水車を回した子ども時代
わが国の、農業の担い手が不足している。しかし、これは今に始まったことではない。すでに、高度経済成長期の真っただ中にあった1960年代から、農業に従事する人の数はハイペースで減少の一途をたどっている。その背景にある、農業=重労働という現実。1954年に生まれ、高度成長の時代に農村地帯で育った佐藤晋也氏は、子ども心にそれを実感していた。
「当時、田んぼには水車で水を引いていたんですが、その水車を動かすのが、小学生のころのわたしの役目でした。これがとんでもない重労働で、"稲作はやりたくないな"と思っていました(笑)」
青森県、五所川原市の隣村。水田とリンゴ畑が広がる津軽平野に、佐藤氏は農家の次男として生まれた。
「わたしの家でも、コメとリンゴをつくっていました。まだ農業の機械化がされていないころで、舗装もされていない道路を、馬のソリに堆肥を積んで運んでいくのが当たり前でした」。
やがて、昭和の大合併によって村は五所川原市へと吸収。さらに、のどかな農村地帯にも経済成長の波が押し寄せてくる。佐藤氏は、その変化を肌で感じることになる。
「わたしが住んでいた村にも、自動車が入ってきたんです。リンゴ畑への薬剤の散布も、それまでは手で行っていたのが、だんだんと機械化されてきた。まさに、テクノロジーが農業に入り込んでいくさまを目の当たりにしました」。
リンゴの育種がしたい
幼くして稲作の大変さを知った佐藤少年だが、リンゴ栽培については別の感情を抱いていた。
「親戚に、育種家の前田顯三(けんぞう)という人がいました。この人が、小さいけれど果肉まで真っ赤な"御所川原"という品種のリンゴを栽培していたんです。この果実をもっと大きくできれば、コメよりリンゴのほうがもうかるんじゃないか…と、おぼろげながら感じていました。今で言う、商品の差別化ですね」。
育種とは、品種改良のこと。中学で理科が好きだった佐藤氏は、ここからリンゴの育種を志すことになる。大学進学を目指し、高校は普通科を希望。"将来、農業をやるのであれば"という条件で父親の許可をもらい、地元の五所川原高校に入学した。まだこの時点では、育種への思いは自分の胸中にとどめていた。
「入学したてのホームルームで、担任の先生が"おまえたちは将来何をやりたいのか"と、一人ひとりに訊いてきたんです。―わたしは、中身の赤いリンゴをもっと大きくして、農業でしっかりもうけたい。そうしないとこれからの農業は成り立たない―。人前で自分の夢を語ることで、"本当に育種をやりたいな"という気持ちが強くなっていきました」。
このときのクラス担任が、奇しくも生物の先生だった。"大学で育種をやりたい"と佐藤氏が相談したところ、勧められたのは東京農業大学。当時、農大には植物遺伝育種学の権威である近藤典生(のりお)博士がいた。
近藤先生に出会う
大都会へのあこがれも手伝って、東京農大の受験を決意した佐藤氏。なんとしてでも東京で育種の勉強がしたいと、必死になって父親に頼み込んだ。
「なかなか許してもらえなかったんですよ。"次男だから東京へ行かなくていい"って(笑) "卒業したら五所川原に帰って必ず農業をやるから"と約束して、ようやく上京を認めてもらいました」。
入試に合格し、念願の上京となった佐藤氏。あるたくらみを胸に、大学の門をくぐった。
「入学して初めての近藤先生の講義に、例の中身が赤いリンゴをポケットに忍ばせて行ったんです。講義が終わったあと、先生に近づいて行って、おそるおそるそのリンゴを見せたんです。"先生、僕はこれを大きくしたいんです"と。そうしたら先生は興味を示されて、研究室に連れていってくださいました」。
ここから、佐藤氏の東京での大学生活が忙しく動き出すことになる。
「研究室でリンゴを切って断面を見てもらったら "これはすごい形質だね。きみはこれをどう大きくするの?"と、問いかけられました。わたしは、薬剤を使えばすぐ大きくできるものと思っていました。でもそれは間違いだったんです。"まずは栽培の知識と技術を身につけなさい、育種はそのあとでもできる。観察を続ければ、その品種の形や特徴が見えてくる。大事なのは持続してやることだ"と、先生から教わりました」。
研究室に出入りする1年生
栽培の勉強が必要だと諭された佐藤氏は、近藤先生から果樹園芸学研究室を紹介される。まだ入学したての1年生にもかかわらず、研究室に出入りする権利を与えられたのだ。
「実は、わたしのような1年生が他に6人もいたんです。彼らと一緒に、3・4年生のゼミに参加させてもらいました。すると、地方によって農業にはさまざまな課題があるということがわかってきた。育種は、自分が思い描いていたような簡単なものではない。農業に対する考え方を変えていかなくてはと思いました」。
