Hitachi
お問い合わせお問い合わせ

「第1回:本当に価値あるものは自分の内にある」はこちら>
「第2回:本当に価値あるものは自分の内にある」

「正解」のない問題と向き合う

禅の修行の中心は、「公案」と呼ばれる問題を師から与えられ、その公案に全身全霊で取り組むことです。第11回に書いた関山慧玄(かんざんえげん)禅師の逸話のような公案が数限りなくあり、修行僧はその中から師から与えられた公案について、毎日朝晩、師のところへ行って問答を行います。
公案は、論理的に考えれば正解があるような問題ではありません。そう言うと難しそうですが、考えてみれば世の中の問題、人生の問題には総じて正解などないものです。正解のない問題と向き合い、自分の内面から湧き出る答えを見つけ出そうとし続けることが禅の修行であると言えます。

修行中のあるとき、以前に出された公案と同じものを与えられたことがありました。そのことを指摘すると、師は「わかっとるからもう一回やってこい」と言います。そこで前と同じ答えを言ったところ、師は「おまえは前にもそう言った。この何年間かおまえは成長していないということだな」と言われました。
正解のある問題であれば、何年経っても正解は正解のままです。そうではないのが公案というものなのです。

今はほとんどの人がスマートフォンを持っていますから、何かわからないことがあればすぐ検索して調べることができます。美味しいお店の情報なども、クチコミや評価サイトを参考にすればいい。最近ではAIがレポートをまとめてくれたりもします。ただ、そこに書いてあるのは自分ではない誰かが書いたことや、誰かの考えです。参考にする程度なら構わないと思いますが、その中に正解があるわけではないということは、肝に銘じておかなければならないでしょう。

私たちは子どもの頃からテストで◯×をつけられてきたせいか、「正解」を出すことが大切だと思いがちです。何かにつけて正解を探し出そうとします。けれど、正解などというものは、実はどこにもないのかもしれません。大切なのは、自分の外側にある正解らしきものではなく、自分の内側にある感覚、自分が何を、どう感じているかということではないでしょうか。

外から入ってきたものは、自分の宝物にはならない

「從門入者不是家珍(もんよりいるものはこれかちんにあらず)」という言葉があります。
これは臨済宗の重要な公案集である『碧巌録(へきがんろく)』の第五則の評唱(公案の解釈と批評)に書かれている一節で、自分の外から入ってきたものは、本当の意味での自分の宝物にはならないという意味です。この一節はさらに、次のように続きます。「須(すべか)らく是れ自己の胸中より流出して蓋天蓋地(がいてんがいち)にして方に小分の相応あるべし」。自分の内側から湧き出るもので、天地をいっぱいにしなければならないという意味です。

外からの情報や他者から教えられたことは、しょせん借り物にすぎません。自分で体験したこと、自分で感じたことを背景として、自分の内面から湧き出るものにこそ本当の価値があるのです。
与えられた情報に頼っていると、自分自身の感覚や判断力は鈍っていきます。現代のように情報があふれる社会で自分を見失わないためには、自分の感覚や体験こそを信じる姿勢が必要であると思います。

『碧巌録』は、中国の宋の時代に雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)という禅僧が数ある公案の中から百則を選んでまとめた公案集に、圜悟克勤(えんごこくがん)という禅僧があとから説明や批評を加えたものです。
「從門入者不是家珍」はある公案の批評文の中に出てくる言葉で、そのもとの公案というのが、「挙(こ)す、雪峰(せっぽう)衆に示して云く、尽大地(じんだいち)撮(さつ)し来るに粟米粒の大きさの如し。面前に抛向(ほうこう)し、漆桶不会(しっつうふえ)。鼓を打って普請(ふしん)して看よ」というものです。
簡単に言うと、雪峰という和尚が大衆を前に「すべての大地というと大きいように思えるが、つまんでみれば粟や米一粒のようなものだ。今おまえたちの目の前に投げたぞ。わからなければ、みんなで探してみよ」と話したという意味です。

この話にはいくつかの解釈がありますが、一つには「ものの大小は相対的なものである」ということが言えるでしょう。私たちから見れば大きな地球も、宇宙全体から見れば小さな一つの星にすぎません。小さな米粒一つも、微生物から見れば巨大なものです。私たちは何かを見たとき、大きいとか小さいとか、長いとか短いとか瞬間的に思います。外から与えられた情報も含めた過去の経験から「ものさし」のようなものをつくり、対象物を測っているのです。それは、違う角度から見ればある種の固定観念、思い込みのようなものであるとも言え、そのせいで対象物の本当の大きさや価値を見失っている可能性もあります。

