Hitachi
お問い合わせお問い合わせ
貝印株式会社 / カイ インダストリーズ株式会社 代表取締役社長 遠藤宏治氏
カミソリや包丁のブランドで知られる、貝印。日本を代表する刃物メーカーであり、今年で創業から110年を迎える長寿企業でもある。岐阜県関市を発祥とし、国内市場を中心に事業を展開してきた同社だが、今や世界にもその名を轟かせており、まさに成長し続ける老舗と言える。企業が持続的に成長する鍵はどこにあるのか。東京・秋葉原のほど近くにある貝印本社で、三代目社長の遠藤宏治氏に話を伺った。

始まりはポケットナイフ

――創業から100年以上も続く貝印ですが、もともとどのようにして始まった会社なのですか。


遠藤
おおもとは、わたしの祖父の初代遠藤斉治朗(さいじろう)が1908年に岐阜県の関市で家業として始めたポケットナイフづくりでした。そこからヒゲ剃り用のカミソリ、家庭用包丁、爪切り、ハサミ、カッターナイフへと広がり、近年ではメスなどの医療用品も手掛けるようになりました。こういった刃物を中心に、現在1万点以上の商品を扱っています。

画像: カミソリと包丁で知られる貝印。メスをはじめとする医療用刃物も手掛けている。

カミソリと包丁で知られる貝印。メスをはじめとする医療用刃物も手掛けている。

――関市と言えば、刃物の街として有名ですね。

遠藤
関には、鎌倉時代から刀鍛冶の街として続いてきた800年の歴史があります。刀の焼き入れに使う土、燃料として使う松炭、刀を鍛える際に用いる水が豊富なため、刀鍛冶師が多く集まってきたのです。ドイツのゾーリンゲン、イギリスのシェフィールドと並んで「世界の三大S」と呼ばれるほど、刃物工業が盛んな街でした。そういった、刃物をつくる風土とDNAのある関で、今も我々はものづくりをしています。関に拠点を置くグループ会社のカイ インダストリーズ株式会社が製造を、東京の貝印株式会社が販売を担っています。

販売会社としてのDNA

――製造と販売で別会社体制をとっているのはなぜですか。

遠藤
貝印という会社自体は、実は販売から始まったんですよ。祖父は1932年に関安全剃刃製造合資会社を設立し、国産のカミソリ替え刃の製造に初めて成功しました。その後、祖父がつくったそのカミソリを売る会社として、1947年に父の二代目遠藤斉治朗がフェザー商会を設立しました。それが現在の貝印の原型です。

やがて父は、祖父がつくったものを売るだけではなく、自社のオリジナル商品をつくって売りたいと考えるようになりました。そこで生まれたのが、刃を替える必要がないディスポ―ザブル(使い捨て)の「長柄軽便(ながえけいべん)カミソリ」でした。これに「貝印」というブランド名を付けて売り始めたのです。そういった流れから、貝印には販売会社としてのDNAも相当に受け継がれています。

――なぜ「貝印」というブランド名になったのですか。

遠藤
貝殻が大昔に刃物として使われていたこと、貨幣にも使われていたことがあり形がいいこと、そして父の本名「繁(しげる)」の発音が英語のShell(シェル)に似ているから(笑)、と諸説あるのですが、多分3つめだと思います。

画像: 販売会社としてのDNA

――ディスポ―ザブルのカミソリや家庭用包丁などで国内トップシェアを占める貝印ですが、創業から現在に至るまで一貫した経営戦略があったのですか。

遠藤
経営戦略というほどのものは…。顧客のためにどういう刃物をつくっていくかをそれぞれの代で考え、真摯に取り組んだ結果として国内シェア1位になった、ということではないでしょうか。業界をリードするんだという意識は、祖父の頃から無かったと思います。

シェアを獲りに行くということは、結局のところ、パイの奪い合いです。そうではなくて、新しい市場をつくっていくとか、自社の可能性をいかに伸ばしていくかということを、我々は大事にしています。

33歳で社長に就任。「アクションを起こさない」という選択

――遠藤さんがお父さまの後を継いで三代目社長に就任なさったのが1989年。今から30年近く前ですから、かなり若くして社長に就かれたのですね。

遠藤
33歳のときですね。父が64歳で亡くなったのですが、その前から病気がちで、ずっと入退院を繰り返していました。生前、父が病室でちらっと「もし自分の身に何かあっても、すぐに色々やろうとするな」と話していたことがありました。それが頭の片隅にあったので、社長になりたての頃のわたしは、会社を大きく変えるようなアクションは起こしませんでした。周りの社員はみんな父の時代の番頭さんばかりでしたから、その中でわたし一人が気張って何かやろうとしても、かえって反発を受けるだけだと思って。就任して最初の数年間は、状況を見極めることに徹しました。