同じように意識の高い同期生や新たな知見に刺激を受けるなかで、佐藤氏にはある疑問が浮かんでいた。
「今までの農業が、だれかに操作されているような、なにか窮屈な感じがしてきたんです。なぜ、生産者が価格を決められないのか…。夏休みに帰省してリンゴの流通について調べていくうちに、値段は仲買人に決められているというしくみがわかってきました。そして、リンゴの値段がコメより断然いいということもわかってきた。津軽のリンゴが売れていることで、"リンゴ=赤い"のイメージが世の中で強くなっていけば、中まで赤いリンゴはきっと売れると確信しました」。
リンゴの育種への情熱をさらに高め、農業への視野を広げた大学生活。果樹栽培の勉強に明け暮れた佐藤氏は、いよいよ卒業の年を迎えた。
教員となる
大学を卒業したあとは、かねてからやりたかった育種に取り組みたいと考えていた佐藤氏。しかし、思いどおりの進路とはいかなかった。
「家庭の事情が変わり、わたしが実家を継ぐことになったんです。本当は、もっと大学で勉強したかったんですけどね…。とにかく地元に戻ることになったので、青森県の農業職の上級試験を受けたんですが、不合格でした。教員採用試験にはなんとか受かったので、ひとまず教員として県内で働くことになりました」。
佐藤氏は1977年に東京農大を卒業し、教師として新たな道を歩み始めた。しかし、意外な現場を担当することになる。
「農業の教員で採用されたはずが、なぜか養護学校に配属されたんです」。
赴任先は、現在の青森第一高等養護学校。予想だにしなかった環境だが、その後の教員生活の基礎となる貴重な経験ができた、と佐藤氏は言う。
「そこでは、教員が諦めてしまったら、生徒たちは死んでしまう、そんな危機感を持って教育に取り組んでいました。どういう形で生徒に手を差し伸べるべきか、どんな場合には生徒を見守るべきなのか。本当に危ないときには、それを即座に決断して教員が助けなければならない。弱者の気持ちを考えて、行動する。それを身に付けることができたと思います」。
この養護学校で、佐藤氏は7年間働いた。
農業教育の壁
そして1984年、30歳の年に佐藤氏は農業高校に異動となる。赴任先は、現在校長を務める五所川原農林高校だ。
「五農に来て10年目に、農業科の主任になったんです。そのときに、農業の技術をどうやって生徒に伝えるか、農業高校が地域にどう影響を与えられるかを課題とした取り組みを始めました。ところが、なかなかうまくいきませんでした」。
当時は、政府の減反政策が地方でも本格的に推し進められた時期。そこには、農業高校の教員である佐藤氏にとって難しい実情があった。
「減反が進められることで、いずれ農業だけでは食べていけなくなるのでは…と農家は不安になる。そこで、農作業にかかる時間を短くするために、農家は莫大な借金をしてまで、もっと効率よく作業できる機械を買おうとするんです。さらに、化学肥料や新しい品種を導入して、減反しても生産量を維持しようとする。一方で、それまでのコメの価格は食糧管理制度に守られていましたが、いつか必ず崩れるとわたしは感じていました。コメの生産を減らそうとする国の政策とは、逆のことを農家はやっているわけですから…。その矛盾に気づいたとき、ただ技術を教える教育では、生徒に対して正直じゃないな、と思ったんです。いくら新しい技術が生まれても、現実では地域の農業離れが進んでいる。そんななかで、高校で農業を教える意味があるのだろうか…どうすればよいのか、わからなくなってしまいました」。
答えを見いだせずにいた佐藤氏。そんな折り、一冊の本に出会う。
「ある教育関係の本のなかに、"農家出身の人は教育を使って人生を変えていった"という内容がありました。それは、農家に生まれた人たちが、農業を離れて他の職業に就くために、高卒という学歴を手に入れたということなんです。だから、社会に出て実際に農業をやるための教育は必要なかった。農業高校では、教科書に載っていることさえ教えていればよかったんです。しかし、そのままでは後継者が育たず、地域の農業を守ることはできません。もっと別の高等学校農業教育のやり方があるんじゃないか―。それを探るために、大学院で農業教育を研究しようと決めました」。
このとき、佐藤氏は40歳だった。
次回は、大学院で新たな高等学校農業教育のあり方を探求し、それを教育の現場に生かそうとする佐藤氏の取り組みについて探る。
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