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東日本大震災からわずか5か月後。津波で致命的な被害を受けた水産業の町・釜石市唐丹(とうに)町に、新たな水産加工会社「釜石ヒカリフーズ株式会社」を立ち上げた、佐藤正一氏。持ち前の熱意で人々から共感と資金を集め、会社設立から1年後の2012年7月、ついに生産をスタートした。佐藤氏が目指す、地域再生の礎となる職場づくり、そして、"釜石ブランド"をつくるための新たな挑戦について話を聞いた。

「釜石ブランド マイナスからの挑戦」 第1回 >

地元の海産物を、うま味を逃さずに加工

画像: 釜石ヒカリフーズの社屋

釜石ヒカリフーズの社屋

2012年7月、釜石ヒカリフーズ株式会社は生産を開始した。会社設立からほぼ1年、震災からは1年半近くが経っていた。1階が工場、2階が事務所で構成された社屋は、唐丹町の湾に面している。

「唐丹の海水はとてもきれいなので、そのまま加工に使える。海水で魚の下処理をすることで、本来持っているうま味を逃さずに加工できます。それが海のすぐ近くを選んだ理由の一つです」

画像: 釜石港で水揚げされるサケ

釜石港で水揚げされるサケ

唐丹町では漁船のほとんどが津波で流されたが、釜石ヒカリフーズが工場の稼働を始めた頃には、すでに漁は再開されていた。工場では当初から、地元で獲れた海産物を仕入れて加工し、主に大手飲食業者に出荷してきた。

「まずは、ある程度の売り上げを確保しなければと考え、取り引き量の多いBtoBに特化して生産を始めました。扱っている海産物は、唐丹町の港で獲れたメカブや秋サケ、釜石港で獲れた水ダコ、真イカ、サバなどです。例えば、水ダコは、ひと口大にカットしたものに唐揚げ粉をまぶしたり、ボイルしてサラダ用に売り出しているほか、スライスしてすしネタ用にも出荷しています。また、秋サケからはイクラを採り、魚肉を下処理してフレークの原料として釜石の加工会社に卸しています」

全員、正社員として働いてほしい

画像: 工場での加工の様子

工場での加工の様子

生産を始めた当初、釜石ヒカリフーズのスタッフはわずか12名だった。佐藤氏が自ら地域をまわり、頭を下げて、来てもらった人材だ。

「被災して仮設住宅で生活していた人たちや、もともと水産加工に従事していた人を中心に、一人ずつ声をかけてまわりました。その後、ハローワークや地元の釜石商工高校にも説明に伺いました」

地域を再生させるために、雇用を生みたい。その信念を貫くために、佐藤氏はスタッフの待遇にも、あるこだわりを持っている。

「当社は、正規雇用が基本スタンスで、勤務初日から、社員全員に社会保険を適用しています。現在23人いる社員のうち、4人は自らの希望でパートタイム勤務を選んでいますが、わたしとしては、全員が正社員としてうちで働いてほしい。そうでないと、社員が安心して生活できないじゃないですか。それを可能にするのが、会社の役目だと思っています。単に産業を復興するだけでは、地域はよくなりません。まずは、社員によくなってほしい。これがやがて、地元への定住につながっていくと信じています」

さらに、若いスタッフが多いのも釜石ヒカリフーズの特徴だ。平均年齢は30代後半と、高齢化が進む水産業界ではかなり低い。

「子育て中の女性を、多く採用しています。子育てをしていると、例えば、子どもが熱を出してしまった時に、仕事を抜けて病院に連れて行かなくてはいけないですよね。そのために、時間の融通が利くパート勤務を選ばざるを得ない女性が多いと思いますが、生活していくのは大変じゃないですか。だから、当社は正規雇用が基本で、なおかつ、個人個人にフレックスタイムを適用しています。8時半から17時15分までが正規の勤務時間ですが、子どもを保育所に送るために9時半出勤の社員もいれば、15時退勤の社員もいます。子育てを終えてもずっと働いてもらえるように、柔軟にバックアップしています」

2013年には、佐藤氏を喜ばせるニュースが飛び込んだ。

「初めて、地元の高校を出た若者が新卒で入社したんです。もちろん、水産加工の経験のない子です。嬉しかったですね。若者には、夢を持って地元で働いてほしいですから」

雇用形態だけではない。佐藤氏は、工場内の作業環境にも工夫を凝らしている。

「作業中は、有線放送で音楽を流しています。チャンネルはスタッフの要望に合わせて毎日変えています。年齢層が18歳から63歳までと幅広いので、日によってジャンルがまったく違っていて面白いですよ」

なぜ、作業中に音楽を流すのか。そこには、震災後から続く地元住民の生活への配慮があった。

「生産を始めた当時、社員の半分以上が仮設住宅で生活していました。家に帰っても、壁が薄く防音もなされていないため、落ち着いて休めないという声を聞きました。だから、楽しみながらリラックスして働いてほしいと考えたんです。満足できる職場環境でなければ、会社の意味がないとわたしは思うので…」

