2011年3月11日、この小さな町を東日本大震災が襲った。津波は堤防を越えて港と集落を破壊し、漁船のほとんどをさらった。その惨状を前にして、地域から消えかけた水産業の灯を再びともし、住民に自信と誇りを取り戻すために、立ち上がった一人の男がいる。水産加工会社、釜石ヒカリフーズ株式会社を設立した佐藤正一氏。すべてを失ったマイナスの状態から、いかに水産業の再起を図ったのか。被災から創業までの軌跡を追った。
38歳、銀行勤めから水産加工業へ
佐藤氏は、岩手県盛岡市生まれ。首都圏で大学生活を送ったのち、地元・盛岡に本社を置く株式会社東北銀行に就職した。
「岩手県内の支店を転々としました。営業と、主に中小企業向けの融資を担当しました」
業務を地道にこなし、着々と実績を挙げていった佐藤氏。将来は安泰かに見えた。しかし、1998年に転機が訪れる。当時、佐藤氏は38歳になっていた。
「釜石の水産加工会社を経営していた、妻の父が亡くなったんです。この時、直感で水産加工業への転職を決意しました。銀行で融資する側にいて、いつか書類ではなく実践の場で勝負してみたいという気持ちがずっとあったから。もちろん、水産業の経験も知識もなかったですよ。それでも、新しい世界に挑戦したいと思いました」
水産業界に勝負の場を求めた佐藤氏は、反対する家族を説得し、15年勤めた銀行を退職。一家を引き連れて三陸の釜石市に移り住み、亡くなった義父の水産加工会社に入った。事業内容は、イカやサンマ、サケといった魚介類の加工。佐藤氏は管理職として人事や総務をまとめながら、材料調達や加工の現場にも足しげく通い続けた。
「スタッフや地元の人たちとのコミュニケーションを、一番大切にしました。漁協や同業者の皆さん、市役所の水産課の方々など…いろいろな方とお酒を酌み交わしました。今も、お付き合いが続いています」
そして、転身から13年後の2011年。佐藤氏は、運命の3月11日を迎える。
水産業消滅の危機
その日、佐藤氏は仕事のため釜石市内にはいなかった。
「釜石から30km北にある、山田町の工場に行っていました。その時に見た津波が、今でも頭から離れません。まるで時間が止まったかのような、とても現実のものとは思えない光景でした。自宅のある釜石に戻れたのは、それから4日も後のことです。その間、家族とも連絡はとれませんでした」
幸い、佐藤氏の家族は無事だった。唐丹町の工場の様子を確かめに行ったのは、その翌日のことだ。変わり果てた町の姿に、佐藤氏は呆然とした。
「とにかく、何もありませんでした。高さ12メートルの防潮堤を乗り越えた津波が街をのみこんでしまい、平地は壊滅状態でした。それでも、亡くなった方は少なかった。唐丹町は明治の三陸津波で住民の多くが流されてしまった過去があるため、地域の防災意識が高いからです。ただ、道路は分断され、ガスや水道などのインフラはストップ。470隻あった漁船のほとんどが破壊されていました」
勤めていた水産加工会社は、工場の撤退を決定。あまりの惨状に、佐藤氏自身も実家のある盛岡に戻ることを一度は考えたと言う。しかし、揺らぐ佐藤氏の心をとらえたのは、地元の声だった。
「"水産会社を作ってくれ"と、多くの方から言われました。漁船だけでなく、漁協が持っていたサケの孵化処理場も津波で流されてしまい、水産業の再開はおぼつかない状況でした。さらに、水産業以外では数少ない働き口だった電子部品メーカーの工場も大きな被害を受け、撤退を余儀なくされてしまった。このままでは、人口1,800人の地区に、産業がなくなってしまいます。ただでさえ高齢化や人口流出に悩んでいた漁村が、雇用の受け皿がなければますます落ち込んでしまう。せっかく、水産加工で培ってきた技術をこの地域に伝えたい、仕事を最後までやり遂げたいという方が大勢いるのに…」
逃げたら絶対に後悔する
被災した唐丹町の人々の切実な思いを耳にし、佐藤氏は自問自答を繰り返した。
「自分たち家族だけがここを離れて、安全に生活していいのか? 釜石の人たちと13年間仕事させてもらってきて、積み上げてきたそのつながりを、反故(ほご)にしてしまっていいのか? 何のために、銀行を辞めてまで水産業にチャレンジしたのか…」