おそらく多くのファミリー企業がそうだと思うのですが、父は結構ワンマン経営者でした。そんな父の後を若い息子が継いで、果たしてしっかりやっていけるのかどうか、やっぱり社内には不安があったようです。そうはいっても、いろいろな意思決定の過程をある程度合理的に進めていかないと、会社は成り立ちません。そこで、代替わり後の経営方針を固めるために、コンサルタントに入ってもらいました。本当は自分で方針を示したかったのですが(笑)、外部の客観的な意見やデータをもとに決めたほうが、社員にとって受け入れやすいと判断したのです。

画像: 父の後継ぎであることを周囲から言い聞かされて育った遠藤氏。「子どもながらに、自然と使命感を持つようになりました」。

父の後継ぎであることを周囲から言い聞かされて育った遠藤氏。「子どもながらに、自然と使命感を持つようになりました」。

――その後の1990年代前半に、バブル経済が崩壊しました。貝印としてはどんな状況だったのでしょうか。

遠藤
バブル崩壊後の円高で海外から安価な商品がどんどん入ってくるようになり、日本では価格破壊が起きましたよね。この波は刃物業界でも大きく、我々としてはどんなに商品をつくってもなかなか収益が上がらないという事態が続きました。それまでの貝印はまだまだ輸出が少なく、国内を中心に販売していましたから、海外から入ってくる安価な商品にどう対抗していくかで頭を悩ませていました。

「世界初の3枚刃」で鮮烈デビュー

――ディスポ―ザブルのカミソリ市場を牽引してきた貝印ですが、1989年に替え刃式カミソリの市場にも参入しました。バブル崩壊後の価格破壊の状況を打破したいという思いがあったのでしょうか。

遠藤
もちろんありました。ただ、新しい市場に入っていくためには、何か非常にユニークなコンセプトの商品がないといけません。そこで我々がデビューさせたのが、「世界初の3枚刃カミソリ」でした。このインパクトは大きかったです。「日本には貝印というカミソリのメーカーがある」ということを、世界に知らしめたわけですから。これをきっかけに、海外からの引き合いが多く来るようになりました。

画像: 現在は、5枚刃が貝印の替え刃式カミソリの主流になっている。

現在は、5枚刃が貝印の替え刃式カミソリの主流になっている。

――それまで3枚刃のカミソリが存在しなかったのはなぜですか。

遠藤
実は、3枚刃というのは特許ではないんです。ただ、刃の枚数が増えると、当然ですが製造コストがかさみます。また、3枚刃のためのカミソリの構造を新たに開発しなくてはなりませんし、専用の組み立て機をつくるなどの設備投資も必要です。コストと開発、両面でのチャレンジになるのです。

替え刃式カミソリの歴史をさかのぼると、アメリカのメーカーによって1枚刃が初めて世に出たのが1901年。そして2枚刃が発売されたのが1971年。1枚から2枚になるのに、実に70年かかっています。そして我々が世界初の3枚刃を開発したのが1998年。そこから今や市場には4枚、5枚、6枚刃まで出ています。

――3枚刃以降の開発スピードが格段にアップしたのですね。なぜ、貝印は3枚刃を実現できたのでしょうか。

遠藤
替え刃式よりも廉価なディスポ―ザブルのカミソリを長年扱ってきた中で、いかに価格を抑えてスピーディーに製造するかをずっと追求してきたからです。そこにはやはり、専門の技術が要ります。そういう意味で我々は、替え刃式カミソリをお値打ちにご提供できるという有利なポジションにあったと言えます。先行していた海外メーカーに比べ、貝印の替え刃式カミソリは今でもかなり安価です。コストパフォーマンスの高さで、市場に受け入れられているのだと思います。

高級路線の包丁ブランド「旬」

――貝印はカミソリだけでなく包丁も販売していますね。

遠藤
そうです。祖父の代からつくり続けています。

――カミソリにしても包丁にしても、製造ラインは大きく変わらないものなのですか。

遠藤
どんな刃物も、「プレス・熱処理・刃付け」という三大工程を経てつくられます。

まず、「プレス」。刃物の形をつくる工程です。素材である鋼材を、型に当てて打ち抜く。例えばカミソリの場合、鋼材はシート状なので、型抜きしただけではまだまだ軟らかい。そこで、次に「熱処理」を行います。1,000℃前後の炉で熱してから急激に冷やすことで、鋼材の組織が硬くなります。これを焼き入れといいます。硬いだけだともろいので、焼きなましといって200℃くらいの炉でもう一度焼く。そうすると、硬いだけでなく粘り強いものが出来る、つまり壊れにくくなるのです。そして三大工程の3つめ、「刃付け」。一つずつ研削機という機械に通して刃の先端を削ることで刃を付ける、つまり刃先を形成します。そのあとで刃の表面にいろいろな化学処理を施すという流れです。