重労働で魚臭いというイメージが強いと言われる水産業。それを変えたいと佐藤氏は考えている。

「当社では、きれいな工場を目指し、清掃を徹底することで、魚介の臭いをかなり抑えています。また、動線が一方通行になるよう作業エリアを配置することで、スタッフが安全で効率的に作業できる環境をつくりました。安心して水産業に従事してもらうことで、収入を得ることもでき、生活も安定すれば、みんなが地元に誇りを持てるようになる。それが、唐丹町の再生につながっていくと思うんです」

人との縁が、販路をゼロから切り拓く

ここで話は、まだ生産を始めていなかった2012年前半までさかのぼる。工場の稼働に先立って、佐藤氏は取り引き先の確保に悩んでいた。まったく白紙の状態から、開拓しなければならなかったからだ。苦境を救ったのは、会社の立ち上げ時から地道に作り上げてきた人脈だった。

「資本金を出資していただいた一般財団法人 東北共益投資基金の白石智哉さんから、経営面でのアドバイスを定期的にいただいていたので相談したところ、取り引き先を紹介してくださったんです。それが、居酒屋チェーン"はなの舞"を運営しているチムニーさんや、無添加食品の宅配サービスをしているらでぃっしゅぼーやさんでした。そのほか、さまざまな方からの紹介で、和食レストランを運営している梅の花さんや、ダイニングバーなどを展開しているダイナックさんとも契約を結ぶことができました。こういった首都圏の大口事業者との取り引きがなければ、生産を始めてもすぐに立ち行かなくなったと思います。自分の力だけではとても、販路を切り拓けなかった。人との出会いに感謝するしかありません」

2012年こそ収益は赤字だったものの、知り合った人々のツテで取り引き先は徐々に増加。生産を始めてから3年目には黒字となり、ようやく経営が安定軌道に乗り始めた。

パートナーとともに、ITの力で復興を加速する

販路の拡大と同時に、新たな問題も出てきた。

「慣れない表計算ソフトを使って業務管理をしていたんですが、増え続ける受注にだんだん追いつけなくなってきました。例えば、すしネタは、一度に何十万貫というオーダーになることもあります。こういった大口受注が重なるにつれ、表計算ソフトによる管理に限界を感じていました」

その頃佐藤氏は、あるIT企業の社員と知り合う。東京に本社を置く株式会社日立ソリューションズの、増田典生氏だ。

画像: 日立ソリューションズの増田典生氏(左)と佐藤氏

日立ソリューションズの増田典生氏(左)と佐藤氏

同社でCSRの推進を担当する増田氏は、東日本大震災で被害を受けた地域の復興に、ITで貢献できないかと考えていた。そんな増田氏に唐丹町を紹介したのが、被災した地場産業の復興を全国の企業とともに支援している、一般社団法人 新興事業創出機構(JEBDA)の理事長・鷹野秀征氏だった。そして、このJEBDAにフェローとして関わっていたのが、かつてカタールの投資ファンドを佐藤氏に紹介した株式会社経営共創基盤(当時)の柴田亮氏。いくつかの縁が重なり、佐藤氏と増田氏との出会いを呼んだ。

増田氏は、プロボノ*として復興支援への参加を志願した社内の技術者たちを引き連れ、2013年6月から、唐丹町に足しげく通い続けた。毎月のように行政や漁協、地域の有力者らと語らい、復興のためにITで何ができるかを模索。佐藤氏もその輪に加わり、震災後の地域の問題や、釜石ヒカリフーズが掲げる理念について、何度も熱く語った。

「それまでも、東京から復興支援のために唐丹を訪れてくれる企業はいくつもありましたが、地域が抱えている本質的な課題の相談に、腰を据えて乗ってくれる企業は初めてでした。増田さんたちは月に1度は東京から足を運んで、わたしたち地元の人間との話し合いの場を設け、"地域のために何かできることはないか"と、一緒になって考えてくれました。そこでわたしがお願いしたのが、当社の業務管理システムにメスを入れてもらうことでした」

ITを生業とする日立ソリューションズは、受注・発注、在庫、生産工程の管理といったシステム全体の段階的な改良作業に着手した。釜石ヒカリフーズの販路は拡大を続け、現在取り引きする企業は22社にのぼっている。ゆくゆくは、システムのクラウド化も視野に入れている。

画像: 増田氏らがリニューアルを手がけた、 唐丹町漁業協同組合のホームページ jf-tonicho.or.jp

増田氏らがリニューアルを手がけた、
唐丹町漁業協同組合のホームページ

jf-tonicho.or.jp


そのほかにも増田氏らは、唐丹町の情報発信力を高めたいという佐藤氏の紹介で、地元漁協のホームページの全面リニューアルも並行して手がけた。その取り組みに、佐藤氏は共感したと言う。

「過疎化が始まって水産業が衰退する中で、さらに震災の痛手も大きい唐丹町をどう復興させるか。増田さんたちは、地元が抱えている課題に、わたしたちとともに真剣に向き合ってくれました。その思いは、わたしが会社を立ち上げた理念にも共通するものでした」

