※本記事は、2021年2月4日時点で書かれた内容となっています。
一見して「トレードオフ」の関係にあるものを、「トレードオン」に転化する。ここに長期の本質があるというのが私の考えです。短期的に考えるとあからさまに矛盾していることであっても、長期的な視点で考えれば、自然と矛盾が解ける。矛盾どころかトレードオンの関係になり、好循環のダイナミズムが生まれる。表面的なトレードオフをトレードオンに持っていくところが、経営者の本領だと思います。
僕の昔からの友人でみさき投資というファンドを経営している中神康議さんが、最近『三位一体の経営』という本を出しました。彼のいう三位一体の経営というコンセプトが、トレードオフをトレードオンにするお手本になると思います。
彼が問題にしているのは、経営者と従業員と投資家という3つのステークホルダーの関係です。短期的には、この三者の利害というのは、鼎立(三者対立)関係にあります。経営者、従業員、投資家、三者の関係のどれをとっても、一方の利益が他方の利益を損なうという三すくみの関係にあるように見えます。例えば経営者と従業員の関係で言いますと、賃金を増やせばその分の収益が減ります。経営者は、収益や業績といった数字での評価にさらされていますので、良い数字を出したいと思えばなるべく賃金水準を抑えたい。これに対して従業員は、もっと給料を上げて欲しいわけで、そこにはトレードオフがあります。
経営者と投資家との関係にも、あからさまなトレードオフがあります。例えば、配当というのは利益処分の一形態ですから、株主への配当を増やせば自分たちの将来の軍資金は減ります。配当以外にも、特に最近だとモノ言う株主のアクティビストは、経営者に対して「自社株を買え」「レバレッジをかけろ」「事業を整理しろ」「言うことを聞かないと、株を買い増して取締役を送り込んで実力行使に出るぞ」とさまざまなプレッシャーをかけてきます。経営者にしてみれば、会社の将来を考えない短期的な要求ばかりに聞こえる。そこで投資家に対して防御的な姿勢を固めることで経営の自由を守ろうとする。それぞれの利害から対立関係が生じます。
従業員と投資家との関係は、言うまでもありません。投資家にとって人件費というのは、収益を圧迫するコストです。従業員のリストラは手っ取り早く収益を改善して株価を上げる打ち手です。仕事をしている従業員にとっては、生活をおびやかす迷惑千万な話ですから、当然対立関係になる。つまりは三者の鼎立関係です。
しかし、これはあくまでも短期的、時間的な奥行きのないスタティックな見方です。経営者が稼ぐ力のある商売をつくり上げたとします。従業員も、その商売の成長のために力を合わせて仕事をする。経営者が自分の職責を果し、従業員も商売に邁進すればするほど、給料やボーナスが増える。結果として株価も上がる。投資家も配当はもちろん、キャピタルゲインという果実を手にできる。さらに従業員が株の一部を保有していれば、企業価値の向上は従業員にとってのベネフィットにもなります。
三者対立のトレードオフは解消されて、みんなが豊かになるトレードオンの関係が生まれる。これが中神さんの言っている三位一体の経営です。これは何も「新しい経営モデル」ではなく、今も昔も変わらない経営の王道です。中神さんの本のメッセージは、経営の王道への回帰ということなのです。
ポイントは、時間軸上のゲージを操作するだけで見える風景がまったく変わってくるということです。本来、経営を長期視点で考えればみんなハッピーになるのにもかかわらず、ゲージを短期に持っていくから、さまざまなもめごとが起きる。
何度もお話ししているように、商売のめざすべき目標は長期利益です。メジャー(指標)とパーパス(目標)で言えば、パーパスは、顧客に対する価値の提供とか、顧客の満足とか、独自の価値の創出かもしれませんが、メジャーは、長期利益です。短期的に儲けるのであれば、客をだまして儲ける。サプライヤーを泣かして儲ける。世の中に負荷をかけて儲ける。従業員をいじめて儲ける。短期の利益であればその種の手が可能です。しかし、長くは続きません。その程度には世の中はうまくできています。競争の中で長期利益が持続できているということは、社会に貢献し、顧客価値を創造しているという何よりの証拠です。
企業は、当然ですが社会的な存在です。企業の中に社会があるのではなく、社会の中に企業がある。社会的な存在として正しいことをやっていないと長期利益は出せません。経営というのはシンプルに「長期」利益の実現に集中すべきです。そうすれば、自然な結果としてほかのいいことも実現できる。このシンプルさが、政治のようなややこしい世界とは違う商売のいいところです。SDGsやESGにしても、経営者が長期的視点に立つという本来の役割を果たせば、わざわざ言うまでもないことだと思います。
