「第1回:大女優にして名文家。」はこちら>
「第2回:客観の人。」はこちら>
「第3回:劣情と教養。」
「第4回:プロの生活者。」はこちら>
「第5回:人間の天才。」はこちら>
※本記事は、2022年8月4日時点で書かれた内容となっています。
僕の価値基準は、高峰秀子さんから大いに影響を受けています。
高峰さんが亡くなったあとに編集された、『高峰秀子の反骨』という本があります。ここに生前の彼女の言葉が引用されています。1971年、46歳の高峰さんはこんなことをおっしゃっています。――自分はあんまりテレビを見ないのだけれども、クイズ番組をしょっちゅうやっているのは知っている。クイズに正解するといろいろな賞品をもらったり、外国旅行に行けたりするらしい。これこそ、あらゆる低俗の中で最も卑しい部類に入る行為なんじゃないか。そういうことはもう、やめたらどうか――。
こういうちょっとしたコメント1つを取っても、いろいろと考えさせられます。彼女が批判しているのは「劣情」、劣った情動です。いい物が欲しいとか、お金が欲しい、おいしい物を食べたい、みんなに褒められたいといった情動は、人間である以上だれもが多かれ少なかれ持っている。ここまでであれば人間の本能であって、劣情ではない。
金が欲しければ自分で稼げばいいし、おいしいものが食べたければ自分が稼いだ金で食べればいい。ちやほやされたい人は自分の力でそういう状態を手に入れればいい。要は好みの問題です。大した理由もないのに手っ取り早く、うまいこと自分の利得を手に入れようとする。こうなるともはや劣情です。
いきなり「お金をください」なんて言う人はさすがにいません。卑しいことだからです。それと同じ論理で、僕は「感動をありがとう」という言葉を嫌悪します。感動は果たして「もらうもの」なのか。「もっと感動させてくれ」みたいな感情は、最も卑しい劣情なんじゃないか。
人間は放っておくと劣情に負けることもある。僕も週に3回ぐらいは劣情に負けているんですが、高峰さんのおかげでそれが「人間として劣った情動である」と自覚できるようになりました。自分の劣情を劣情と知らず躊躇なく全開にしている人を見ると、こうなったら人間おしまいだな――そう思えるようになりました。高峰さんの著作から僕が深い影響を受けてきたことの一例です。
高峰さんは自分の生活、自分の持ち物に非常にこだわる人です。自分の趣味やセンス、スタイルで厳選した、気に入った物しか周りに置かない、身に着けない。服飾自体は表面的なものですが、その人の本質がにじみ出る。そこに高峰さんの生活哲学を学ぶことができます。
彼女の服飾の原則はこうです。人前で目立ってはいけない。おしゃれは飛び出してはいけない。これはかつての本職だった俳優としての仕事哲学とも完全に一致しています。高峰さんはつねに主役ですが、単なる配役の1つに過ぎない。主役だからといって自分だけが前に出ると、作品が壊れてしまう。画面から飛び出さずに作品と調和する、それがイイ主役である。服飾や趣味にも、この考え方が表れています。表層的な見た目、深層に潜む哲学、すべてに筋が1本通っていて全部が統合されている。そこにシビれます。
高峰さんについて知っていくうちに僕は、彼女が何をしたかではなく、何をしなかったかをよく見るようになりました。彼女が絶対にしなかったことを知れば、生きていく指針としてほとんど完全なものを手に入れられると考えたからです。
高峰さんは人から「趣味がいいですね」と言われるたびにこう答えています。「いいかどうかはわからないけど、あるね、趣味は」。つまり、スタイルというものはあるか・ないかの問題であり、その一つひとつに自分自身による強烈な選択がある。決して二兎を追わない高峰さんの生き方は、僕の仕事である競争戦略の考え方にも強い影響を与えています。
「自分のことを本当に知っている人、自分のことを本当に考えられるのは自分しかいない」と高峰さんはおっしゃいます。洋服とかいろいろな趣味についてもまったくそうで、自分をよく知って、初めてしっかり物を選ぶことができる。これは洋服だけではなく、仕事や生活のすべてに当てはまる原理原則と言える。
一言で表すと教養です。自分の価値基準を知り、自分の言葉で言語化する。それに沿って生きていく。これが一番イイ生き方だと思うんです。
高峰さんから影響を受けた方々の多くが「住む世界が違うので会えなかった」「生きた時代が違うので会えなかった」と書き残しています。その中に、「同じ世界に高峰さんがいたということだけで幸せだ」と書いている方がいました。まったく同感です。もちろん、一度でいいからお目にかかりたかった。実際にお目にかかったらどんな感じなのか――いつの時代の高峰さんなのかにもよりますが、おそらく、あまりオーラを感じない、わりと普通の人として僕は認識するんじゃないか。そんな勝手な空想をしています。
