「第1回:『資本』とは。」はこちら>
「第2回:豊かさの起源。」
「第3回:オプションを持って働く。」はこちら>
「第4回:長期視点の回復。」はこちら>
※本記事は、2023年1月11日時点で書かれた内容となっています。
昨年、経済学者のオデッド・ガローさんがお書きになった『格差の起源』という本が日本でも出版されました。この本でガローさんは、人類史における2つの大きな謎を解こうとしています。1つ目が、なぜ人類の生活水準は向上したのか。2つ目が、なぜ人類に格差が生まれたのか。――いずれの問いでもカギは人的資本にあります。
ガローさんはこう言います――今から2,000年前のイエス・キリストの時代のエルサレムの人がタイムスリップして、西暦1801年のオスマン帝国のエルサレムに行ったとする。もちろん文化は相当変わっているけれども、意外とすぐに順応できるのではないか。なぜなら、イエス・キリストの時代の知識や技能がそのまま通用したからだ。平均寿命もそんなに変わっていない。ところが、さらに200年後の21世紀のエルサレムに行ったらびっくりするだろう。世の中が劇的に豊かになっている――。
17世紀、ホッブズという思想家がいました。有名な著作『リヴァイアサン』の中で彼は、当時の人間社会を「万人の万人に対する闘争状態」と捉えています。当時のヨーロッパ社会は、平均寿命40歳以下、日が落ちれば街は真っ暗闇。生活用水を調達するにも、長い時間をかけて運ばなくてはならない。身体はたまにしか洗えないので不潔。生まれ育った場所から動く人なんてほとんどいない。読み書きもできないし、毎日同じものを食べている。間欠的に大規模な飢饉が起きて餓死する人が大勢いる――こういう時代でした。ホッブズの社会観は「人間の一生は不快で野蛮で短いもの」という前提に立たざるを得なかった。
とは言っても、太古の昔からそれなりに技術は進歩し続けている。マルサスという経済学者が、1798年に古典的名著『人口論』で興味深い指摘をしています。技術進歩がずっと続いているにもかかわらず、一向に人間社会が豊かにならないのはなぜか。この現象を説明するために考案したのが「マルサスの罠」と呼ばれるモデルです。技術革新で生産性が向上する。すると余剰食糧が生まれる。出生率が上がり、死亡率が下がる。人口が増大し、余剰食糧を食いつぶしてしまう。結局、1人あたりの生活水準はいつまでたっても元のまま――実際、18世紀までの世の中はずっとその論理に従って動いていました。
ヨーロッパの歴史にとってジャガイモがアメリカ大陸から伝わって来たことには大きな意味がありました。ヨーロッパはつねに飢饉と飢餓の脅威に直面してきました。ジャガイモがヨーロッパの土壌と気候に適合していたため、1570年頃にジャガイモが伝わったアイルランドでは一気に人々の生活が改善されました。1600年には140万人だった人口が1841年には820万人に増えました。その分、1人あたりの食料は小さくなり、結局以前の生活水準に戻ってしまう。これがマルサスの罠の成り行きです。
奇しくも『人口論』が出た1800年前後にマルサスの罠は崩れ、ヨーロッパの経済は停滞から成長へと一気にシフトします。この原動力はもちろん産業革命にあったのですが、オデッド・ガローさんが注目しているのは産業革命の意味がどこにあったのかという問題です。教育は産業革命以前からありましたが、道徳や倫理といった価値観を浸透させるためのものでした。仕事に役立つ技能的な教育は、地域や家庭の中で行われていた。ところが産業革命が起きたことで、進歩した技術を使いこなせる技能が必要になり、それを授けるための教育が重要になってきた。結果として、熟練した技能を持つ労働者への需要が増えました。
産業革命が最初に起きたイギリスでは、1833年に一般工場法で児童労働の制限が定められます。これを支持したのは、意外なことに労働者よりも資本家でした。なぜか。そのほうが工場経営者にとって得だからです。子どもにさせていた単純な作業が、産業革命で機械に代替された。ならば、いきなり子どもを働かせるよりも、基礎的な教育を与えた上で将来熟練工として働いてもらったほうが、より大きな価値を生み出せる。こうして「人的資本」の考え方が成立します。
産業革命以前、なぜ食糧が増えると人口も増えたのか。家庭にとっては子どもが労働力だったからです。頭数をそろえることが重要でした。産業革命が起きて、親は子どもを労働力として使うよりも教育を与えたほうがいいと考えるようになります。1920年代のアメリカでは、トラクターの需要が急増しました。このときの広告の宣伝文句は「トラクターを導入して子どもを学校に通わせよう」でした。
こうなると、子どもの数が減ります。子どもを労働力として見ていた頃は、頭数が多ければ多いほどよかった。ところが子どもを資本として見ると、一人ひとりが投資の対象になるので、多すぎると投資が分散してしまいます。19世紀の後半には、先進国の人口増加率や出生率が急減します。人的資本という概念の萌芽が見られ、読み書きや基本的な計算に始まり、さまざまな生産設備を使いこなす技能の教育が施されるようになりました。さらに、健康にも投資をするという考え方が生まれます。長く働いたほうが投資回収期間が長くなるからです。人を資本として見ると、そのほうが合理的です。
人間の世の中は、マルサスの罠が崩れて一気に豊かになっていきました。200年間で世界全体の1人あたりの所得は14倍、平均寿命は2倍以上。現在の人類の豊かさを生み出したのは、人的資源から人的資本への転換であるというのがガローさんの説明です。
20世紀になるとグローバルに人的資本投資が進みました。識字率の上昇や未就学児童の減少がどこの国でも確認できます。いずれも出世率が落ちるという現象とパラレルに動いています。人間を労働力と捉えているうちは成長が起きない。人間は資本であるという考え方が生まれたことで、人間の世の中は豊かになってきた。社会を人類史という大きなスケールで見ると、それがはっきりしてきます。(第3回へつづく)
楠木 建
一橋ビジネススクール教授
1964年東京生まれ。幼少期を南アフリカで過ごす。一橋大学大学院商学研究科博士課程修了(1992)。一橋大学商学部専任講師、一橋大学商学部助教授、一橋大学イノベーション研究センター助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科准教授、2010年より現職。
著書に『逆・タイムマシン経営論』(2020、日経BP社)、『室内生活 スローで過剰な読書論』(2019、晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる』(2019、文藝春秋)、『「好き嫌い」と才能』(2016、東洋経済新報社)、『好きなようにしてください:たった一つの「仕事」の原則』(2016、ダイヤモンド社)、『「好き嫌い」と経営』(2014、東洋経済新報社)、『戦略読書日記』(2013、プレジデント社)、『経営センスの論理』(2013、新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。
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経営戦略としての「働き方改革」
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日本的経営の良さを活かしながら利益を生み出す「J-CSV」。その先進的な取り組みに迫る。
ベンチマーク・ニッポン
日本を元気にするイノベーターの、ビジョンと取り組みに迫る。
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マーケティングにおける「デジタルシフト」を、いかに進めるべきか、第一人者の声や企業事例を紹介する。
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