楠木 建
一橋ビジネススクール教授
1964年東京生まれ。幼少期を南アフリカで過ごす。一橋大学大学院商学研究科博士課程修了(1992)。一橋大学商学部専任講師、一橋大学商学部助教授、一橋大学イノベーション研究センター助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科准教授、2010年より現職。
著書に『逆・タイムマシン経営論』(2020,日経BP社)、『室内生活 スローで過剰な読書論』(2019、晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる』(2019、文藝春秋)、『「好き嫌い」と才能』(2016、東洋経済新報社)、『好きなようにしてください:たった一つの「仕事」の原則』(2016、ダイヤモンド社)、『「好き嫌い」と経営』(2014、東洋経済新報社)、『戦略読書日記』(2013、プレジデント社)、『経営センスの論理』(2013、新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。
「第3回:矛盾を、矛盾のまま、矛盾なく乗り越える。」はこちら>
楠木教授からのお知らせ
思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
この10年ほどTwitterを使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。
・140字しか書けない
・オープンな場なので、仕事や生活経験の具体的な中身については書きにくい
・考えごとや主張をツイートすると、不特定多数の人から筋違いの攻撃を受ける
「楠木建の頭の中」は僕のTwitterの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
不定期ですが、メンバーの方々と直接話をする機会も持ちたいと思います。
ビジネスや経営に限らず、人間の世の中について考えることに興味関心をお持ちの方々のご参加をお待ちしております。DMM社のプラットフォーム(月額500円)を使っています。
お申し込みはこちらまで
https://lounge.dmm.com/detail/2069/
ご参加をお待ちしております。
シリーズ紹介
楠木建の「EFOビジネスレビュー」
一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。
山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」
山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。
協創の森から
社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。
新たな企業経営のかたち
パーパス、CSV、ESG、カスタマーサクセス、M&A、ブロックチェーン、アジャイルなど、経営戦略のキーワードをテーマに取り上げ、第一人者に話を聞く。
Key Leader's Voice
各界のビジネスリーダーに未来を創造する戦略を聞く。
経営戦略としての「働き方改革」
今後企業が持続的に成長していくために経営戦略として取り組むべき「働き方改革」。その本質に迫る。
ニューリーダーが開拓する新しい未来
新たな価値創造に挑む気鋭のニューリーダーに、その原動力と開拓する新しい未来を聞く。
日本発の経営戦略「J-CSV」の可能性
日本的経営の良さを活かしながら利益を生み出す「J-CSV」。その先進的な取り組みに迫る。
ベンチマーク・ニッポン
日本を元気にするイノベーターの、ビジョンと取り組みに迫る。
デジタル時代のマーケティング戦略
マーケティングにおける「デジタルシフト」を、いかに進めるべきか、第一人者の声や企業事例を紹介する。
私の仕事術
私たちの仕事や働き方の発想を変える、膨らませるヒントに満ちた偉才たちの仕事術を学ぶ。
EFO Salon
さまざまな分野で活躍する方からビジネスや生活における新しい気づきや価値を見出すための話を聞く。
禅のこころ
全生庵七世 平井正修住職に、こころを調え、自己と向き合う『禅のこころ』について話を聞く。
岩倉使節団が遺したもの—日本近代化への懸け橋
明治期に始まる産業振興と文明開化、日本社会の近代化に多大な影響を及ぼした岩倉使節団。産業史的な観点から、いま一度この偉業を見つめ直す。
八尋俊英の「創造者たち」~次世代ビジネスへの視点~
新世代のイノベーターをゲストに社会課題の解決策や新たな社会価値のつくり方を探る。