「第1回:sense of wonderを取り戻す」はこちら>
「第2回:生命現象は要素と要素の相互作用である」
「第3回:『動的平衡』と『絶対矛盾的自己同一』」はこちら>
「第4回:ピュシスとロゴスという矛盾を含む人間」はこちら>
「第5回:『芸術と科学のあいだ』には何があるか」はこちら>
部品がわかっても本質はわからない
山口
先生は昆虫少年から生物学者となられ、生物、特にノックアウトマウスの研究から機械的な生命観に疑問を感じて「動的平衡」という生命のあり方を示されたのですね。これは生命のあり方に留まらず、世界の成り立ちに対する洞察にもつながる大きな世界観だと思います。
福岡
私が生まれたのは昭和のど真ん中、ネットもゲームも何もない少年時代でしたし、あまり社交的な性格でもなかったので身近な自然に目が向いたのです。たまたま俯いて下ばかり見ていたからカミキリムシやチョウに目を奪われましたが、上を向いて歩いていたら星や空に関心を持ったかもしれません。
昆虫に魅せられたことの原点は、やはりsense of wonderでした。鮮やかな色や貴金属のような輝き、フォルムの美しさや精妙さに心を動かされました。とりわけ不思議で目を見張ったのは、チョウが幼虫からさなぎになり、いったんバラバラに溶けてから成虫に変身するというメタモルフォーシスです。「自然とは、生命とはいったい何なのか」と驚嘆と畏敬の念を抱かずにいられませんでした。
そして新種の虫を見つけることを夢みながらも、果たせないまま生物学者を志して大学に入りました。当時、細胞や遺伝子レベルで生命を統一的に捉えようとする分子生物学が世界的に注目されていた時代で、今度は新種の遺伝子を見つけることをめざしてその世界に進みました。研究では多くのことを学び、いくつかの新種の遺伝子を発見することもできましたが、ヒトゲノム計画によって2003年にヒトゲノムの全塩基配列の解析が完了してしまうと、それはその中のほんの1行にすぎないものでした。
ところが、すべての遺伝子が明らかになったからといって、生命の謎がすべて解明できたわけではありません。出演者がわかっても映画のストーリーはわからないように、部品がすべてリストアップされても、「生命の本質」は何もわからなかったのです。
そのことを示しているのがノックアウトマウスです。ノックアウトマウスとは人為的に特定の遺伝子を無効化したマウスで、遺伝子の働きや疾患の解明などの実験系に用いられます。例えば、糖尿病のメカニズム解明や治療法の開発には、糖代謝と関連する遺伝子を無効化することで糖尿病を発症したノックアウトマウスが利用されます。ただ、インスリンをつくる遺伝子を無効化すると糖尿病になるというふうに、遺伝子と機能が一対一の因果関係として見られるケースは多くありません。大半の遺伝子は大きなシステムの一員として働いているため、遺伝子を一つ取り除いたからといってすぐに重大な異常が起きるわけではない。一つが足りなければバックアップシステムや相補的な仕組みが働き、その中で新たな平衡が立ち上がるのです。
機械の場合は一つの部品が故障するだけで影響が全体に及ぶ場合がありますが、生命体は機械とは違うのですね。そのことをノックアウトマウスに教えられた私は、機械論的な生命観で生物を見ていたことを大いに反省させられました。そして、個々の部品に分解してその機能を追うというよりも、動的な仕組みとして統合的に生物を捉えたいと考えるようになり、シュレーディンガーの著作やシェーンハイマーの研究に着想を得て再発見したのが「動的平衡」という生命観です。
生命は分子の淀みにすぎない
福岡
ですから、そこには最初からすんなりたどり着いたわけではありません。ひたすら山を登ったことで初めて見える景色があるように、機械論的な生物学を行き着くところまで追求した結果、見えてきたものなのです。生命の本質は遺伝子や細胞といった要素にあるのではなく、要素と要素の関係性、それらの「あいだ」で起きる相互作用にこそある、そこに生命が宿っているのだと気づいたことが、自分自身のパラダイムの転換点でした。
そうした観点から見ると、物事の本質というものは、要素としてのモノ自体ではなく、モノとモノのあいだで織りなすコトにある。そのことはおっしゃるように生命現象だけではなく、人間社会、世界全体の成り立ちにも当てはまると思っています。
山口
宮沢賢治の詩集『春と修羅』は「わたくしといふ現象は」という一節から始まるのですが、その洞察力には感服します。農業との関わりや仏教信仰というバックグラウンドが影響しているのかもしれませんが、福岡先生のコンセプトと同じことを見抜いていたわけですから。
福岡
『春と修羅』は私も好きな作品で、「わたくしといふ現象は」の続きは「仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です」というものですね。つまり自分という生き物は「現象」であって、しかもそれは電灯のように明滅しながら、光だけが保たれ続けているのだという。まさにモノではなく現象=コトが本質だという世界観を示していると思います。
山口
