人類史上、まだ始まったばかりの「幸せ」研究
名越
ここ、初めて来たんですけど素晴らしい環境ですね。心なしか緑が濃いような。
矢野
1942年に日立がこの研究所を建てるにあたって、できる限り武蔵野の木を伐らずにそのまま残すことにしたんですよ。
名越
ああ、だからですね。23区内の公園とは違う。矢野さんはずっとここで働いているんですか。
矢野
ええ、もう30年以上になりますね。
名越
ここでいい空気を吸い続けてきたわけですね。なんて幸せな人生。
矢野さんのことは、先日日立さんで講演させていただいたときに知ったんですよ。日立に「幸せ」を専門的に研究している人がいると。
矢野
そうなんです。2006年頃に海外の心理学者と共同研究する機会があったのですが、そのときに「ポジティブサイコロジーという学問が話題になっている」と聞いたのがきっかけで、幸せの研究を始めました。
名越
「幸せの質とは何か」が本格的に研究されるようになったのは、世界的にも21世紀になってからのことみたいですね。2016年に出版されて話題になった『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ著,河出書房新社)の最後の方に書かれてあったんですけど、過去500年間における科学や産業の革命、指数関数的な経済成長を経て、人類は「以前より幸せになっただろうか?」と。でも、「歴史学者がこうした問いを投げかけることはめったにない」と。要するに、幸せに関する系統だった研究はまだ地球上にない。
矢野
極めて細分化しているんですよね。心理学、経営学、経済学、社会学、哲学、宗教学、政治学、生物学、人類学、物理学……とにかく幅広いです。
身体の動きを測って見えてきた、2種類の幸せ
矢野
幸せを研究するにあたって、テクノロジーの専門家として我々に何ができるか……。考えついたのが、「人間の24時間の身体の動きを測る」ことでした。ただ、個人だけ測っても人間同士のネットワークの全体像はつかめない。人は1人では生きられないですからね。そこで、首からさげる名札型のデバイスを開発して社員に着用してもらって、だれがだれとどのくらい対面でコミュニケーションをとったのかがわかるようにしました。つまり、人と人との関係を定量化したのです。さらに、身体の動きと、幸せや生産性に対する個人の意識がどう関係しているかを知るために、社員へのアンケート調査も行ってきました。
そうやって10年以上かけて蓄積したデータを分析しながら、「幸せってそもそも何なのか?」という問いかけをずっとしています。その答えは大きく2つあって、まず1つめは「よりよい状態になるための手段」としての幸せ。それは、例えば仕事をすることだったり、スイーツを食べることだったり、あるいは子どもと遊ぶことかもしれない。非常に多種多様で、人によっても、置かれている状況によっても違うものです。
一方、人間が幸せだと感じたときにどんな「生理的な変化」が体内に生じるか。これが、我々が考える2つめの幸せです。血流、血液中のホルモン物質、免疫細胞、筋肉の収縮や弛緩、それに伴って内臓が小さくなったり大きくなったり、酵素の出方が多くなったり少なくなったり、全身をつなぐネットワークである神経系が活動したり抑えられたり、連動したりばらばらになったり……。さまざまな生理現象を通じて、その個体に対して「これはいい状態だから、もっと続けなさい」、あるいは逆に「こういう状態は一刻も早く避けたほうがいいから、やめなさい」というフィードバックができる種が、結果的に生き残ってきたのだと思うのです。
名越
個人の状態を測って「あなた今、幸せですよ」と言えるところまで、矢野さんの研究は進んでいるんですか。
矢野
そうですね。身体の動きを測ることで、それが可能になっています。
名越
具体的にはどうやって測るんですか。
矢野
スマートフォンにも入っている加速度センサーを使います。スマホを横向きにすると、画面が縦から横に切り替わるじゃないですか。あれは加速度センサーがスマホの動きを検出しているのです。
名越
なるほど、加速度やったんや。その研究成果は、社外に展開して、何か幸せの指標のようなものを示してあげるというところまで進んでいるんですか。
矢野
5年ほど前から、企業の組織活性化のご支援をさせていただいています。加速度センサーで社員の皆さんの身体の動きを測り、どんな行動や業務をしているときに社員の幸福度が上がるのか、組織としていい状態になるのかをAIを使って抽出します。
「無意識」は、身体。
名越
要するに、会話の内容よりも、会話している人たちの無意識の行動に矢野さんは注目していると。
矢野
そのとおりです。身体の動きは、無意識かつ非言語情報ですからね。コミュニケーションも、実は言語より非言語情報による影響が大きいことがいろいろな研究で知られています。
