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沖教授の研究の重要な功績は、気候モデルのなかに河川および人の活動を加えたことにある。この成果は、温暖化の影響評価や洪水の予報に使われるだけでなく、いまや沖教授が作成した水循環の概念図は、IPCCの報告書にも反映されている。一方、その研究はコンピュータやICTの進展、研究者間のデータ共有などがなければ成し遂げられないものだった。研究を始めた1990年代当初は、進取的な研究に否定的な声もあったと振り返る。

「第1回:水のノーベル賞「ストックホルム水大賞」を受賞」はこちら>
「第2回:ICTの発展とデータ共有がカギ」

気象モデルに河川を入れた理由

――沖先生のご研究の肝は、「気象システムのなかに川と人を入れた」ということですが、なぜ、川に着目されるようになったのでしょうか?


東京大学大学院工学系研究科へ進学した後、理学部気象学教室の増⽥耕⼀先⽣(当時)のセミナーにも参加するようになり、大気大循環モデル(GCM:Global Climate Model、現在は全球気候モデルとも呼ばれる)や大気水収支法について学びました。その後、東京大学生産技術研究所の虫明功臣先生の研究室で助手を務めているときに、海外学術調査でタイのチャオプラヤ川を訪れ、これほどの大河川流域であれば、大気水収支法が適用できるのではないか、と考えたのがきっかけです。1989年頃のことです。このあたりの詳しい経緯は、ストックホルム水大賞受賞後に「水文・水資源学会誌」から求められて執筆した論文(「萬象ニ天意ヲ覚ル ―2024年ストックホルム水大賞を受賞して―」水文・水資源学会誌 Vol.37, No.3)に書きました。

もちろん気候システムのなかで河川は主役ではありませんが、気象の極端現象によって被害を受けるのは陸に住む私たちであり、河川は、その陸上の水循環の主要な要素です。そして何より、川の研究者としてGCMに河川を組み込みたいと思っていました。

――その後、1995年に、NASAに行かれたのですよね?


はい。海外特別研究員としてゴダード宇宙飛行センターに滞在しました。ここで、全球土壌水分プロジェクトの面白さにはまり、2年間丸々この研究に費やします。日本での助手の仕事から解放されて、自由な時間を得たことで、研究にのめり込みました。

画像: ――その後、1995年に、NASAに行かれたのですよね?

具体的には、全球の土壌水分を推計するにあたり、人工衛星から得られた観測データだけでなく、どの川がどこをどのように流れているのか、全球の緯度経度1度格子のデジタル河道網(TRIP:Total Runoff Integrating Pathways)を構築し、これを入れ込んで推計することにしました。

ただ、最初は一筋縄では行きませんでした。というのも、河川の流れというのは、高低差だけに依存しているわけではないからです。そこで、デジタルの地形データをもとに、世界地図帳などを参考にしながら手作業で補正しながら全大陸で川がどこをどう流れているかという河道網をつくり上げました。集中して作業したおかげで、3カ月ほどで完成させることができましたが、このときはまだ、「人の活動」は入っていませんでした。

ICTの発展や気候変動への関心の高まりとともに

――計算にはスーパーコンピュータを使うのですか?


スパコンは必要ですが、むしろ問題はグローバルな降雨情報や気温などの大量の気象データの出入力の方で、これをいかに高速に読み書きできるかがカギを握ります。つまり、スパコンの横に大規模なストレージを直接つなげておかないと計算できないのです。川のデータはとくに並列化しにくいという難点もありました。

そういう意味では、私自身は当時、NASAのUNIXマシンを使えたのは恵まれていました。また、さまざまな気象データは世界の研究仲間から提供していただきました。雨のグローバルな分布を研究している研究者からのデータを使わせてもらったり、気象庁や欧州中期天気予報センター(ECMWF)、アメリカ海洋大気庁(NOAA)から数値天気予報に使う初期値データを共有いただいたりして、それらのデータを補正して陸面の境界条件として与えて土壌水分を計算していました。当然、一人ではできないわけで、お互いのデータを融通し合うグローバル水文学の文化があったからこそできた研究と言えます。また、GEWEXという全球エネルギー水循環研究プロジェクトの存在も大きかったと言えます。

とはいえ当時は、CD-ROMやフロッピーの時代ですからね(笑)。さまざまなデータを収録した媒体を国際郵便で送ってもらって、何枚もデータを取り込むという地道な作業が不可欠で、いまなら数時間でできてしまうような計算に何日もかかるほどでした。

画像: ――計算にはスーパーコンピュータを使うのですか?

――クラウドもまだなかった時代ですね。


データは自分で持つものでした(笑)。でも、こうした粘り強い取り組みにより、雨がどこにどれくらい降り、太陽からのエネルギーによってどれくらいが蒸発し、どれくらいが川に流れ込み、北半球では低気圧が西から東へ動き、それに応じて川の水が増える様子などを、アニメーションとして見ることができるようになりました。初めて見たときにはとても感動しましたよ。

この成果は温暖化の影響評価にも使えるし、実時間での洪水の予報にも使える。さらには過去の全球の水収支の再現、未来の予測にまで広く応用できます。

まさに、われわれの研究は、地球観測技術の発展に加え、コンピュータとICTの発展とともに歩んできたと言っていいでしょう。同時に、気候変動問題が世界の関心事となり、グローバルな水循環に社会の目も学術の関心も集まってきたタイミングで研究できたのは、非常に幸運だったと思っています。

「そんな研究は意味がない」と言われたことも

――そのほかにもご苦労はあったのでしょうか?


1990年代の当時は、「グローバルな水循環なんて、エンジニアリングには関係ないだろう」と言われたこともあります。また、「全球気候モデル(GCM)で計算する降水量のように、精度の悪いデータを使って計算しても意味がない」といった否定的な意見もありました。そんな折、恩師である虫明先生が、「基礎的な研究はいずれ役に立つときが来る」と言ってくださったことはとても励みになりました。

なお、2000年代の初め頃には、ダムの貯留と放流、灌漑取水などの人間活動が、グローバルな水循環に及ぼす影響が看過できないことを、われわれは深く認識していました。当時はまだ人新世という言葉は知りませんでしたが、グローバルスケールでも探知できるほど人間活動が水循環に影響を及ぼしているのであれば、人間活動も考慮した現実の水循環を研究することが科学の役目だと考えたのです。それが、前回お話しした、2006年の「Science」論文へと結実したわけです。

(取材・文=田井中麻都佳/写真=秋山由樹)

第3回は、2月11日公開予定です。

画像: 水問題から気候変動に迫る
【第2回】ICTの発展とデータ共有がカギ

沖大幹(おき たいかん)
東京大学総長特別参与/大学院工学系研究科社会基盤学専攻教授/未来ビジョン研究センター教授(兼任)。
1964年生まれ。1989年東京大学大学院工学研究科修了、1993年博士(工学)。東京大学生産技術研究所教授等を経て、東京大学大学院工学系研究科教授。2016年より21年まで国連大学上級副学長、国際連合事務次官補を兼務。専門は水文学。気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第5次評価報告書統括執筆責任者等を務めた。2024年8月に「水のノーベル賞」といわれる「ストックホルム水大賞」を受賞。著書に『水危機 本当の話』(新潮選書、2012年)、『水の未来――グローバルリスクと日本』(岩波新書、2016年)他。

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