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一橋ビジネススクール教授 楠木建氏
とかく表層的な議論に陥りがちな人的資本経営。いかに長期視点を持つかが重要だと楠木氏は指摘する。

「第1回:『資本』とは。」はこちら>
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「第4回:長期視点の回復。」

※本記事は、2023年1月11日時点で書かれた内容となっています。

人的資本経営を巡る議論は「もっと研修や教育にお金を使わなくてはいけない」という表面的な話になりがちです。長期的な視点から投資し、将来のリターンを生むという、資本に対する本来の視点が欠けている。なぜそうなってしまうのか。

だれもが1つの会社に勤め続けるのが前提だった高度経済成長期、日本的経営がアメリカで高く評価されていました。中でも注目を集めたのが、入社後の手厚い社員教育でした。

一見、今で言う人的資本経営を実践していたようにも映ります。ずっとその会社に勤め続けるから教育を与えてもペイするという、極めて自然発生的な投資だったのではないかと思います。

今の日本は労働資本の流動性が高まり、転職する人が多くなっています。その結果、経営側は従業員をよりコストとして捉えるようになってきました。特に、非正規雇用という雇用形態は、いかにコストの安い労働力を調達するかを目的としている。人的資本の対極にある考え方です。

従業員は単純な労働力でありコストである。なんとかして抑えなくてはいけない――これは投資とは真逆にある、節約の発想です。節約志向の人にとって、投資という行動は単なる無駄遣いにしか見えない。そういう人は将来の価値について考えていません。

その3でもお話ししたように、儲かる商売のストーリーをつくるのはあくまでも経営者の仕事です。従業員がそこに責任を持つ必要はない。長期利益を獲得する戦略を、経営者が立てる。働く人はそれを見て、自分の仕事のスタイルや向き不向きとコンフリクトがある場合は、フィットしそうな戦略ストーリーを持ったほかの企業に行けばいい。いずれにせよ、サーブ権を握っているのは経営者です。「優秀な従業員が会社を良くしてくれるんじゃないか」という期待は人的資本への誤解であり、非常に甘い考え方です。

企業経営が評価される場所は3つです。まず、競争市場。お客さまに自分たちの商品やサービスを選んでもらう。次に、資本市場。投資先として自社を選んでもらう。投資家から評価されないと、株価が下がり企業価値が小さくなったりしてしまいます。そして、労働市場。ここで評価されないと、だれも働きに来てくれません。

すでに高度経済成長期から、競争市場の規律は企業経営に強く働いていました。そしてこの20年ぐらいで日本でも資本市場からの規律が働くようになり、結果的に企業の利益水準を押し上げました。

いよいよ労働市場からの規律が企業経営に作用するようになりました。これは非常に良いことです。働く人を人的資本と捉え、投資する。これができない会社はどんどん見捨てられていきます。「じゃあ、給料をちょっと上げますよ」という話ではない。大切なのは、従業員が生み出す将来の価値に対して投資できるかどうかです。短期投資というものはありません。長期投資以外、あり得ない。人的資本経営は、経営者がどれだけ長期視点に立てるかという試金石でもあります。

経営者、投資家、従業員という、企業を取り巻くステークホルダーの関係を短期視点で捉えると、トレードオフの関係になります。経営者は利益を出したい。そのために人件費を抑えたい。当然、従業員は怒る。経営者は経営の自由度を保ちたい。ところが投資家からは「もっと自社株を買いなさい」「レバレッジをかけなさい」「配当を上げなさい」などと突き上げられる。3つのステークホルダー間でつねに衝突が生じている。

長期視点に立って考えれば、話はまるで変わってきます。経営者が、稼ぐ力のある戦略ストーリーを構想する。従業員が、その実現に向けて仕事をする。稼ぐ力がますます高まり、結果的に労働分配される量も大きくなる。株価が上がる。経営者、従業員、投資家、すべてがハッピー。トレードオフがほどけ、ごく自然にトレードオンの関係になります。

トレードオフをトレードオンに転換するのが経営者の本領です。このことは長期の視点に立てるかどうかという問題とほとんど同じです。ですが、人間社会は短期視点に傾くように進化しがちです。

