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一橋ビジネススクール教授 楠木建氏
今回は、女優引退後に高峰秀子が送った日常生活に焦点を当てる。そこには「プロの生活者」として研ぎ澄まされた高峰流の哲学があった。

「第1回:大女優にして名文家。」はこちら>
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「第4回:プロの生活者。」
「第5回:人間の天才。」はこちら>

※本記事は、2022年8月4日時点で書かれた内容となっています。

高峰秀子さんがお亡くなりになったあとも、未発表のエッセイがいくつか書籍化されています。その1つに、河出書房新社から出版されている『私のごひいき』という本があります。「95の小さな愛用品たち」という副題が示すように、高峰さんご自身の持っている物について書かれたエッセイです。紹介されている物のほとんどが台所用品。彼女は女優を引退して執筆の世界に入ったわけですが、ずっと家にいる。メインの仕事場は机ではなく、台所でした。

彼女は30歳で、脚本家で映画監督の松山善三さんと結婚します。松山さんは当時まったく無名の助監督だったので、このニュースに世間は驚いたそうです。

高峰さんご自身は、幸せな家庭生活というものを一切経験せずに、成り行きで5歳からいきなり大女優として生きてきました。とんでもない知性と教養をお持ちだったことは彼女の書く文章を読めば一目瞭然ですが、気の毒なことに学校教育をほとんど受けていません。小数を含む割り算は最期までできなかったそうです。スーパーで買い物をするときに、「30%オフ」の値札を数量的にはつかめなかったんじゃないか、と推測する人もいます。

不幸な家庭で育っただけに、自分は思い通りに理想の家庭を築きたい。そう思っていた高峰さんは、松山さんとの結婚生活に自分の身を捧げていきます。料理を作って台所で長く過ごし、生活への工夫を重ねる。そのプロセスを日常の楽しみとする。それが高峰さんにとっての幸せな家庭であり、結果として日常生活の達人になっていきます。『私のごひいき』を読むと、達人の日常が見えてくるわけですが、とにかく道具へのこだわりが強い。映画女優を引退してからは忙しい家事の合間に執筆をし、時折街に出ては好みの道具を見つけて買ってきたそうです。

高峰さんはその生い立ちからして、基本的に人間嫌いで、人との付き合いもほとんどない。しかも仕事における自分への評価に対しては、虚無的な哲学をお持ちだった。その反動で、自分の手で触ることができて、自分の手で動かせる道具にすごくこだわったんじゃないか。――これが僕の推測です。

『私のごひいき』は、1974年から1994年まで20年にわたってある雑誌に121回連載された文章を本にしたものです。ごく軽い感じのエッセイではあるんですが、こういう地味な連載を20年間続けるところが、やっぱり高峰秀子なんですね。依頼された仕事のうち99%は受けない。でも受けた仕事は長々とやる。さすがに僕のこの連載は20年もできないでしょうけれど、高峰先生に倣えば、もうちょっとは続けたいと思っています。

この本では実にさまざまな道具を紹介していらっしゃるんですが、選択基準がハッキリしていて20年間まったく変わりません。第一に、一般の方々に紹介するので、気安く買える程度の値段であること。第二に、シンプルで実用的で、つねに役に立つもの。第三に、日本で買えるもの。この3つの条件でご自身の持ち物の中から取り上げることを、連載を引き受けたときに決めたそうです。以来、20年間ずっと守り続けた。これがプロの仕事です。

あとで知ったのですが、連載当時、高峰さんは西武百貨店のアドバイザーをされていました。月に1回、マーチャンダイズ(商品計画)の会議に出席されていたようです。プロの生活者である高峰秀子さんをアドバイザーに招くというセンス。当時の西武に勢いがあった理由がわかる気がします。(第5回へつづく)

「第5回:人間の天才。」はこちら>

画像: 心の師「高峰秀子」の教え―その4
プロの生活者。

楠木 建
一橋ビジネススクール教授
1964年東京生まれ。幼少期を南アフリカで過ごす。一橋大学大学院商学研究科博士課程修了(1992)。一橋大学商学部専任講師、一橋大学商学部助教授、一橋大学イノベーション研究センター助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科准教授、2010年より現職。

著書に『逆・タイムマシン経営論』(2020,日経BP社)、『室内生活 スローで過剰な読書論』(2019、晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる』(2019、文藝春秋)、『「好き嫌い」と才能』(2016、東洋経済新報社)、『好きなようにしてください:たった一つの「仕事」の原則』(2016、ダイヤモンド社)、『「好き嫌い」と経営』(2014、東洋経済新報社)、『戦略読書日記』(2013、プレジデント社)、『経営センスの論理』(2013、新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。

楠木教授からのお知らせ

思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
この10年ほどTwitterを使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。

・140字しか書けない
・オープンな場なので、仕事や生活経験の具体的な中身については書きにくい
・考えごとや主張をツイートすると、不特定多数の人から筋違いの攻撃を受ける

「楠木建の頭の中」は僕のTwitterの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
不定期ですが、メンバーの方々と直接話をする機会も持ちたいと思います。
ビジネスや経営に限らず、人間の世の中について考えることに興味関心をお持ちの方々のご参加をお待ちしております。DMM社のプラットフォーム(月額500円)を使っています。

お申し込みはこちらまで
https://lounge.dmm.com/detail/2069/

ご参加をお待ちしております。

楠木健の頭の中

シリーズ紹介

楠木建の「EFOビジネスレビュー」

一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。

山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」

山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。

協創の森から

社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。

新たな企業経営のかたち

パーパス、CSV、ESG、カスタマーサクセス、M&A、ブロックチェーン、アジャイルなど、経営戦略のキーワードをテーマに取り上げ、第一人者に話を聞く。

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各界のビジネスリーダーに未来を創造する戦略を聞く。

経営戦略としての「働き方改革」

今後企業が持続的に成長していくために経営戦略として取り組むべき「働き方改革」。その本質に迫る。

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新たな価値創造に挑む気鋭のニューリーダーに、その原動力と開拓する新しい未来を聞く。

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日本的経営の良さを活かしながら利益を生み出す「J-CSV」。その先進的な取り組みに迫る。

ベンチマーク・ニッポン

日本を元気にするイノベーターの、ビジョンと取り組みに迫る。

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マーケティングにおける「デジタルシフト」を、いかに進めるべきか、第一人者の声や企業事例を紹介する。

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私たちの仕事や働き方の発想を変える、膨らませるヒントに満ちた偉才たちの仕事術を学ぶ。

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さまざまな分野で活躍する方からビジネスや生活における新しい気づきや価値を見出すための話を聞く。

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明治期に始まる産業振興と文明開化、日本社会の近代化に多大な影響を及ぼした岩倉使節団。産業史的な観点から、いま一度この偉業を見つめ直す。

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新世代のイノベーターをゲストに社会課題の解決策や新たな社会価値のつくり方を探る。

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