分解と合成を常に繰り返し、分子レベルで絶え間なく入れ替わりながら秩序を保つ「動的平衡」という生命のあり方を提示した福岡氏。滞在中のニューヨークと結んだオンライン対談では、動的平衡、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一、ピュシス対ロゴス、そしてフェルメールをキーワードに、生命の本質、物事の本質とは何かに迫る。
「第1回:sense of wonderを取り戻す」
「第2回:生命現象は要素と要素の相互作用である」はこちら>
「第3回:『動的平衡』と『絶対矛盾的自己同一』」はこちら>
「第4回:ピュシスとロゴスという矛盾を含む人間」はこちら>
「第5回:『芸術と科学のあいだ』には何があるか」はこちら>
生物と無生物のあいだにあるウイルス
山口
福岡先生、ご無沙汰しております。前回お目にかかったのは2年半ほど前だったでしょうか。あの頃には想像もできなかった状況に世界は陥っています。新型コロナウイルスに関しては、これまで多方面からコメントを求められていらっしゃるとは思いますが、あらためて生物学者としての見解を伺えますか。
福岡
人類史のような長いレンジで見ると、これまで人類は常に感染症というものに脅かされながら存続してきました。人間と病原体は、せめぎ合いつつもある種の動的平衡状態を保ってきたと言えます。
ただ、今回のように急速かつ広範囲に感染が広がった原因は、ウイルスよりも人間の側にあります。ウイルスは生物と無生物のあいだに位置する不思議な微粒子で、自分では動くことができません。それを運んでいるのは人間を含めた生物であり、パンデミックはグローバリゼーションの一つの帰結なのだということを再認識する必要があります。新型ウイルスと言っても何もないところから突然生まれたわけではなく、もともとは自然宿主とうまく共存していたものです。自然開発や国境を越えた人とモノの往来といった人間の行動によって、そのウイルスと人間の距離が近づき、「新型」として発見され拡散したのです。
今回の問題は、自然の一部としてのウイルスに、われわれがどう対応すべきなのかということを、あらためて問いかけているのだと思います。それは一言で言えば、「正しく畏れる」ということ。「恐れ」や「怖れ」ではなく「畏れ」をもって、つまり自然に対する畏敬の念をもってウイルスに接するべきではないかと、私は思っています。
「畏れる」は、英語で言うところの「sense of wonder」に近い感覚だと思います。山口さんはアメリカの海洋生物学者レイチェル・カーソンの遺作、『Sense of Wonder』をご存知かと思いますが、翻訳者の上遠恵子さんは、文中にも登場するこの言葉に「美しいもの、未知なもの、神秘的なものに目を見はる感性」という名訳をあてられました。レイチェル・カーソンは、すべての子どもが生まれながらに持つ自然に対する好奇心と、美しいものや未知のもの、神秘的なものに目を見張る感性のことをsense of wonderと呼んだのですね。その根底にあるのは自然や生命に対する畏敬の心です。そうした感性を大人になるにつれて失っていく人が多い中で、できることならば忘れずに持ち続けてほしいというメッセージがこの本には込められています。
私は現代社会に生きるすべての人がこの言葉を思い出し、自然への畏敬の念を取り戻さなければならないと思います。本来、自然はアンコントローラブルです。最も身近な自然である自分自身の体さえ、人間は自分でコントロールできないことのほうが多いものです。近現代の社会では、あらゆるものが機械論的な考え方や手法によってコントロールできると考えられるようになり、特に現代はAI(Artificial Intelligence)とビッグデータであらゆる問題を解決できるという幻想にとらわれています。しかし、生命体としての人間を含めた自然、ウイルスも細菌も、地殻や大気の動きも含めた自然というものは、データサイエンスだけで予測や制御できるものではありませんよね。そうした大きな自然観を持って今回のウイルスの問題も考えなければなりません。
新型ウイルスとの共生には人文知も必要
山口
レイチェル・カーソンが著書『沈黙の春(Silent Spring)』でDDTの問題を取り上げていますね。DDTは元来、マラリアの撲滅をめざして病原となる原虫を媒介する蚊を駆除するために散布された、まさに感染症対策に用いられたわけですね。そして、確かに劇的な効果を挙げたわけですが、DDTの散布地域では生態系が破壊された結果、ネズミが大量に発生してペストが蔓延する事態を引き起こしてしまった。生態系や生体システムの複雑さに、人間の認知能力の限界と心性としての傲慢さが組み合わされたときに、「想定外」の結果につながることが示されたのだと言えます。
今の新型コロナウイルスへの対応も、ウイルスを違う世界から来た敵のように見なし、科学の力でこれを抑え込んで勝つのだというメンタリティでは本質的な解決にならないのですね。
福岡
おっしゃるように、ウイルスに打ち勝つ、撲滅する、アンダーコントロールに置くというようなことは、そもそも無理なのです。それは、このパンデミックの最大の共犯者が人間だからです。
人間が考える因果性や決定論というのは、DDTとマラリアの例のように局所的な関係性しか見ていない場合がほとんどです。そのため人間に害をなすものは敵で、その活動をブロックするような介入操作を行えば問題は解決すると考えがちです。でも実は、自然には無数のファクターがあり、それらの複雑な相互作用で成り立っています。しかも自然の選択は偶然に左右されることも多く、初期条件が同じなら同じ結果が得られるというものではありません。仮にこの新型ウイルスに対する特効薬が開発されたとしても、耐性獲得や次の新たなウイルスの出現という問題が生じるはずです。
ですから今回のようなパンデミックに対しては、われわれ自身が持つ免疫システムの力を信じ、ウイルスとの共存関係、平衡関係が生み出されるのを待つしかありません。それにはある程度の年月がかかると思いますし、人間の行動変容も求められます。感染症対策は科学や技術、医療の範疇と思われがちですが、そうしたことのためには「人文知」のアプローチも必要になってくるでしょう。(第2回へつづく)
福岡 伸一(ふくおか・しんいち)
1959年東京生まれ。京都大学卒。ハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授などを経て、2004年青山学院大学理工学部化学・生命科学科教授、2011年総合文化政策学部教授。米国ロックフェラー大学客員研究者兼任。農学博士。
サントリー学芸賞を受賞し、85万部を超えるベストセラーとなった『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)、『動的平衡』(木楽舎)など、“生命とは何か”を動的平衡論から問い直した著作を数多く発表。ほかに『世界は分けてもわからない』(講談社現代新書)、『できそこないの男たち』(光文社新書)、『生命の逆襲』(朝日新聞出版)、『せいめいのはなし』(新潮社)、『変わらないために変わり続ける』(文藝春秋)、『福岡ハカセの本棚』(メディアファクトリー)、『生命科学の静かなる革命』(インターナショナル新書)、『新版 動的平衡』(小学館新書)など。対談集に『動的平衡ダイアローグ』(木楽舎)、翻訳に『ドリトル先生航海記』(新潮社)などがある。
山口 周(やまぐち・しゅう)
1970年東京都生まれ。電通、ボストンコンサルティンググループなどで戦略策定、文化政策立案、組織開発等に従事した後、独立。著書に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(光文社)、『武器になる哲学』(KADOKAWA)、『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社)など。最新著は『ビジネスの未来 エコノミーにヒューマニティを取り戻す』(プレジデント社)。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院美学美術史学専攻修了。
シリーズ紹介
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一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。
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