* 専門的な技能を持つ人たちが、社会貢献のために無償または低報酬でサービスを提供すること。「公共善のために」を意味するラテン語「pro bono publico」に由来する。

地魚のブランド化と、名物「ドンコ」の流通

画像: 釜石で獲れるタラの一種、ドンコの刺し身

釜石で獲れるタラの一種、ドンコの刺し身

話は再び、2012年に戻る。佐藤氏には、地元の水産業を根本的に強化したいという思いがあった。

「地元で獲れる魚介類に付加価値をつけて、全国に流通させたい。魚そのものの価値が高まれば、地元の漁師から高値で買い取れるので、釜石の水産業が再び活気を取り戻せます。つまり、ブランド化ですね。そのためには、単に海産物を加工するだけではなく、優れた鮮度保持技術を採り入れる必要があります。しかし、この地域では、技術を使って魚の鮮度を維持し、遠方に流通させようという意識そのものがあまりなく、地元でしか消費されない魚もまだまだ多いんです。それではもったいないじゃないですか。魚の鮮度を上げて遠方にも出荷し、さらに、鮮度の低下速度を示すK値という指標を用いて客観的に評価したり、魚肉の硬さを硬度計で測ることで食感を数値化するなどして、それを世の中にアピールしていけば、"釜石の魚はおいしい"と多くの人に認知してもらえるはずですよね。そうなれば、この地域全体が潤うと思います。鮮度保持の意識を地域に醸成していくために、まずは当社が先陣を切って技術を採り入れていこうと考えました」

地元の漁港で獲れた魚介類を、"釜石ブランド"として売り出したい。佐藤氏には、とりわけ目をつけている特産の魚があった。

「地元で"ドンコ"と呼んでいる、タラの一種の深海魚です。この肝和えの刺身が絶品で、お酒にもよく合うんですよ。ただ、腐りやすく保存が難しいので、生食用に流通しているのは地元だけ。他の地域では、もっぱら鍋料理に使われています。ぜひ、このドンコを、刺身にして全国の人にも食べてほしい。そのためには、なんとしても鮮度保持の技術が必要なんです」

新たな冷蔵保存技術を求めて

佐藤氏には、鮮度保持技術を開発する資金も、模索している時間もなかった。そこで頼ったのが、公的機関だった。

「釜石市の企業立地課で、岩手大学に出向されていた山崎森敬さんという方に、まずは相談しました。そこでご紹介いただいたのが、ちょうど同大学の工学部が研究していた、-1℃でも魚肉を凍らさずに鮮度を保てるという技術でした」

佐藤氏は、その技術を使った販路開拓について研究しようと考えた。しかし、研究には多額の資金が必要になる。そこで山崎氏と協力し、研究資金の公募に望みをかけたが、残念ながら落選。佐藤氏が資金集めに苦労していた頃からその熱意に共感してきた山崎氏は、独立行政法人 科学技術振興機構 復興促進センターの盛岡事務所でマッチングプランナーを務める貫洞(かんどう)義一氏に、協力を求めた。マッチングプランナーとは、事業の復興に取り組む被災地企業のニーズを収集し、それを解決するためのシーズ(大学などの研究成果)を見つけ出して、企業と大学などとの共同研究を支援する、いわば仲介者だ。行き詰っていた佐藤氏にとって、貫洞氏が心強い存在になったことは言うまでもない。

「地域を再生したいというわたしの考えをお伝えしたところ、とても感動してくださって。"なんとか力になりたい"と、冷蔵保存技術の特許を、貫洞さんが全国で探してくださることになったんです。本当にありがたかった」
2012年、9月のことだった。

次回、佐藤氏はついに、画期的な冷蔵保存技術と出会う。"釜石ブランド"の確立を目指す佐藤氏の挑戦と、今後の展望について話を聞く。

画像: プロフィール 佐藤正一(さとうしょういち) 1960年、岩手県盛岡市生まれ。千葉商科大学を卒業後、株式会社東北銀行(本社:岩手県盛岡市)に入行し、県内各地の支店業務を担当する。1997年、釜石市内に工場を持つ水産加工会社に入社。2011年3月の東日本大震災により工場が撤退すると、5か月後の2011年8月、釜石市唐丹町に震災後県内第1号の新規企業となる水産加工法人、釜石ヒカリフーズ株式会社を設立。現在、同社代表取締役。

プロフィール
佐藤正一(さとうしょういち)
1960年、岩手県盛岡市生まれ。千葉商科大学を卒業後、株式会社東北銀行(本社:岩手県盛岡市)に入行し、県内各地の支店業務を担当する。1997年、釜石市内に工場を持つ水産加工会社に入社。2011年3月の東日本大震災により工場が撤退すると、5か月後の2011年8月、釜石市唐丹町に震災後県内第1号の新規企業となる水産加工法人、釜石ヒカリフーズ株式会社を設立。現在、同社代表取締役。

Next:「釜石ブランド マイナスからの挑戦」 第3回

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