悩みぬいた末、佐藤氏は大きな決断をする。
「唐丹町に、水産加工会社を立ち上げようと決意しました。自分だけ逃げたら、絶対に後悔すると思った。あの日、たまたま別の場所にいたからこそ、活かされた命。そう考えると、わたしは、一度死んだも同然の身なんです」
もう、迷いはなかった。
「できるかどうかではなく、やらなきゃいけない。唐丹町には、水産業の復興が必要だと信じました」
しかし、佐藤氏にとって、起業は人生で初めて。復興事業もままならない震災直後のこの時期、相談できる相手もいなかった。道しるべとしたのは、先人たちの知恵だ。
「とにかく、本を読み漁りました。そのなかでわたしが行動の指針としたのは、ナポレオン・ヒルが書いた経営哲学書。その本の中に、ある青年実業家がパーティーで事業立ち上げの信念を語ったところ、それが資本家たちの心を動かし、巨額の投資を集めることができたというエピソードがありました。それを読んで、とても勇気づけられました。自分の熱意を人に伝え、共感を持ってもらえれば、きっと資金を招くことができる。そう、信じたんです」
思いを実現させるため、さっそく佐藤氏は法人登記の手続きをした。社名は「釜石ヒカリフーズ株式会社」とした。
「"復興への希望の光"となることと、"地域にとって将来にわたり光り輝く存在であり続けたい"という2つの意味を社名に込めました。さらに、地元の企業だということを印象づけるため、"釜石"の名を冠しました」
かくして、東日本大震災後、岩手県内では第1号となる新会社が釜石市唐丹町に誕生した。震災発生からわずか5カ月後のことだ。資金は、自腹による200万円だけだった。
銀行員時代の経験が活きる
会社は設立したものの、それだけでは事業は始められない。佐藤氏は、「やるしかない」の一念で精力的に動き回った。
「事業計画書の作成から、工場の設計と土地探し、資金集めに、人集め。これらを同時に進めました。うまくいくという自信なんかありませんでしたよ。事業をスタートさせるために、とにかく行動するしかなかった」
事業計画書の作成には、銀行員時代の経験が活きた。
「融資する側にいて、事業者が提出する書類を見ていたので、事業計画を立てる際に求められるポイントは押さえていました。経営計画は最低5年先までを見すえなければなりませんし、絵に描いた餅ではなく具体的なシミュレーションが必要です」
折りしも、国では被災地を対象にした復興予算の審議を進めていた。佐藤氏が申請を予定していたのは、中小企業庁と水産庁による補助金。そこで、事業計画を立てる際に3つのパターンをシミュレーションした。
「まず、補助金を想定額どおりもらえた場合。次に、補助金が想定額より少なかった場合。そして、補助金をもらえなかった場合です。どの状況になっても確実に事業を進められるよう、入念に計画を作成しました」
地域のための起業
しかし、結果は最悪のパターン。釜石ヒカリフーズは、2012年1月の4次補正予算でも、補助金を得られなかった。水産業の復興と被災地の雇用創出を目的としていても、新規事業だからという理由で、交付の対象外とされたのだ。
それでも、佐藤氏はあきらめない。まずは行政にアドバイスを仰いだ。
「釜石市水産農林課の菊池行夫課長に相談したところ、産業振興部の佐々隆裕次長につないでいただきました。そこで、補助金が得られない苦しい状況を説明し、会社設立にかける思いの丈を必死に訴えました。そうしたら、野田武則市長と、復興支援のため国土交通省から出向していた岩崎正光副市長、同じく財務省から出向していた嶋田賢和副市長(当時)に話が伝わったそうなんです。釜石の復興に情熱を注ぎ、職員の方々とともに身を粉にして働いてらっしゃる皆さんに、わたしの話はかなり強く響いたようです。"よし、やろう"と、すぐに企業立地協定の話が進みました。とても心強かったですね」