僕が学生の頃、大学の最寄りである国立駅には大きな伝言板が設置されていました。「先に行く、ヒロシ」みたいな書き込みで黒板はつねにいっぱい。携帯電話がない時代ですから、だれかと待ち合わせるにもほかに情報伝達の方法がなかったんです。合流できなかったら大変ですから、みんな事前に入念に連絡を取った上でデートをしたり飲み会に行ったりしていました。

今は、「とりあえず着いたら連絡入れます」。これで事足りる。先のことをあれこれ考えておく必要がない。技術進歩に伴って、視点や行動がどんどん短期的になってきています。

制度設計においても似た現象が起きています。例えば株式市場では――これは透明性の確保という文脈でもありますが――四半期ごとに即時Webサイトに決算報告を公開するというルールが整備されている。目先の数字に注意が行き、どんどん短期的な視点になっていく。

目先のことのほうがはっきり見える。放っておいたら必ず短期視点の方向に流れていくのが人間社会であり、それは経営でも同じです。では、だれが長期視点を回復するのか。僕はそこにリーダーの役割があると思います。

今、盛んに言われているリスキリング(再教育)や研修はもちろん大切です。経営者にとってもっと重要なのは、そういった投資をすることによってどんなリターンを得られるか――端的に言うと、どれだけ儲けることができ、どれだけ投資家や従業員に果実を与えられるのかを考えることです。

人的資本への投資の本質は「いい仕事」と「いい給料」です。働く側にとっても、働きがいはその2つしかない。ということは、仕事の内容をどう設定するかが大事になります。その人の能力や、どういう人になりたいのかを長期視点で見抜き、期待を伝えた上で、その人にとっていい仕事を与え、結果を評価し、報酬を支払う。

従業員一人ひとりが仕事を通じて成長し、その報酬としていい給料がもらえる。この好循環をつくっていくのが人的資本経営です。言われれば言われるほど当たり前の話です。経営の基礎にして根本の力が、今問われている。人間を資本として見ていなかった頃のほうが、むしろヘンだったというだけの話です。

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画像: 人的資本―その4
長期視点の回復。

楠木 建
一橋ビジネススクール教授
1964年東京生まれ。幼少期を南アフリカで過ごす。一橋大学大学院商学研究科博士課程修了(1992)。一橋大学商学部専任講師、一橋大学商学部助教授、一橋大学イノベーション研究センター助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科准教授、2010年より現職。

著書に『逆・タイムマシン経営論』(2020、日経BP社)、『室内生活 スローで過剰な読書論』(2019、晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる』(2019、文藝春秋)、『「好き嫌い」と才能』(2016、東洋経済新報社)、『好きなようにしてください:たった一つの「仕事」の原則』(2016、ダイヤモンド社)、『「好き嫌い」と経営』(2014、東洋経済新報社)、『戦略読書日記』(2013、プレジデント社)、『経営センスの論理』(2013、新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。

楠木教授からのお知らせ

思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
この10年ほどTwitterを使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。

・140字しか書けない
・オープンな場なので、仕事や生活経験の具体的な中身については書きにくい
・考えごとや主張をツイートすると、不特定多数の人から筋違いの攻撃を受ける

「楠木建の頭の中」は僕のTwitterの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
不定期ですが、メンバーの方々と直接話をする機会も持ちたいと思います。
ビジネスや経営に限らず、人間の世の中について考えることに興味関心をお持ちの方々のご参加をお待ちしております。DMM社のプラットフォーム(月額500円)を使っています。

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楠木健の頭の中

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楠木建の「EFOビジネスレビュー」

一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。

山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」

山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。

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パーパス、CSV、ESG、カスタマーサクセス、M&A、ブロックチェーン、アジャイルなど、経営戦略のキーワードをテーマに取り上げ、第一人者に話を聞く。

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日本を元気にするイノベーターの、ビジョンと取り組みに迫る。

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全生庵七世 平井正修住職に、こころを調え、自己と向き合う『禅のこころ』について話を聞く。

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新世代のイノベーターをゲストに社会課題の解決策や新たな社会価値のつくり方を探る。

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