解剖学者の養老孟司氏は、その問題の根源はシステマティックで、感覚よりも意識を優先させる「脳化社会」にあると指摘する。情報に囲まれ、身体を置き去りにしてきた現代社会の危うさ、その中でうまく生きるためのヒント、そして日本が変わるためのカギは何か――。養老孟司氏と山口周氏が縦横無尽に語り合う。
「第1回:21世紀の現実と、日本の可能性」
「第2回:本来、自分と自然はつながっている」はこちら>
「第3回:真実はモノにあるのか、情報にあるのか」はこちら>
「第4回:子どもが幸せな社会を取り戻せるか」はこちら>
「第5回:カタストロフと社会の構造転換」はこちら>
人間は簡単に変わらないもの
山口
今年は2025年で、21世紀に入ってもう四半世紀が経とうとしています。私はヘーゲルと同様に進歩的な歴史観を持っていましたから、21世紀には期待をしていたんです。フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』に記したように、民主主義が世界に広がる世紀になるのではないかと。ところが今は「つくづくがっかりさせられた」という気持ちでいます。養老先生は20世紀の半ばからこの世界をずっとご覧になってきて、21世紀についてはどのように感じておられますか。
養老
まあ、そんなものだろう、というところでしょうか。そもそも期待していないから、がっかりもしていない、みたいな。
山口
ロシアによるウクライナ侵攻が始まったのが2022年でしたが、100年前とほとんど同じことをやっていると感じました。やはり人間というのは、そう簡単に変わらないものなのかもしれないですね。21世紀初頭にはリベラリズムによる社会や人間の進歩が期待されていたのですが、ウクライナだけでなくパレスチナの問題、欧州で極右政党が台頭し、アメリカではトランプ大統領が再選し、と揺り戻しが起きています。こうしたことも、先生からすると「そんなものだろう」というところですか。
養老
ですね。僕ね、スティーブン・キング(アメリカの小説家)のホラー小説が好きでよく読むんです。
キングっておもしろくてね、アメリカの田舎の日常生活を丁寧に、読むほうが退屈するくらい丁寧に書くんです。その日常の世界がいつの間にか、ホラーの世界になっていくのが彼の作風なんですね。二つの世界が地続きになっている。トランプ再選は完全にそれだな、と思って。
山口
どういうことでしょう?
養老
日常の裂け目のようなものから、覆い隠していた矛盾が表出したということです。
だからキングは、フィクションやファンタジーみたいなものを書くアンチリアリズムの作家だと思われているけれど、そうじゃなくて、むしろあれがアメリカのリアルではないかと僕は思いますね。アメリカの日常は日本よりもはるかに危険で暴力と隣り合わせだし、安定した日常生活が崩壊する不安を常にはらんでいることを感じているんだと思います。
山口
本当の意味でのホラーとか、恐怖というのはそういうものだということですね。三島由紀夫が『小説とは何か』という評論の中で、柳田国男の『遠野物語』の第22節を取り上げています。幽霊が出てきて囲炉裏のそばを通ったら、置いてあった炭取(すみとり:炭を入れておくカゴ)に幽霊の着物の裾がちょっと触れて、その炭取の底が丸いのでくるくる回転したという話で、それを柳田国男は「裾にて炭取にさはりしに、丸き炭取なればくるくるとまはりたり。」と書いた、それこそが小説なんだと三島は言っています。つまりその一文によって幽霊という非現実のものが現実となる、物語に現実以上のリアリティが与えられるということですよね。スティーブン・キングのホラーも、そういうリアリティが素晴らしいと言われているけれど、むしろホラーで描かれる世界のほうがリアルなんじゃないかと先生はおっしゃるわけですね。

