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一橋ビジネススクール教授 楠木建氏
物事を、概念と対概念をもって考える。楠木氏がこの思考スタイルに取り組むようになったきっかけは、一冊の本との出会いにあった。

「第1回:市場、組織、取引コスト。」
「第2回:『ストーリー』の対概念。」はこちら>
「第3回:betterとdifferent。」はこちら>
「第4回:『OMOTENASHI』の対概念。」はこちら>

※本記事は、2022年9月12日時点で書かれた内容となっています。

何かについて考えるとき、必ず概念と対概念をもって考える。それが思考の根幹にあるんじゃないか――。僕がそう思うようになったきっかけは、学生のときに勉強した「取引コスト」という経済学の理論です。オリバー・ウィリアムソンさん(※)の『市場と企業組織』という本でそれを知り、非常にグッときました。

※ アメリカの経済学者(1932年~2020年)。取引費用経済学の権威であり、2009年ノーベル経済学賞を受賞。

取引コストという概念を鍵にして、さまざまな経済現象を普遍的に説明するのがこの理論です。あらゆる経済取引には取引コストがかかる。株を買うとき、買い手は株価に株数をかけた金額を支払いますが、そのほかに手数料がかかる。これが、素朴な取引コストの例です。

もっと抽象化して考えてみます。自分が求めているものを一番安く買いたい。そのためには情報収集にお金や時間がかかる。場合によっては、取引に際して契約を交わしたり、法律家に契約書を作ってもらわないといけない。契約したあとも、それがきちんと履行されているかどうかをモニターしないといけない。これらはすべて取引コストです。商品やサービスそのもののコストではなく、それらを手に入れるための取引に必要なコストのことです。

取引コストは、当たり前ですが、損益計算書の品目にはありません。あくまでも概念なのですが、非常にいろいろな物事を説明してくれるから面白い。全然関係ないと思っていたもの同士が、取引コストという補助線を引くとことごとくつながっていきます。いわば、概念の面白さの極みです。その真骨頂が、「経済取引がどういうときに市場というメカニズムを使って、どういうときに組織というメカニズムを使うのか」を取引コストで説明できるということです。つまり、さまざまな状況において取引コストが安いほうを人間は選ぶというわけです。

組織の対語はひとつには個人ですが、組織は個人の集合ですから、対概念というよりも含む・含まれるの関係。取引コストの理論は組織の対概念を市場だと考えます。市場でないものが組織であり、組織でないものが市場であるということです。

株式市場に代表される市場では、価格シグナルによって取引が決まります。しかも参入・退出が自由。いつ株取引するかは、まったくその人の自由です。一方、組織では、ある特定の主体――会社なら経営者が意思決定し、指示し、基本的には従業員みんながそれに従う。メンバーシップも市場と比べればずっと長期継続的です。

経済学を勉強した人は「市場の失敗」という話を聞いたことがあると思います。ある種の活動については市場メカニズムが機能しなくなってしまうという現象です。例えば、警察業務を民間企業がやっている国はほとんどないはずです。仮に警察業務を全部民間企業に任せた場合、業務が上手く行っているのかをモニターするのにものすごく高い取引コストがかかってしまう。だったら、政府という組織自らやったほうがいい。

「組織の失敗」もあります。組織というメカニズムだとコストがかかり過ぎるので、市場で取引したほうがいいケース。例えば、今まで政府がやってきたある仕事に対して、「それ、民間企業に任せたほうがいいんじゃないの?」という声が挙がる。これが組織の失敗です。取引コストという補助線を引くことで、まったく別々に見えていた市場と組織が実は連続した次元の両極になっている。ちょうど概念と対概念の関係になっていることがよくわかります。

そう考えると、なぜ会社というものができたのかという根本的な問いの答えが見えてきます。すべて市場に任せているという状況だと、いろいろな問題が起きてくる。それを克服するために、会社ができたというのが取引コストの理論による説明です。

例えば、職人同士が一人ひとりバラバラに仕事をして、それぞれがつくった商品を市場で売り買いして商売を成り立たせていると仮定します。どんどん大規模かつ複雑になってくると、さすがに個人同士の取引ではやっていけなくなるので、上司と部下という指揮系統を持った単純な階層組織が生まれる。さらに、それぞれの機能を担当する組織がバラバラに動くと、これまた取引コストが大きくなるので、垂直統合が進んでいく。販売しかしていなかった会社が生産も手掛けるようになる。開発しかしていなかった会社が生産・流通まで手を広げる。こうして、会社という大規模組織が誕生したわけです。

取引コストというレンズ一発で、会社がどうやってできたのかという、とんでもなく深い問題が説明できてしまう。ここに僕はグッと来ます。「会社って何だろう?」と考えるときに、市場という対概念を置くと会社の本質がよくわかる。「市場主義は良くない」とか、「市場は効率的だからなるべく市場に任せよう」という意見もありますが、どちらにせよ、組織という対概念を置いて考えることで、市場の意味や意義がよくわかる。

市場という「概念」と、組織という「対概念」。その間をつなぐ取引コストという「次元」。この3点セットが知的な思考の基盤であり、こういう考え方ができるかどうかが知的な能力の正体なのではないか。僕はそう考えています。(第2回へつづく)

「第2回:『ストーリー』の対概念。」はこちら>

画像: 概念と対概念―その1
市場、組織、取引コスト。

楠木 建
一橋ビジネススクール教授
1964年東京生まれ。幼少期を南アフリカで過ごす。一橋大学大学院商学研究科博士課程修了(1992)。一橋大学商学部専任講師、一橋大学商学部助教授、一橋大学イノベーション研究センター助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科准教授、2010年より現職。

著書に『逆・タイムマシン経営論』(2020,日経BP社)、『室内生活 スローで過剰な読書論』(2019、晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる』(2019、文藝春秋)、『「好き嫌い」と才能』(2016、東洋経済新報社)、『好きなようにしてください:たった一つの「仕事」の原則』(2016、ダイヤモンド社)、『「好き嫌い」と経営』(2014、東洋経済新報社)、『戦略読書日記』(2013、プレジデント社)、『経営センスの論理』(2013、新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。

楠木教授からのお知らせ

思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
この10年ほどTwitterを使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。

・140字しか書けない
・オープンな場なので、仕事や生活経験の具体的な中身については書きにくい
・考えごとや主張をツイートすると、不特定多数の人から筋違いの攻撃を受ける

「楠木建の頭の中」は僕のTwitterの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
不定期ですが、メンバーの方々と直接話をする機会も持ちたいと思います。
ビジネスや経営に限らず、人間の世の中について考えることに興味関心をお持ちの方々のご参加をお待ちしております。DMM社のプラットフォーム(月額500円)を使っています。

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楠木健の頭の中

シリーズ紹介

楠木建の「EFOビジネスレビュー」

一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。

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山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。

協創の森から

社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。

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パーパス、CSV、ESG、カスタマーサクセス、M&A、ブロックチェーン、アジャイルなど、経営戦略のキーワードをテーマに取り上げ、第一人者に話を聞く。

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