――包丁の話に戻りますが、貝印が2000年から発売している包丁ブランド「旬(しゅん)」が世界的にヒットしています。今、累計でどのくらい売れているのですか。

遠藤
おかげさまで、もうじき650万丁くらいになります。

画像: 高級路線の包丁ブランド「旬」

――「旬」は最初から海外で売り出していこうという戦略だったのですか。

遠藤
いや…実は我々、狙って成功した事例ってなかなか無いんですよ(笑)。十何年も経って振り返った時に、「あれがあったから上手く行ったのかな」という感じです。そのために、いろいろなところに種をまくことが大事なのだと思います。

「旬」を開発するにあたって我々が抱えていた課題は、国内において価格の高い包丁がなかなか売れないことでした。当時、貝印の包丁の販売単価はどれも非常に低く、だいたい一丁2,000円くらいだったのです。その状況をなんとか変えたいという思いから、一丁1万円以上するという高級路線の家庭用包丁として「旬」ブランドを立ち上げました。

ところが、日本ではなかなか売れなかったのです。

画像: 遠藤宏治(えんどうこうじ) 1955年、岐阜県関市生まれ。早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業後、アメリカのロヨラ・メリーマウント大学大学院でMBAを取得。1980年、三和刃物(現・貝印株式会社)に入社し、コクヨ株式会社に2年間出向。1989年に父・二代目遠藤斉治朗氏の後を継いで貝印の三代目社長に就任。同社は2014年、世界的なファミリー企業に贈られる「レオナルド・ダ・ヴィンチ賞」を、日本企業として初めて受賞した。

遠藤宏治(えんどうこうじ)
1955年、岐阜県関市生まれ。早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業後、アメリカのロヨラ・メリーマウント大学大学院でMBAを取得。1980年、三和刃物(現・貝印株式会社)に入社し、コクヨ株式会社に2年間出向。1989年に父・二代目遠藤斉治朗氏の後を継いで貝印の三代目社長に就任。同社は2014年、世界的なファミリー企業に贈られる「レオナルド・ダ・ヴィンチ賞」を、日本企業として初めて受賞した。

「後編:大量生産の時代にこそ『野鍛冶の精神』を」はこちら>

シリーズ紹介

楠木建の「EFOビジネスレビュー」

一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。

山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」

山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。

協創の森から

社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。

新たな企業経営のかたち

パーパス、CSV、ESG、カスタマーサクセス、M&A、ブロックチェーン、アジャイルなど、経営戦略のキーワードをテーマに取り上げ、第一人者に話を聞く。

Key Leader's Voice

各界のビジネスリーダーに未来を創造する戦略を聞く。

経営戦略としての「働き方改革」

今後企業が持続的に成長していくために経営戦略として取り組むべき「働き方改革」。その本質に迫る。

ニューリーダーが開拓する新しい未来

新たな価値創造に挑む気鋭のニューリーダーに、その原動力と開拓する新しい未来を聞く。

日本発の経営戦略「J-CSV」の可能性

日本的経営の良さを活かしながら利益を生み出す「J-CSV」。その先進的な取り組みに迫る。

ベンチマーク・ニッポン

日本を元気にするイノベーターの、ビジョンと取り組みに迫る。

デジタル時代のマーケティング戦略

マーケティングにおける「デジタルシフト」を、いかに進めるべきか、第一人者の声や企業事例を紹介する。

私の仕事術

私たちの仕事や働き方の発想を変える、膨らませるヒントに満ちた偉才たちの仕事術を学ぶ。

EFO Salon

さまざまな分野で活躍する方からビジネスや生活における新しい気づきや価値を見出すための話を聞く。

禅のこころ

全生庵七世 平井正修住職に、こころを調え、自己と向き合う『禅のこころ』について話を聞く。

岩倉使節団が遺したもの—日本近代化への懸け橋

明治期に始まる産業振興と文明開化、日本社会の近代化に多大な影響を及ぼした岩倉使節団。産業史的な観点から、いま一度この偉業を見つめ直す。

八尋俊英の「創造者たち」~次世代ビジネスへの視点~

新世代のイノベーターをゲストに社会課題の解決策や新たな社会価値のつくり方を探る。

This article is a sponsored article by
''.