高峰さんはご自身の子どもを持たなかったのですが、斎藤明美さんという方を養女にしています。斎藤さんは編集者であり、やはり文筆家としても活動されています。しばらく前、ご縁があって、斎藤さんと打ち合わせをするためにご自宅にお邪魔したことがあります。内装や生活道具など、高峰さんがお住まいになっていた当時のまま残されていました。「ああ、ここで暮らしていらっしゃったんだな……」――しみじみと感慨に打たれました。(第4回へつづく)
楠木 建
一橋ビジネススクール教授
1964年東京生まれ。幼少期を南アフリカで過ごす。一橋大学大学院商学研究科博士課程修了(1992)。一橋大学商学部専任講師、一橋大学商学部助教授、一橋大学イノベーション研究センター助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科准教授、2010年より現職。
著書に『逆・タイムマシン経営論』(2020,日経BP社)、『室内生活 スローで過剰な読書論』(2019、晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる』(2019、文藝春秋)、『「好き嫌い」と才能』(2016、東洋経済新報社)、『好きなようにしてください:たった一つの「仕事」の原則』(2016、ダイヤモンド社)、『「好き嫌い」と経営』(2014、東洋経済新報社)、『戦略読書日記』(2013、プレジデント社)、『経営センスの論理』(2013、新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。
楠木教授からのお知らせ
思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
この10年ほどTwitterを使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。
・140字しか書けない
・オープンな場なので、仕事や生活経験の具体的な中身については書きにくい
・考えごとや主張をツイートすると、不特定多数の人から筋違いの攻撃を受ける
「楠木建の頭の中」は僕のTwitterの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
不定期ですが、メンバーの方々と直接話をする機会も持ちたいと思います。
ビジネスや経営に限らず、人間の世の中について考えることに興味関心をお持ちの方々のご参加をお待ちしております。DMM社のプラットフォーム(月額500円)を使っています。
お申し込みはこちらまで
https://lounge.dmm.com/detail/2069/
ご参加をお待ちしております。
シリーズ紹介
楠木建の「EFOビジネスレビュー」
一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。
山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」
山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。
協創の森から
社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。
新たな企業経営のかたち
パーパス、CSV、ESG、カスタマーサクセス、M&A、ブロックチェーン、アジャイルなど、経営戦略のキーワードをテーマに取り上げ、第一人者に話を聞く。
Key Leader's Voice
各界のビジネスリーダーに未来を創造する戦略を聞く。
経営戦略としての「働き方改革」
今後企業が持続的に成長していくために経営戦略として取り組むべき「働き方改革」。その本質に迫る。
ニューリーダーが開拓する新しい未来
新たな価値創造に挑む気鋭のニューリーダーに、その原動力と開拓する新しい未来を聞く。
日本発の経営戦略「J-CSV」の可能性
日本的経営の良さを活かしながら利益を生み出す「J-CSV」。その先進的な取り組みに迫る。
ベンチマーク・ニッポン
日本を元気にするイノベーターの、ビジョンと取り組みに迫る。
デジタル時代のマーケティング戦略
マーケティングにおける「デジタルシフト」を、いかに進めるべきか、第一人者の声や企業事例を紹介する。
私の仕事術
私たちの仕事や働き方の発想を変える、膨らませるヒントに満ちた偉才たちの仕事術を学ぶ。
EFO Salon
さまざまな分野で活躍する方からビジネスや生活における新しい気づきや価値を見出すための話を聞く。
禅のこころ
全生庵七世 平井正修住職に、こころを調え、自己と向き合う『禅のこころ』について話を聞く。
岩倉使節団が遺したもの—日本近代化への懸け橋
明治期に始まる産業振興と文明開化、日本社会の近代化に多大な影響を及ぼした岩倉使節団。産業史的な観点から、いま一度この偉業を見つめ直す。
八尋俊英の「創造者たち」~次世代ビジネスへの視点~
新世代のイノベーターをゲストに社会課題の解決策や新たな社会価値のつくり方を探る。