人と人は契約と法律で結びつく
山口
宗教の中でも特にキリスト教は一大文明圏を築いていて、グローバルビジネスでもキリスト教国やキリスト教徒と関わることは少なくないと思います。ただ、このキリスト教における人の位置づけや神と人との関係が、普通の日本人には分かりにくいですね。
橋爪
キリスト教では、人間というのはそもそも間違いを犯す、困った存在であるとしていて、これを「原罪」と呼びます。そういう困った人間がしっかり生きるには、神が、教会が助ける必要がある、というのが基本的な考え方です。
とはいえ、世俗の社会をどう動かせばしっかり人間が生きられるのか、聖書に詳しく書いてあるわけではありません。この問題に対するキリスト教社会の向き合い方、ひいては近代社会の考え方は、聖書に書いていないので、あらかじめ人間が決めておくというものです。これが法律です。法律はすべての人が合意して決める、契約という形態をとります。それは社会契約という、近代法の基盤となる考え方ですが、契約ですから拘束力があります。元はと言えば自分が合意したものなのだから、従わなければならないということですね。
契約に従うことは、他の人間に従うことではありません。キリスト教では、人間は神だけに従うべきで、さもなければ独立した存在であるべきだと考えます。ただ、独立した人間だけではバラバラになってしまい、社会が成り立ちませんから、そこは契約によって人間の集団をつくる。つまりキリスト教では、人は神と一対一で結びつき、人と人とは契約と法律で結びついているのです。
例えば結婚については、夫婦が契約を結び、教会で宣誓すれば家族となることが許される。政府は、国民と契約を結んで憲法を定め、国家組織のあり方を決めたから存在を認められ、命令権を持っている。一神教の国なのに人間が偉そうじゃないかと思われるかもしれませんが、人間はあくまでも契約に基づいて政治・社会を営んでいるのです。
ビジネスも契約で成り立っていますね。資本家が資金を出して会社を設立する、経営者を雇う、経営者は従業員を雇う、全部契約です。MLBの投手が球団と、1試合で80球投げたら降板するという契約を結んでいたとする。それで80球投げたらベンチに下がるのは、本人の意思でもないし、監督の命令でもない、契約なんです。契約=法律によってすべてを動かすというのがキリスト教社会の基本です。
律法がないから法律をつくった
山口
アメリカと日本の会社組織には、契約に対する考え方の違いもありそうです。そこで先生にお伺いしたいのは、キリスト教には旧約聖書(The Old Testament)と新約聖書(The New Testament)があり、この「testament」は日本語にすれば「契約」という意味になります。この場合の契約というのは、神が人間の絶対的な保証者として意思を示すということですが、人と人の合意による契約と、宗教上はどう区別されるのでしょうか。
橋爪
契約の意味するところは同じでしょう。契約というのは、自由意志を持つ双方が結ぶものです。契約がなければ自由に行動する権利があるけれど、契約を結ぶことによってそこに制約が課せられ、契約を守るように行動するという性質のもので、そこはまったく同じですね。
聖書は、契約の相手が神であることが根本的な違いです。神との契約は絶対です。神の意思である契約を守ることによって、その安全保障の中に入るということですから。旧約聖書には、預言者のモーセに天の神から伝えられた意思(律法)が記述されていて、その意思を守ることが神との契約になる。新約聖書には天の神の子であるイエス・キリストの福音が記されているので、それを信じることで神との契約を守るということになります。
旧約聖書はユダヤ教の聖書(タナハ)で、その中に書かれていることは、信仰と生活のあらゆることに関する律法となっています。キリスト教ではそれらが効力停止の状態になっているため、律法はありません。だから、人間が法律やルールをつくり、ビジネスのセオリーもつくらなければならないのです。逆に考えると、ユダヤ教やイスラム教のように律法に縛られないので、聖書の教えを逸脱しない範囲で自由に法律をつくることもできるし、ビジネスを行うこともできる。だからこそ、キリスト教社会から近代化が進んだとも言えます。
山口
社会学の古典、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』では、「予定説」をはじめとしたプロテスタントの教義や考え方が資本主義の発展を後押ししたという、壮大な仮説が語られています。確かに、本格的な資本主義が生まれたのはプロテスタントの社会でしたが、先生はこの説についてどうお考えでしょうか。
橋爪
たぶんウェーバーの考えたとおりなのだろうとは思います。カルヴァン派の教義である予定説は、最後の審判でその人が神の国へ行けるかどうかはあらかじめ決まっているという考え方です。この教義を信じれば、人々は勤勉に働き、経済や社会が発展していくというのがウェーバーの仮説です。ちょっと聞いただけでは理解しにくいかもしれないけれど、自分は神の国へ行くことが決まっていると確信したいからこそ勤勉に働く、という論理ですね。
では、ウェーバーがなぜそんなことを考えたのかというと、母国のドイツでなかなか近代化が進まなかったからではないかと思うのです。イギリスはうまくいっているし、アメリカもうまくいっている。ドイツはそれらを追いかける立場でしたが、なかなかうまくいかない。国内を見渡してみると、当時のドイツはプロテスタントのルター派が主流でしたが、カトリック教徒も3分の1から4分の1ほどいた。当然、ユダヤ人もいたでしょう。
山口
宗教改革はルターに始まったのですから、ドイツはプロテスタンティズムの本家であり、元祖のような国ですよね。カトリックがそれほど多かったとは意外です。
橋爪
もともとカトリックの領邦もあったからだと考えられます。ルター派よりもプロテスタントとしてのあり方を徹底したのがカルヴァン派ですが、彼らはドイツにはそれほどいませんでした。概してカトリック社会では近代化があまりうまくいっていない。ルター派もカトリックに近いところがある。こうした宗教分布のためにドイツの発展が遅れているのだと、ウェーバーは半ば皮肉混じりに書いたのではないかと思うくらいです。
橋爪 大三郎(はしづめ だいさぶろう)
社会学者・東京工業大学 名誉教授。1977年東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。執筆活動を経て、1989年東京工業大学助教授。1995~2013年同教授(社会学)。著書に『言語ゲームと社会理論』(勁草書房)、『仏教の言説戦略』(勁草書房)、『世界がわかる宗教社会学入門』(筑摩書房)、『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)、『ゆかいな仏教』(サンガ新書)など多数。最新著は『4行でわかる世界の文明』(角川新書)。
山口 周(やまぐち しゅう)
独立研究者・著作家・パブリックスピーカー。1970年東京都生まれ。電通、BCGなどで戦略策定、文化政策立案、組織開発等に従事した後、独立。著書に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 』、『武器になる哲学』など。最新著は『ニュータイプの時代 新時代を生き抜く24の思考・行動様式』(ダイヤモンド社)。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院美学美術史学専攻修了。神奈川県葉山町に在住。
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