新型コロナウイルス感染のパンデミックからはや一年以上が経ちます。この間、さまざまな不安やストレスに多くの方が苦しみ、悩んできました。多くの人が当たり前だと思っていた安全・安心で快適な日々の暮らしや社会が、当たり前ではなかったこと、そして思いどおりにはならないことを思い知った歳月でもありました。
しかし考えてみれば、私たちが生きることそのもの、寝て起きれば明日が来ると当たり前のように思っていることが、実は当たり前ではなく、とてもありがたいことなのです。お釈迦様の生(なま)の言葉を伝える文献の一つとされる最古の経典『法句経』には、「人の生を受くるは難く、やがて死すべきもののいま命あるは有難し」という言葉があります。命とは何か、命の大切さとは何かを追求していく禅にとって原点ともいえるこの言葉をかみしめる機会でもあったのです。
今後、コロナ禍がどのように終息していくかはわかりません。言えることは、当然のことながら元には戻らないということです。コロナ禍があってもなくても世の中は無常で、つねに変化していくものです。そこで一番大切なのは「今日」であって、いま何ができるかを探していくことだと思います。リモートワークになり、会社への帰属意識が希薄になった。仕事へのモチベーションを保つのが難しい。コミュニケーションが限られて人間関係に不安を感じるといった声も聞かれます。こうした環境変化への対処に汲々としているだけでは、単に仕事をこなすだけ、利益を追求するだけになってしまいかねません。大切なことは、企業の心、たとえば社訓とか創業者の言葉がもつ感動や誇りといった変わることのない求心力がビジネス活動のなかで両輪となって機能することです。加えて、その企業の変わらない本質的な部分を忘れずに、新しい変化を取り入れていくためには、リーダーのメッセージ力がますます問われてきます。また社員一人ひとりの自律力も求められてくるでしょう。
禅の世界には接心というとくに厳しい修行があります。一定期間いっさいお寺の外に出ることなく、全神経を公案(※1)に集中して坐り抜くものです。この修行を続けていると、だんだん五感が研ぎ澄まされてくる感覚となり、たとえば、空気の微妙な湿りを感じて雨が降ってくるのがわかるようになります。これは決して特別な能力ではなく、心を落ち着かせることで、人間が本来持っている五感が鋭くなってくるのです。これによって、ものの見方もまた転じてきます。雨が降り続いて嫌だなあとか、暑い日が続いて嫌だなあといった思いが、雨が降っても晴れても一日は一日、今日一日を生きていることの有難さが骨身に染みて気づかされるのです。この心境が、掛け軸や色紙でよく見かける言葉「日日是好日」です。
この言葉は、中国の唐代末期の名僧・雲門禅師(※2)の言葉です。禅師は弟子たちに問います。「十五日已前不問汝、十五日已後道将一句来」(※3)と。簡単に言えば、「昨日までのことは問わない。今日これからどのような心で一日一日を過ごすかを一句で答えよ」というわけです。これに対し、答える弟子がいなかったので、禅師みずから「日日是好日」と言い放ったのです。
一般的にはこの言葉を「毎日好い日ですね」という意味で使っていますが、実はこの「好い」ということが問題なのです。「好い」「悪い」は、私たちの勝手な思い込みに過ぎないからです。アップル社の共同設立者であるスティーブ・ジョブズ氏は禅に傾倒していたことでも知られていますが、自らのすい臓がんで余命宣告された後のスタンフォード大学でのスピーチで、「毎日、これが人生最後の日と思って生きてみなさい」と学生たちに語りかけ、感動を呼びました。お釈迦様は「昨日にこだわり、明日を夢見て、今日を忘れる」人間の愚かさを指摘しています。これからますます問われるリーダーのメッセージ力、そして私たち一人ひとりに求められる自律的な考えと行動の基盤の一つとして、「日日是好日」をいつも心のどこかに留めておいていただければと思います。
※1 禅宗に於いて悟りを開くために師から弟子に与えられる問題。
※2 雲門文偃(うんもん・ぶんえん)846年~949年。禅宗五家の一つ雲門宗の開祖。
※3 十五日已前(いぜん)は汝に問わず、十五日已後(いご)、一句を道(い)将(も)ち来たれ。
平井 正修(ひらい しょうしゅう)
臨済宗国泰寺派全生庵住職。1967年、東京生まれ。学習院大学法学部卒業後、1990年、静岡県三島市龍澤寺専門道場入山。2001年、下山。2003年、全生庵第七世住職就任。2016年、日本大学危機管理学部客員教授、2018年、大学院大学至善館特任教授就任。現在、政界・財界人が多く参禅する全生庵にて、坐禅会や写経会など布教に努めている。『最後のサムライ山岡鐵舟』(教育評論社)、『坐禅のすすめ』(幻冬舎)、『忘れる力』(三笠書房)、『「安心」を得る』(徳間文庫)、『禅がすすめる力の抜き方』、『男の禅語』(ともに三笠書房・知的生きかた文庫)など著書多数。
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