宮沢賢治と同じく、福岡先生のご著書も読むたびに「これこそがリベラルアーツだ」と感じます。私が先生の表現で特に好きなのは、「生命とは流れゆく分子の淀みにすぎない」というものです。分解と合成を繰り返しながら、ダイナミックな分子の流れの中で、たまたま密度が高まっている現象、一時的にエントロピーが低い状態が現象として出現しているのが私であるということですよね。これはとても詩的なイメージを喚起される表現であり、世界認識を一変させる力を持っています。
今、「分断」ということがいろいろな意味で問題になっています。政治的な分断もそうですが、経済的格差、都市と地方、ウイルスを敵とみなして排除しようとする考え方もそうでしょう。その基底にはデカルトの二元論的な世界観があるのだと思いますが、実際の世界や生命は二元論や機械論では捉えられないものですね。分子の流れという視点からは、世界と私は不可分である、あなたと私は不可分である、あなたの一部は私の一部である。これはある意味でとても仏教的な考え方でもありますが、そうした世界観を持たなければ分断は解消されないのではないかと思います。(第3回へつづく)
福岡 伸一(ふくおか・しんいち)
1959年東京生まれ。京都大学卒。ハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授などを経て、2004年青山学院大学理工学部化学・生命科学科教授、2011年総合文化政策学部教授。米国ロックフェラー大学客員研究者兼任。農学博士。
サントリー学芸賞を受賞し、85万部を超えるベストセラーとなった『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)、『動的平衡』(木楽舎)など、“生命とは何か”を動的平衡論から問い直した著作を数多く発表。ほかに『世界は分けてもわからない』(講談社現代新書)、『できそこないの男たち』(光文社新書)、『生命の逆襲』(朝日新聞出版)、『せいめいのはなし』(新潮社)、『変わらないために変わり続ける』(文藝春秋)、『福岡ハカセの本棚』(メディアファクトリー)、『生命科学の静かなる革命』(インターナショナル新書)、『新版 動的平衡』(小学館新書)など。対談集に『動的平衡ダイアローグ』(木楽舎)、翻訳に『ドリトル先生航海記』(新潮社)などがある。
山口 周(やまぐち・しゅう)
1970年東京都生まれ。電通、ボストンコンサルティンググループなどで戦略策定、文化政策立案、組織開発等に従事した後、独立。著書に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(光文社)、『武器になる哲学』(KADOKAWA)、『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社)など。最新著は『ビジネスの未来 エコノミーにヒューマニティを取り戻す』(プレジデント社)。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院美学美術史学専攻修了。
シリーズ紹介
楠木建の「EFOビジネスレビュー」
一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。
山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」
山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。
協創の森から
社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。
新たな企業経営のかたち
パーパス、CSV、ESG、カスタマーサクセス、M&A、ブロックチェーン、アジャイルなど、経営戦略のキーワードをテーマに取り上げ、第一人者に話を聞く。
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各界のビジネスリーダーに未来を創造する戦略を聞く。
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今後企業が持続的に成長していくために経営戦略として取り組むべき「働き方改革」。その本質に迫る。
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新たな価値創造に挑む気鋭のニューリーダーに、その原動力と開拓する新しい未来を聞く。
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マーケティングにおける「デジタルシフト」を、いかに進めるべきか、第一人者の声や企業事例を紹介する。
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私たちの仕事や働き方の発想を変える、膨らませるヒントに満ちた偉才たちの仕事術を学ぶ。
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明治期に始まる産業振興と文明開化、日本社会の近代化に多大な影響を及ぼした岩倉使節団。産業史的な観点から、いま一度この偉業を見つめ直す。
八尋俊英の「創造者たち」~次世代ビジネスへの視点~
新世代のイノベーターをゲストに社会課題の解決策や新たな社会価値のつくり方を探る。