「知的なこと」が物質や体験と切り離されてきた
山口
今年は昭和100年の節目にも当たります。明治から数えると150年あまりという見方もできますけれど、日本は開国以来、今で言う国家安全保障という観点から西洋に倣った近代化を推し進め、先進国の一つに数えられるようになりました。ただ、西洋的なるものを受け入れる一方で、自分たちが連綿と受け継いできた日本的なるものに対する愛惜、愛着といったものも抱えてきて、そのあいだの調停ができないまま150年経ってしまったように思うのですが。
養老
そうですね。それはすごく感じますね。ただ、いわゆる西洋文明と、それとは異質な文明の折り合いをつけるということを日本の社会が本当にうまくやれたなら、今の世界の手本として人類のためになったかもしれない。
山口
それができる可能性はあるでしょうか。
養老
やってみるしかないでしょうね。日本がそうした異質な文明の融合の形を示すことができたなら、おっしゃったようなウクライナや中東の問題といったものを解決する上での参考になりえたと思います。けれど、日本自身がまだうまくできていないから。
山口
その原因はどこにあるとお考えですか。
養老
ものごとを考えるときの基盤のようなものがどこに置かれるのか、ということが問題なんです。僕ははじめ、それは「脳」だと思っていたのですが、そうではない。基本になっているのは「自然」ですね。よくユダヤ教、キリスト教、イスラム教は「砂漠の宗教」と言われます。苛酷な環境だからこそ厳しい絶対神が信仰された。日本の豊かな自然は砂漠の対極にありますから、そこへ一神教をベースとした西洋の思想を落とすことは本質的にできないのだと思います。このことが、二つの異質な文化や文明を合わせようとするとき、自分はどこに立つのかという問題につながってきます。
山口
自分がどこに立っているのか、という問いかけは明治以来ずっと続けられてきて、夏目漱石はそのことに苦しんだ人の典型だと思います。また昭和30年代頃に出ていた言論人、例えば小林秀雄や吉本隆明、文学者で言うと三島由紀夫などは、西洋と日本の調停というものがなかなかできない中で、この国をどうするのかということをずっと問い続けていたと思うんです。特に三島由紀夫はそのことを厳しく問うていたので、彼が亡くなった後、そうした空気が緩んだと言われていますね。
養老
わかります。
山口
養老先生は以前から、「答えは出なくても考え続けることが大切だ」とおっしゃっています。ところが、この西洋と日本を調停できるのかという明治以来の問いについて、日本人は考えることを止めてしまったようです。そうなったのは昭和40~50年ぐらいのことではないかと私は思うのですが、先生はどのように見立てていらっしゃいますか。
養老
「知的なこと」に対する見方が変わってきたのではないでしょうか。自然科学の実証主義みたいなものが社会・人文分野にも及んで、手続きを踏んでいるかどうかが重視されるようになった。僕は「脳化社会」と言ってきましたが、人間の脳は「ああすれば、こうなる」と因果律で考えるクセがあるから、答えの出ない問いとか、脳(意識)がコントロールできないことは排除しがちなんですね。知というものが物質的世界や身体的体験と切り離されてきたのですよ。今のAIはその典型ですよね。

養老 孟司
1937年神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学大学院基礎医学博士課程を修了、医学博士号を取得。東京大学助手・助教授を経て、1981年解剖学第二講座教授。1995年退官。東京大学名誉教授。以後、北里大学教授、大正大学客員教授などを歴任。
1989年、『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞。2003年の『バカの壁』は450万部を超えるベストセラーとなった。他の著書に『唯脳論』(青土社)、『ヒトの壁』(新潮新書)など多数。

山口 周
1970年東京都生まれ。電通、ボストンコンサルティンググループなどで戦略策定、文化政策立案、組織開発等に従事した後、独立。
著書に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(光文社)、『武器になる哲学』(KADOKAWA)、『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社)、『ビジネスの未来』(プレジデント社)、『クリティカル・ビジネス・パラダイム』(プレジデント社)他多数。最新著は『人生の経営戦略 自分の人生を自分で考えて生きるための戦略コンセプト20』(ダイヤモンド社)。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院美学美術史学専攻修了。
シリーズ紹介
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一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。
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