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近年、日本社会は成長から成熟の段階に入ったと言われています。

「成熟」には「十分に成長すること」や「できあがること」といった意味があります。確かに、いまの日本は経済も社会システムも十分に成長し、物質的にも満たされています。

一方で「失われた30年」とも言われるように、日本社会は経済活動が停滞しており、今後の成長が望めないと危惧する向きもあります。成熟を衰退への入り口であると位置づければ、特にビジネスの世界では、いまの日本の状況は喜ばしいことではないのかもしれません。

「知足」という禅語を、みなさん一度は耳にしたことがおありでしょう。

禅宗の重要な経典に、お釈迦様が入滅される前の最後の教えをまとめた「遺教経(ゆいきょうぎょう)」があります。知足は、その中に挙げられた修行者が実践すべき八つのこと、「八大人覚(はちだいにんがく)」のひとつです。

「八大人覚」
少欲(しょうよく:欲を少なくする)
知足(ちそく:足ることを知る)
遠離(おんり:騒がしいところを離れる)
精進(しょうじん:一生懸命努力する)
不忘念(ふもうねん:純真な心を忘れない)
禅定(ぜんじょう:心を乱さない)
智慧(ちえ:物事を正しく認識・判断する)
不戯論(ふけろん:無駄口を叩かない)

参考資料:平井 正修,老いて、自由になる。智慧と安らぎを生む「禅」のある生活,幻冬舎,2020年

人間は誰しも「欲」を持っています。欲があるからこそ学び、努力し、結果として社会は発展してきました。より高みをめざし、より多くを求める心そのものは、決して悪いことではありません。ただし、過ぎたるは猶及ばざるがごとしと言われるとおり、欲も強すぎれば道を誤り、身を滅ぼす原因となります。そのためお釈迦様は、欲を少なくし、「知足」すなわち自分の中に「足る」という感覚を持つことが大切だと戒められました。

そんなふうに言われると、「現状維持では進歩がない」、「現状に甘んじて向上心を失えばイノベーションが生まれない」などと思う方もいるでしょう。それは知足という言葉の真意ではありません。

画像: 龍安寺に設置してある吾唯足知のつくばい。真ん中を口に見立て「吾唯足知」を表現している

龍安寺に設置してある吾唯足知のつくばい。真ん中を口に見立て「吾唯足知」を表現している

「足るを知る」とは、「自分がいま、持っているもののありがたみを知る」ということです。持っているものとは、お金のような有形資産だけではありません。社会環境、自然環境、人脈や健康といった無形資産も数多くあり、私たちは知らず知らずそれらの恩恵にあずかっているはずです。そのことを忘れ、もっと欲しい、これでは足りないと欲張る人は、いつまでも心が満たされず、幸せを感じることもできないでしょう。

いまに満足することは、目の前の幸せに気づき、感謝することにつながります。その感謝の心は、次なる成長をめざして前向きに頑張ろうという意欲を生み出します。お釈迦様は、そのようにプラス思考で欲をコントロールしなさいと説かれたのです。

画像: お釈迦様が誕生した時に右手を挙げて唱えたと伝えられる「天上天下唯我独尊」

お釈迦様が誕生した時に右手を挙げて唱えたと伝えられる「天上天下唯我独尊」

この「知足」ということが、真の意味での「成熟」につながるのではないでしょうか。成熟の対義語は未熟です。では成熟と未熟の境界はどこにあると思われますか。

一般的に赤ちゃんは未熟で、大人は成熟していると考えられていますね。けれど、お釈迦様は生まれてすぐに七歩歩き、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」とおっしゃったと伝えられています。生まれたばかりのお釈迦様は未熟でしょうか。逆に、大人でも怒りや欲望をコントロールできない人を成熟していると言えるでしょうか。

成熟・未熟とは単に時間の経過で決まるものではなく、そのときのその人、その社会のありようで決まるものです。成熟して成長の余地がないと思われているいまの日本社会も、大局的に見れば、未熟な社会なのかもしれません。

思い込みに縛られず、一度みずからを見つめ直して足ることを知る。そのことが、本当の成熟とはなにかに気づき、次なる成長へと向かうための足がかりとなるはずです。

画像: 知足
~足るを知る~

平井 正修(ひらい しょうしゅう)

臨済宗国泰寺派全生庵住職。1967年、東京生まれ。学習院大学法学部卒業後、1990年、静岡県三島市龍澤寺専門道場入山。2001年、下山。2003年、全生庵第七世住職就任。2016年、日本大学危機管理学部客員教授、2018年、大学院大学至善館特任教授就任。現在、政界・財界人が多く参禅する全生庵にて、坐禅会や写経会など布教に努めている。『最後のサムライ山岡鐵舟』(教育評論社)、『坐禅のすすめ』(幻冬舎)、『忘れる力』(三笠書房)、『「安心」を得る』(徳間文庫)、『禅がすすめる力の抜き方』、『男の禅語』(ともに三笠書房・知的生きかた文庫)など著書多数。

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