名越
それ、わかりますわ。僕はずっと心理学を勉強していまして、フロイト(※1)やユング(※2)、アドラー(※3)が提唱する「無意識」に興味を持ってたんですけど、1980年代ぐらいから「無意識って結局、身体だな」と考えるようになって。言語を通じて自分の身体がどう変わったかっていうことに注目するようになったんです。それで居合道をやり始めたり、アドラー心理学を基盤に置いたグループ療法を受けてみたり、演劇を用いた心理療法であるサイコドラマを体験したり、そういった非言語のコミュニケーションに取り組みました。
(※1)ジークムント・フロイト:オーストリアの精神科医。夢を分析することで無意識を探求した。精神分析学の祖として知られる。
(※2)カール・グスタフ・ユング:スイスの精神科医・心理学者。人間の心をタイプ別に分類する、分析心理学を創始した。
(※3)アルフレッド・アドラー:オーストリア出身の精神科医、心理学者、社会理論家。「個人は分割できない存在」の考えに基づき、個人心理学を創始した。
それと並行して精神科医として働くなかで、心理学をどうかみ砕けば患者さんに伝わるかで試行錯誤しました。「これ、やってみたら」とアドバイスしても、その人の体質、気質、性格に合う・合わないがある。例えば、「スカイダイビングをして人生が変わった」という人、いっぱいいるんですよ。でも、「そんなこと死んでも嫌だ」という人もいるわけです。
さてどうしたらいいんだろうということで、僕は最終的に、体型・体質から人間の感受性の違いをタイプ別に分類する「体癖論」という考え方をベースにした性格分類を考案したんです。単独行動で職人肌のオランウータン、自己主張が強いけれどリーダーシップのあるチンパンジー、秩序を守る物静かなゴリラ、愛嬌があって互いの気持ちを大切にするボノボというふうに。僕はそうやって身体から精神にアプローチしてきたので、今のお話はすごくわかる気がする。
矢野
身体の動きに無意識が出るという現象については、20年ほど前にMITのアレックス・サンディ・ペントランド(※4)という教授が実験をやっています。サラリー交渉や営業トーク、電話での売り込みは、最初の数秒間の声のトーン、体の動き次第でうまく行くかどうかが予測できるというものです。
ペントランド先生がおっしゃるには、人類は高度な文明を持っているように見えても、DNAは所詮99%以上がサルと一緒。彼らは言語を持たなくても集団生活をしているし、上下関係もある。我々人間は、9割以上を占めるサルと共通の非言語コミュニケーションの上に、言語や文化という薄皮が載っているだけであると。従って、非言語でのコミュニケーションこそが本質的なんじゃないかと。
(※4)アレックス・サンディ・ペントランド:MITメディアラボ教授。組織工学、モバイル情報システム、計算社会科学の分野におけるパイオニア。表情認識のための画期的なアルゴリズムを開発するなど、人間の社会的機能に関連する独創的な研究を展開する。
名越
面白い。身体というものの奥深さでもあると思います。
名越康文(なこしやすふみ)
1960年、奈良県生まれ。精神科医。相愛大学、高野山大学客員教授。専門は思春期精神医学、精神療法。近畿大学医学部卒業後、大阪府立中宮病院(現:大阪府立精神医療センター)にて精神科救急病棟の設立、責任者を経て、1999年に同病院を退職。引き続き臨床に携わる一方で、テレビ・ラジオでコメンテーター、映画評論、漫画分析などさまざまな分野で活躍中。著書に『自分を支える心の技法』(小学館新書,2017年)、『「ひとりぼっち」こそが最強の生存戦略である』(夜間飛行,2017年)、『生きるのが“ふっと”楽になる13のことば』(朝日新聞出版,2018年)、『精神科医が教える 良質読書』(かんき出版,2018年)など多数。名越康文公式サイト「精神科医・名越康文の研究室」
矢野和男(やのかずお)
1959年、山形県生まれ。1984年、早稲田大学大学院理工学研究科物理学専攻修士課程を修了し日立製作所に入社。同社の中央研究所にて半導体研究に携わり、1993年、単一電子メモリの室温動作に世界で初めて成功する。同年、博士号(工学)を取得。2004年から、世界に先駆けてウェアラブル技術とビッグデータ収集・活用の研究に着手。2014年、自著『データの見えざる手 ウェアラブルセンサが明かす人間・組織・社会』が、BookVinegar社の2014年ビジネス書ベスト10に選ばれる。論文被引用件数は2,500件にのぼり、特許出願は350件超。東京工業大学 情報理工学院 特定教授。
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