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脳化社会へと移行してきた根本的な原因は、その人が何を現実と思うかという脳の仕組みにあると指摘する養老氏。脳は意識でコントロールできないものを排除しようとするクセがあって、脳化が進んだ社会では自然が自分と切り離されて考えられる傾向にあるが、本来はつながり合っているものだと話す。

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「第2回:本来、自分と自然はつながっている」
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人はうたかたであるという『方丈記』の世界観

山口
養老先生が指摘されてきた脳化社会への変化には、教育も関係しているのでしょうか。明治時代に教育の近代化という名の下に系統主義的教育、論理的思考が重視されるようになり、感受性や創造性、観察力といったものは劣後する資質として扱われるようになった。そうした教育を続けてきた結果が、答えの出ない問いについて考えなくなったことにつながっているようにも思うのですが。

養老
脳化社会について言えば、根本的な問題は「その人が何を現実と思っているか」ということです。そのことがよくわかるのが『方丈記』と『平家物語』です。両方とも同じような時代に成立していて、諸行無常というテーマも基本的に同じ。でも、『平家物語』はもっぱら人の世界を書いているのに対し、『方丈記』の鴨長明は人も社会も「鴨川のよどみに浮かぶうたかた」だと言っているでしょう。世界をそういうふうに見ているということですね。あの中に個人名は一つしか出てきません。仁和寺の隆暁法印というお坊さんが、飢饉で死屍累々となった京都の町で死者の額に「阿」の字を書いているという、そこだけです。だから鴨長明の現実の中に人はいないんですよ。僕は昔からどちらかというと『方丈記』が好きでね。やはり日本人の世界観ってそれなんじゃないかと。人が現実の世界から落ちてしまっている。はっきり言えば「どうでもいい」ということです。

山口
人間の脳は浸っている時間が長いものを現実として認識する傾向があると先生はおっしゃっていますが、鴨長明は人よりも、例えば自然などに関心が深かったので、彼の現実の中に人はあまりいなかったということでしょうか。

養老
そうでしょうね。僕は虫が好きだからよくわかるんだけど、あんなものに関心を持っているということは、逆に言うとほかのことに関心を持てないということですよね。『バカの壁』に書いたように、そういうことって本人がどう思っているかよりも、その人の行動を外から観察するとわかる。その人の行動を左右しているものこそが、その人にとっての現実なんですよね。だから僕は馬券が落ちていても拾いません(笑)。

山口
馬券を拾わない、というのは……。

養老
お札が落ちていたら拾いますよね。でも、馬券が落ちていたら、競馬をやっている人なら拾うかもしれないけれど、僕はわからないから拾うという行動には出ない。それは、馬券が僕にとっては現実ではないということですね。けれども、虫が歩いているのを発見したら必ず立ち止まって見て、正体を確かめる。
『方丈記』は、人と栖(すみか)のはかなさについて書いたものであって、人について書いたものではないわけです。鴨長明は人の世の権力や地位といったことにも一切関心がなかったと思います。だから、人間の世界が現実である人から見れば鴨長明は変わった人だろうけれど、そうじゃない世界では極めてまともな人ということですね。

山口
その人にとっての現実は、脳が浸っている時間が長いものだということから考えると、人工物=脳で考えてつくり出したもの、脳がコントロールできるものに囲まれていると、その世界がどんどん現実になっていってしまうということですね。それが都市化であり、脳化社会であると。

画像: 人はうたかたであるという『方丈記』の世界観

「情報化」とは実体から切り離すこと

養老
都市化が進んできたというのは、もともとの人間の脳、理性の働きによるところが大きいんです。自然、感覚、身体といったものは脳(意識)でコントロールできないから、脳はそれらが気に入らなくて排除しようとしますから。それが近代社会の原理なのだとすると、明治維新によって加速されたということは言えるでしょうね。
だから意識的に自然に触れるということを増やさないとバランスが崩れておかしなことになると僕は言ってきました。

山口
宮沢賢治の『春と修羅』の序文は「わたくしといふ現象は」から始まりますね。「風景やみんなといっしょに明滅しながらともっているひかり」だと言っています。環境と自分というものが不可分であるという感覚を持っていたのは、仏教、東洋思想が関係しているのかもしれないし、晴耕雨読な生活から得られたものかもしれないですね。

養老
理屈で言ったら、自分と畑、自分と自然はつながっていますよね。直径0.2ミリの受精卵が体重数十キロの大人になる、その数十キロは畑や田んぼ、あるいは山や海や川からとってきたものを食べて、できているわけですから。でも多くの人は、畑や田んぼや自然は自分と違う、独立して存在するものだと思っている。
鴨長明のおそるべきところは、世の中の人も栖も「河の流れ」と同じであると言っているところですよね。実際に、私たちの体の分子は常に新陳代謝されていて、おそらく1年で7割ぐらいの分子が入れ替わります。すなわち、人はまさに「流れる河」である。そのことを鴨長明は千年前に述べているんですから。

山口
福岡伸一先生も、人間の身体は分子やエネルギーの流れの中にある淀みのようなものだとおっしゃっています。身体の外と内も、生と死も、本来はゆるやかにつながっている状態なのですが、社会的には例えば「死」という状態を生きている状態と区別して定義しますね。グラデーションになっているはずのものを、どこかで切れているものとして扱っている。それは社会生活を営む上で仕方のない面もあるのかもしれませんが。

養老
それは情報と実体の違いですね。要するに情報化すると実体と切れてしまうんです。僕の言う「情報化」とは、自分の体験を言葉として表現するといったことのように、五感から入ってきたものごとを人に伝えるために情報に変えることです。例えば、僕が川を見て「川だ」と言う。それを聞いて誰かがその同じ川を見る。情報としては同じ川ですが、その実体である水は入れ替わっています。実体とは切り離されているわけです。それがまさに情報と実体の関係です。
都会の人は、自分の感覚から入ってくるものではなく、すでに情報化されたことばかり扱っているから、ものごとはきちんと切れるものだと思っています。でも、例えば川の流れに直接触れるとか、情報化されていないものを扱うと、きれいに切れるものじゃないということが実感としてわかる。その「わかる」というのは理屈じゃない、感覚なんです。(第3回へつづく

「第3回:真実はモノにあるのか、情報にあるのか」はこちら>

画像1: 「脳化社会」で排除された「自然」と「身体」を取り戻そう
情報に囲まれた現代人にこそ必要な感覚の世界
【その2】本来、自分と自然はつながっている

養老 孟司
1937年神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学大学院基礎医学博士課程を修了、医学博士号を取得。東京大学助手・助教授を経て、1981年解剖学第二講座教授。1995年退官。東京大学名誉教授。以後、北里大学教授、大正大学客員教授などを歴任。
1989年、『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞。2003年の『バカの壁』は450万部を超えるベストセラーとなった。他の著書に『唯脳論』(青土社)、『ヒトの壁』(新潮新書)など多数。

画像2: 「脳化社会」で排除された「自然」と「身体」を取り戻そう
情報に囲まれた現代人にこそ必要な感覚の世界
【その2】本来、自分と自然はつながっている

山口 周
1970年東京都生まれ。電通、ボストンコンサルティンググループなどで戦略策定、文化政策立案、組織開発等に従事した後、独立。
著書に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(光文社)、『武器になる哲学』(KADOKAWA)、『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社)、『ビジネスの未来』(プレジデント社)、『クリティカル・ビジネス・パラダイム』(プレジデント社)他多数。最新著は『人生の経営戦略 自分の人生を自分で考えて生きるための戦略コンセプト20』(ダイヤモンド社)。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院美学美術史学専攻修了。

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