「ある」と「ない」のバランスをとる

最初に言ったように、これまでの常識や価値観が通用しなくなっている時代、そのようなものさしや鎧などは捨てることも必要でしょう。それは難しいことではありません。シンプルに考えて、シンプルに生きることです。余計なものを捨て、自分自身と向き合い、他人の評価ではなく自分はどう感じるのかを突き詰めていく、つまり自分に立ち返るということです。そして立ち返る自分は何者でもないということを知る。その境地をめざすのが禅であると言えます。

ビジネスの世界もそうですが、私たちが生きているこの現実世界は、さまざまなものが「ある」世界です。それに対して禅の世界は「ない」という世界。持たない、こだわらない、偏らないという世界です。人が生きていく上では、すべてを捨て去るというわけにはいきません。現実世界を生きつつも、何でも得ようとせず、必要ないものはできるだけ捨て、「ある」と「ない」のバランスをとることが、よく生きるということにつながるのではないかと思います。

正解はどこかにあるものではない。答えは自分の内にある。
混沌とした時代だからこそ、「從門入者不是家珍」という言葉が伝えるこのメッセージが生きてくるように思えます。

画像: 臨済宗公案集「碧巌録」

臨済宗公案集「碧巌録」

「第1回:本当に価値あるものは自分の内にある」はこちら>
「第2回:本当に価値あるものは自分の内にある」

画像: 「從門入者不是家珍(もんよりいるものはこれかちんにあらず)」
【その2】本当に価値あるものは自分の内にある

平井 正修(ひらい しょうしゅう)
臨済宗国泰寺派全生庵住職。1967年、東京生まれ。学習院大学法学部卒業後、1990年、静岡県三島市龍澤寺専門道場入山。2001年、下山。2003年、全生庵第七世住職就任。2016年、日本大学危機管理学部客員教授就任。現在、政界・財界人が多く参禅する全生庵にて、坐禅会や写経会など布教に努めている。『最後のサムライ山岡鐵舟』(教育評論社)、『坐禅のすすめ』(幻冬舎)、『忘れる力』(三笠書房)、『「安心」を得る』(徳間文庫)、『禅がすすめる力の抜き方』、『男の禅語』(ともに三笠書房・知的生きかた文庫)など著書多数。

シリーズ紹介

楠木建の「EFOビジネスレビュー」

一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。

山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」

山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。

協創の森から

社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。

新たな企業経営のかたち

パーパス、CSV、ESG、カスタマーサクセス、M&A、ブロックチェーン、アジャイルなど、経営戦略のキーワードをテーマに取り上げ、第一人者に話を聞く。

Key Leader's Voice

各界のビジネスリーダーに未来を創造する戦略を聞く。

経営戦略としての「働き方改革」

今後企業が持続的に成長していくために経営戦略として取り組むべき「働き方改革」。その本質に迫る。

ニューリーダーが開拓する新しい未来

新たな価値創造に挑む気鋭のニューリーダーに、その原動力と開拓する新しい未来を聞く。

日本発の経営戦略「J-CSV」の可能性

日本的経営の良さを活かしながら利益を生み出す「J-CSV」。その先進的な取り組みに迫る。

ベンチマーク・ニッポン

日本を元気にするイノベーターの、ビジョンと取り組みに迫る。

デジタル時代のマーケティング戦略

マーケティングにおける「デジタルシフト」を、いかに進めるべきか、第一人者の声や企業事例を紹介する。

私の仕事術

私たちの仕事や働き方の発想を変える、膨らませるヒントに満ちた偉才たちの仕事術を学ぶ。

EFO Salon

さまざまな分野で活躍する方からビジネスや生活における新しい気づきや価値を見出すための話を聞く。

禅のこころ

全生庵七世 平井正修住職に、こころを調え、自己と向き合う『禅のこころ』について話を聞く。

寄稿

八尋俊英の「創造者たち」~次世代ビジネスへの視点~

新世代のイノベーターをゲストに社会課題の解決策や新たな社会価値のつくり方を探る。

This article is a sponsored article by
''.