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
不定期ですが、メンバーの方々と直接話をする機会も持ちたいと思います。
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楠木健の頭の中

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※グレート・リセット:2021年夏に開催される予定の次回世界経済フォーラム年次総会、通称ダボス会議におけるテーマ

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八尋俊英の「創造者たち」~次世代ビジネスへの視点~

八尋俊英日立コンサルティング社長を導き手とし、新世代のイノベーターをゲストに社会課題の解決策や新たな社会価値のつくり方を探る。

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ニューリーダーが開拓する新しい未来

新たな価値創造に挑む気鋭のニューリーダーに、その原動力と開拓する新しい未来を聞く。

日本発の経営戦略「J-CSV」の可能性

日本的経営の良さを活かしながら利益を生み出す「J-CSV」。その先進的な取り組みに迫る。

ベンチマーク・ニッポン

日本を元気にするイノベーターの、ビジョンと取り組みに迫る。

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岩倉使節団が遺したもの—日本近代化への懸け橋

明治期に始まる産業振興と文明開化、日本社会の近代化に多大な影響を及ぼした岩倉使節団。産業史的な観点から、いま一度この偉業を見つめ直す。

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