企業立地協定は、工場の建設および創業が円滑に進められるよう、市が協力する制度。雇用機会の拡大、産業の振興、地域経済の発展に寄与すると認められた新規事業を対象とするなど条件は厳しく、通常、締結には数カ月を要する。しかし、佐藤氏の誠意に共鳴した釜石市の行政トップは、釜石ヒカリフーズの一日でも早い創業が、地域にとって不可欠だと判断。わずか1カ月という異例の速さで締結に至った。2012年3月のことだ。
佐藤氏の熱意は、さらなる出会いを呼ぶ。副市長の嶋田氏が、新たなファンドを紹介してくれたのだ。東日本大震災後、被災地復興を支援するために仙台に設立された、一般財団法人 東北共益投資基金だ。
「東北共益投資基金は、いわゆる社会事業を支援する団体。その代表理事をされていた坂本忠弘さんと経営アドバイザーの白石智哉さんが、唐丹町の工場建築現場に直接お見えになり、わたしと会ってくださったんです。"自社だけが利益を得るのではなく、地域のために"という弊社の経営理念に、お二人とも強く共感していただき、投資してくださることになりました」
資本金として受けた投資額は1,300万円。設立当初わずか200万円だった資本金は、1,500万円になった。
共感が投資を呼ぶ
その一方で佐藤氏は、金融機関からの融資を得るため、事業計画書を携えて毎月のように窓口に出向いていた。そして、国からの補助金がもらえなかったことや、工場設計の進捗状況、建築にかかる費用などを、こまめに報告し続けた。
「融資を審査する側がどんな情報を欲しいかはわかっていたので、それを実行しただけです。単に"お金をください"だけでは、人を動かすことはできません。大切なのは熱意です。釜石ヒカリフーズの経営理念は、唐丹町の人々が自信と誇りを持って暮らせる地域をつくること。つまり、地域に利益をもたらすことが目的です。水産業の復興、雇用の創出、生活の安定、漁村の再生のために必要な事業なんだという思いを、金融機関に伝え続けました」
その努力が、徐々に実を結び始める。古巣の東北銀行からは運転資金を、株式会社日本政策金融公庫からは工場建設資金を、さらに、岩手県の外郭団体である公益財団法人いわて産業振興センターからは設備資金を融資してもらうことが決まった。そこには、人との縁を大切にしてきた佐藤氏の生き方が映し出されていた。
「ある支店でわたしの直属の上司だった方々が、そのころ東北銀行の副頭取と専務になられていました。そのお二人とは、銀行を辞めたあともずっと連絡をとらせていただいてたんです。また、日本政策金融公庫には、銀行員時代の先輩が移られていました。人とのつながりを大事にしてきてよかったなと、心底思いました」
さらに、海の向こうからも協力を得ることになる。
「震災から1年経った頃に、ある講演会に呼ばれ、水産業復興の思いを発表したことがありました。その時わたしの話に共感してくださったのが、当時、株式会社経営共創基盤というコンサルタント会社にお勤めだった柴田亮さんでした。この方から、カタール フレンド基金に申請して資金を受けてはどうかという提案をいただきました」
カタール フレンド基金は、東日本大震災の被災地復興支援プロジェクトへの資金援助を目的として、カタール国が設立したファンドだ。公的機関を支援対象としたものだが、釜石ヒカリフーズは市と立地協定を結んでいたために、水産業を復興するプロジェクトとして採択された。この投資を受けることで、佐藤氏は、水産物の保存に必要な冷凍システムや加工機械、環境に配慮した排水処理装置などを整備した。
こうして、資本金、建設費用、運転資金、設備資金が揃った。自己資金200万円からのスタートから、およそ1年。熱意が人を呼び、国内外から投資を招いた。しかし佐藤氏は、あくまで謙虚に振り返る。
「つくづく、人との出会いに助けられてきたなと思います。わたしの思いに共感してくださった方が、こうして協力の手を差し伸べてくださった。もし、打算だけでお願いしていたら、とても資金を集められなかったと思います」
そして2012年7月、ついに釜石ヒカリフーズの加工工場が稼働をスタートした。
次回は、稼働が始まった釜石ヒカリフーズの事業内容と生産体制、流通戦略について探る。
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