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一橋ビジネススクール教授 楠木建氏
不世出の名優・高峰秀子は、物事を客観的に捉える達人でもあった。楠木氏が彼女から最も影響を受けた一冊とは。

「第1回:大女優にして名文家。」はこちら>
「第2回:客観の人。」
「第3回:劣情と教養。」はこちら>
「第4回:プロの生活者。」はこちら>
「第5回:人間の天才。」はこちら>

※本記事は、2022年8月4日時点で書かれた内容となっています。

僕は高峰秀子さんがお書きになった本はもちろん全部読んでいます。高峰さんの周囲の方がお書きになった本も、見つけるとほぼすべて読んでいます。僕にとってはどれも生活と仕事の教科書みたいなものです。

前回もお話ししたように、高峰さんは子役として映画デビューしてから身を引くまで一貫して大スターだったという稀な人です。子役として成功した人の多くは、大人になってから大成しない。高峰さんは、女優としての適応力が並外れていたのだと思います。ただ、私生活では子どもの頃からたいへん苦労されていて、養母とその一族郎党からまるで現金製造機のように搾取され続けていました。

彼女は自ら望んで女優になったわけではまったくありません。5歳のときに親に連れられて行ったオーディションで見出されます。気づいたときにはもう大スター。しかも、周囲の人全員が高峰さんにぶら下がって生きている。ジニ係数(※)が今よりもずっと大きかった当時、映画産業の支配的な地位からして、主演女優として成功することは莫大な富をもたらします。それを親族みんなが寄ってたかってむしり取っていく。彼ら全員の生活を背負う高峰さんは、女優の仕事から離れるという選択肢の採りようがなかったんです。

※ 主に社会における所得の不平等さを測る指標。

後年、61歳のときに高峰さんはこう述懐しています。――高峰秀子は確かに大スターで人気があって、お金もたくさん稼いだ。大きな家に住み、自家用車を持ち、バックには大きな後援会があって人々がちやほやしてくれる。満開のバラみたいに華やかな存在だった。だから、他人からすれば「なんて成功していい身分だろう」と思ったかもしれないけれども、そういう高峰秀子のすべてが嫌いだった人もいる。それが、高峰秀子自身だった。女優になることはまったく望んでいなかったし、成功してからも、必ずしも好みの仕事ではない――。

持って生まれたパーソナリティだと思うんですが、高峰さんは非常に客観的に物事を捉えます。悪く言うと、しらけている。ある意味で虚無的な人でした。子役として大成功し、「高峰秀子」というパブリックイメージが際限なく膨張していった頃から、非常に客観的に厳しい目でご自身を見ています。学校には一切通えないほどの忙しさで次から次へ映画に出演しながら、周囲の大人を冷静な目で見つめている。10歳になる頃にはある人気女優を見て「ここでこんな態度をとるようでは、この人はここまでだな」――実際、そのとおりになったそうです。自分だけでなく他人も客観的に見る。その分、情熱に突き動かされて何か行動を起こすということがない。

昭和20年、高峰さんが二十歳のときのことです。戦争のさなかなので、ロケに出てもアメリカ軍の艦載機の攻撃が続いて、もう撮影どころじゃない。空襲警報が鳴りっ放しで、防空壕を出たり入ったり。でもメーキャップして待機しなきゃいけない。そんな日の彼女の回想に、こんなエピソードがあります。

その映画を撮っていたのは当時の大監督、山本嘉次郎です。待機中、高峰さんがぼんやり座っていると、そこに山本監督が来て「何を考えていた?」。「別に、なんにも……」。「つまんないかい?」。「つまんない」。すると山本監督は、2人が座っている目の前の庭にあった大きな松の木を指しました。「あの松の木を見てごらん、なぜこっちへ向かって曲がっているんだと思う?」。松の木なんかどうでもいい高峰さんは、答えなかったそうです。

山本監督はこうおっしゃいました。「たぶん、海のほうから風が吹くんで自然に曲がっちゃったんだよね。なんでもいいから興味を持って見てごらん。なぜだろう? どうしてだろう? って……。そうすると世の中そんなにつまんなくもないよ」。そう言ってひょっと立って行かれました。

高峰さんは、松の木を見つめたまま呆然としたそうです。本当に自分の目からうろこが落ちたような気がした。今までの自分がさっと遠いところへ行って、新しい自分が生まれたような気分がした。一生のうちに、こういうことが何回かある、と。

(以上、高峰秀子著『わたしの渡世日記 上』(文春文庫)より一部引用。)

僕にとって高峰秀子さんの著作との出会いは、まさに「一生のうちに何回かある」レベルの出来事でした。高校生のときに現代国語の教科書で高峰さんのエッセイを初めて読んでからだいぶ時間が経った32歳の年、『わたしの渡世日記』という文筆家としての彼女の代表作をたまたま手に取りました。映画女優としての自分の人生に蹴りをつける目的で書かれた長編の自伝、半生記であり、この本を契機に彼女は女優から文筆家のほうにシフトします。単に売れた本というだけでなく、書かれている内容が本当に素晴らしい。のっぴきならない衝撃を僕に与えてくれた一冊です。

自分が最も影響を受けた本を一冊挙げなさいと言われたら、僕は躊躇なく『わたしの渡世日記』と答えます。(第3回へつづく)

「第3回:劣情と教養。」はこちら>

画像: 心の師「高峰秀子」の教え―その2
客観の人。

楠木 建
一橋ビジネススクール教授
1964年東京生まれ。幼少期を南アフリカで過ごす。一橋大学大学院商学研究科博士課程修了(1992)。一橋大学商学部専任講師、一橋大学商学部助教授、一橋大学イノベーション研究センター助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科准教授、2010年より現職。

著書に『逆・タイムマシン経営論』(2020,日経BP社)、『室内生活 スローで過剰な読書論』(2019、晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる』(2019、文藝春秋)、『「好き嫌い」と才能』(2016、東洋経済新報社)、『好きなようにしてください:たった一つの「仕事」の原則』(2016、ダイヤモンド社)、『「好き嫌い」と経営』(2014、東洋経済新報社)、『戦略読書日記』(2013、プレジデント社)、『経営センスの論理』(2013、新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。

楠木教授からのお知らせ

思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
この10年ほどTwitterを使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。

・140字しか書けない
・オープンな場なので、仕事や生活経験の具体的な中身については書きにくい
・考えごとや主張をツイートすると、不特定多数の人から筋違いの攻撃を受ける

「楠木建の頭の中」は僕のTwitterの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
不定期ですが、メンバーの方々と直接話をする機会も持ちたいと思います。
ビジネスや経営に限らず、人間の世の中について考えることに興味関心をお持ちの方々のご参加をお待ちしております。DMM社のプラットフォーム(月額500円)を使っています。

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ご参加をお待ちしております。

楠木健の頭の中

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楠木建の「EFOビジネスレビュー」

一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。

山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」

山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。

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社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。

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パーパス、CSV、ESG、カスタマーサクセス、M&A、ブロックチェーン、アジャイルなど、経営戦略のキーワードをテーマに取り上げ、第一人者に話を聞く。

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