※ 本記事は、2024年11月26日時点で書かれた内容となっています。
かつて盤石だった大企業が輝きを失っていく、そうした事例はどの業界でも見ることができます。栄枯盛衰と言ってしまえばそれまでですが、大企業になるとなぜ市場や技術の変化に対応できなくなってしまうのでしょう。
よく言われることは、組織の構造の問題です。水平的な分業が進み過ぎて組織が縦割りになり、仕事が部分最適化に陥っていく。垂直的な分業で階層が多くなり過ぎて、意思決定をする人が現場から乖離し判断が遅れてしまう。あるいは組織が大きくなるとカルチャーが変わってしまい、仕事のやり方がどんどん官僚的になり、トップも守りに入って将来に向けた大胆な意思決定ができなくなる。大企業病というのは、攻めが足りない状態のことを言っているわけです。
それはその通りなのですが、今回は従来の大企業病とは真逆で、「一発デカいホームランを打とう」とばかりに攻撃的になり過ぎて変われないという、「分母問題」と僕が呼んでいる現象を取り上げたいと思います。この問題を理解してもらうために、まず素晴らしいモノづくりを行っていたベンチャー企業を紹介します。
トニー・ファデルという方が書いた『BUILD』という本があります。ファデルさんはかつてiPodの開発部隊を実質的にリードし、Appleの製品開発の中枢で初代iPhoneの開発チームを率いていた人です。2010年に41歳でAppleを退社し、Nestという自分の会社を立ち上げます。起業のきっかけは彼の旅先での体験で、どのホテルに泊まっても暑過ぎたり寒過ぎたり、空調のサーモスタットの性能や使い勝手が悪いことに疑問を持ちます。全室空調がスタンダードな欧米では、快適性や電力消費量などの面でサーモスタットは重要なパーツであり、この気づきからNestの最初のプロダクトである “スマート・サーモスタット”の構想が生まれます。
サーモスタットからスタートしたNestがめざしていたのは、スマートホームのプラットフォームでした。スマートホームというビジョンはすでにいろいろな企業が掲げていましたが、Nestはその戦略が画期的でした。それは家庭用機器を包括したプラットフォームを最初から開発・販売するのではなく、まずはサーモスタットに集中する。そしてサーモスタットを突破口に、それとつながる家庭用機器を徐々に拡張していけば、結果的にスマートホームのプラットフォームが出来上がる。そういう戦略でした。
ファデルさんは元々がAppleの人なので、このサーモスタットという地味なプロダクトでもモノづくりの本領を発揮します。当時のサーモスタットは、消費者が自分で設置できないようにあえて複雑に作られていた。なぜかと言えば、従来のサーモスタットメーカーは、顧客接点となるエアコン設置業者をがっちりと囲い込んでいたからです。これが参入障壁になっていました。
新規参入のNestが、既存のエアコン設置業者に入り込むことは到底不可能です。つまりNestのサーモスタットは、業者向けの複雑なものではなく、ホームセンターで消費者が自分で購入して簡単に設置できるものでなければなりません。ではどうすればいいか。ここからがモノづくりのプロの仕事です。
ファデルさんはプロトタイプを消費者に試してもらいました。すると、設置作業に1時間かかることが判明します。Nestのサーモスタットは、お客さんが箱を開けて説明書を読み、壁に設置して最初にスイッチを入れるまでの全てが自然で気持ちのいい体験でなければならない。彼はすぐに原因を探ります。
わかったことは、時間がかかっていたのは設置作業ではなく工具を探す作業だということでした。プラスとマイナスのドライバーを見つけるために、キッチンの棚を開けたり工具箱を探したりという工程に時間がかかっていた。そこでファデルさんは、サーモスタットのパッケージに小さなドライバーを1本追加することにします。
おしゃれなデザインで、交換可能なヘッドが4種類付いてるドライバー。これなら設置作業が終わった後でも、お客さんは普段使いの工具としてキッチンの棚や工具箱に置いてくれる。そしてドライバーを使うたびに、Nestのサーモスタットを思い出す。ドライバーが、購買後の顧客との関係を作るツールになるというわけです。
Nestはうまく立ち上がります。その時この事業の将来性に目を付けたのがGoogleでした。買収の話が持ち上がり、2014年にファデルさんは売却を決断します。しかしこの意思決定が、Nestの戦略をぶち壊しにすることになります。それがどういうことだったのかは次回をお待ちください。
第2回は、2月10日公開予定です。

楠木 建
一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授。専攻は競争戦略。一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。一橋大学商学部専任講師、同助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科助教授、同ビジネススクール教授を経て2023年から現職。有名企業の経営諮問委員や社外取締役、ポーター賞運営委員(現任)などを歴任。1964年東京都目黒区生まれ。
著書に『楠木建の頭の中 戦略と経営についての論考』(2024年,日本経済新聞出版)、『楠木建の頭の中 仕事と生活についての雑記』(2024年,日本経済新聞出版)、『経営読書記録 表』(2023年,日経BP)、『経営読書記録 裏』(2023年,日経BP)、『絶対悲観主義』(2022年,講談社+α新書)、『逆・タイムマシン経営論』(2020年,日経BP,共著)、『「仕事ができる」とはどういうことか?』(2019年,宝島社,共著)、『室内生活:スローで過剰な読書論』(2019年,晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる:仕事を自由にする思考法』(2019年,文藝春秋)、『経営センスの論理』(2013年,新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010年,東洋経済新報社)ほか多数。
楠木特任教授からのお知らせ
思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
この10年ほどX(旧・Twitter)を使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。
・140字しか書けない
・オープンな場なので、仕事や生活経験の具体的な中身については書きにくい
・考えごとや主張をツイートすると、不特定多数の人から筋違いの攻撃を受ける
「楠木建の頭の中」は僕のXの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
不定期ですが、メンバーの方々と直接話をする機会も持ちたいと思います。
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山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」
山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。
協創の森から
社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。
新たな企業経営のかたち
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Key Leader's Voice
各界のビジネスリーダーに未来を創造する戦略を聞く。
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今後企業が持続的に成長していくために経営戦略として取り組むべき「働き方改革」。その本質に迫る。
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新たな価値創造に挑む気鋭のニューリーダーに、その原動力と開拓する新しい未来を聞く。
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日本的経営の良さを活かしながら利益を生み出す「J-CSV」。その先進的な取り組みに迫る。
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