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東京大学総長特別参与/大学院工学系研究科社会基盤学専攻教授 沖 大幹氏
「水の悲観論者は間違っているが役に立つ。水の楽観論者は正しいが、危険だ」と言ったのは、水に関する中東地政学の専門家、ロンドン大学・キングスカレッジのトニー・アラン教授だ。沖教授は、この言葉を自著のなかで引用しつつ、水と地球環境と人類の未来について、悲観論と楽観論の適切なバランス感覚を養うべきだと語る。そうした沖教授の冷静な目は、国際標準化活動やバーチャルウォーター(仮想水)研究にも生かされてきた。

「第1回:水のノーベル賞「ストックホルム水大賞」を受賞」はこちら>
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「第3回:温暖化対策と経済発展をセットで」はこちら>
「第4回:悲観論と楽観論の適切なバランスを」
「第5回:優等生でなく、常識を打ち破る「超越人材」を」

悲観も楽観もせず、「うしろめたく生きる」

――前回、温暖化対策には、経済成長に加えて、長期的な視点に立ったビジョンや制度設計が必要だとおっしゃっていましたが、沖先生は非常に現実的というか、楽観・悲観どちらにも傾かないバランス感覚をお持ちですね。


世の中が変わるには、20〜30年といった長い時間がかかることが多いので、焦らないようにしています。振り返れば、昔は飛行機のなかでもタバコを吸っていましたよね? ジェット燃料を積んでいるのにタバコを吸うなんて信じがたいけれど、禁煙が常識になるには20〜30年の時間が必要でした。こういう例に鑑みて、焦る必要はないと考えるようにしています。

気候変動問題にしても、悲観論者はいますぐカーボンニュートラルにしないと世界が壊れてしまうと言うけれど、その危機感は美しいにしても、焦るとむしろうまくいかない。だからといって、サボってはダメなんです。つまり、2050年といった先を見据えて、いまからちゃんと計画を立てて長期的な視点で取り組む必要があると思っています。

再生可能エネルギーにしろ、CCS(CO2の分離・回収技術)にしろ、普及すればするほど価格が安くなっていくと想定されるので、いま慌てて投資をしようというインセンティブが失われてしまいます。そうならないよう、ビジョンや制度設計が必要だと思います。気候変動対策も生態系保全も持続可能な開発も、人のウェルビーイングを損ねてまで急激にやるとうまくいきませんからね。

画像: ――前回、温暖化対策には、経済成長に加えて、長期的な視点に立ったビジョンや制度設計が必要だとおっしゃっていましたが、沖先生は非常に現実的というか、楽観・悲観どちらにも傾かないバランス感覚をお持ちですね。

――そうした沖先生のバランス感覚はどのようにして培われたものなのでしょうか。


実は僕自身、博士課程に進学した頃に、生きていれば日々の暮らしでCO2を排出せざるを得ないし、地球環境問題の根本解決のためには「死んだほうがマシ」と悲観したことがあったのです。でも、死ぬのは嫌だし、結局、研究を続けるなかで、「うしろめたく生きたらいい」と悟ったんですね(笑)。その葛藤がその後の研究やその他の活動にも生かされてきたように思います。

ルールメイキングに日本がコミットすべき

――バランス感覚が求められる活動の一つに、国際標準化活動がありますね。


ISO14046(2014年4月発行)というウォーターフットプリント推計の策定に関わったのは、面白い経験でした。これは、水に関連する潜在的な環境影響を定量化する指標で、ライフサイクル全体にわたって製造プロセスやサービスをモニターし、見直し、改善して環境影響を小さくすることを目的としています。

ただ、標準化作業というのは、正しいか/間違っているかという判断ではなく、どう定義し、どのように要求事項を定めるのが最も適切か、あるいは妥当かを決める取り組みなんですね。したがって、当然、それぞれ自国の利益を損なわないよう、議論を重ねることになります。

例えば、日本の場合、一つの自治体の中に小さな河川流域がいくつも入っていることが多く、多摩川から取水して隅田川に排水するといったことがあり得ますよね。一方、ミシシッピ川ならどこで取水して排水しても、同じ流域に戻るのでconsumption、つまり消費したことにならない。それはズルいでしょう? そこで、最初はriver basin(流域)となっていた用語を、日本からの強い申し入れによりwater bodyとして、流域をまとめて一つの水域としても良い、と決めた経緯があります。こうした国際的なルールメイキングに日本がコミットしていくことはきわめて重要だと思います。

画像: ――バランス感覚が求められる活動の一つに、国際標準化活動がありますね。

仮想水輸入は悪ではない

――沖先生のご研究といえば、もう一つバーチャルウォーター(仮想水)も有名です。


ご承知のように、仮想水というのは、食料などを輸入する国が、それを自国で生産した場合に必要となる水の量を推定したものです。最初、この概念に触れたとき、なぜ小麦1kgの生産に1000Lもの水が必要なのかと疑問を抱き、そこから、手探りで日本の仮想水輸入の定量的な推計をして、食料だけでなく、工業製品についても調べ上げ、2002年の水資源シンポジウムで発表したところ、大きな注目を集めました。

ただ、日本が仮想水を大量に輸入していることが明らかになった結果として、「水に乏しい途上国の水を、日本をはじめとする先進国が奪っている」という誤解も生じました。しかしその後のわれわれの研究で、仮想水輸出国は、どちらかというと一人当たりの水資源量が豊かで、経済的に困窮しているわけではないとわかっています。

そもそも水というのは、低価格で大量に供給されるべきものであり、輸送のコストをかけてまで運搬すべきものではありません。つまりローカルな資源なのです。しかも、水の価値は季節と場所によって異なる。そう考えると、水資源の乏しい国がわざわざ水を輸入して食料を生産するより、水資源の豊かな国で生産された食料を輸入したほうが合理的でしょう。つまり、仮想水をたくさん輸入するのは悪というのは的外れの議論なんですね。

仮想水と似た誤解として、水不足の問題があります。水不足と言うと、渇水を思い浮かべる人が多いと思いますが、安全な飲み水が得られないのは、水資源を確保し、安定供給するのに必要な井戸や堰などの取水施設、もしくは貯留施設などのインフラの整備が不十分な上に、水を浄化して配る仕組みがない、あるいはうまく機能していないためです。つまり、水不足というのは、水が足りないのではなく、開発から取り残されているためなのです。(第5回へつづく

(取材・文=田井中麻都佳/写真=秋山由樹)

「第5回:優等生でなく、常識を打ち破る「超越人材」を」はこちら>

画像: 水問題から気候変動に迫る
【第4回】悲観論と楽観論の適切なバランスを

沖大幹(おき たいかん)
東京大学総長特別参与/大学院工学系研究科社会基盤学専攻教授/未来ビジョン研究センター教授(兼任)。
1964年生まれ。1989年東京大学大学院工学研究科修了、1993年博士(工学)。東京大学生産技術研究所教授等を経て、東京大学大学院工学系研究科教授。2016年より21年まで国連大学上級副学長、国際連合事務次官補を兼務。専門は水文学。気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第5次評価報告書統括執筆責任者等を務めた。2024年8月に「水のノーベル賞」といわれる「ストックホルム水大賞」を受賞。著書に『水危機 本当の話』(新潮選書、2012年)、『水の未来――グローバルリスクと日本』(岩波新書、2016年)他。

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