ストックホルム水大賞とは
――受賞おめでとうございます。8月のストックホルム国際水週間において、スウェーデン王室による授賞式と晩餐会が開催され、スピーチもなさったようですね。いかがでしたか?
沖
緊張しました。受賞スピーチがメインコースの後だったので、美味しそうな前菜もトナカイのステーキも、ノンアルコールワインでいただくことになってしまいました(笑)。
――ストックホルム水大賞は、水のノーベル賞と言われていますね。
沖
この賞は、世界中から推薦された候補者のうち、ストックホルム水財団(SWF)の選考委員会が選んだ3名について、ノーベル物理学賞などを選考するスウェーデン王立科学アカデミーがさらに評価を加え、1名の受賞者を決めるというものです。子どもの頃はノーベル物理学賞を夢見ていたのですが、違うかたちで夢が叶いました。

――予想されていたのですか?
沖
2022年、2023年とノミネートはされていたのですが、2年連続でダメだったので、諦めていたんですね。ですから、今年(2024年)2月にSIWIから電話がかかってきたときは、手の込んだ国際詐欺じゃないかと思ったほどです(笑)。なお、日本人としては、建設省で日本の下水道普及に尽力された久保赳さん(1994年)、再生水利用の研究の大家であるカリフォルニア大学名誉教授の浅野孝先生(2001年、受賞時すでに米国籍)以来、23年ぶりの受賞になります。
――2024年の本家のノーベル賞はAI研究者が目立ちました。先生ご自身も地上の水循環をシミュレーションなどで明らかにされていますが、水の研究においてもAIなどコンピュータを用いた研究が主流になりつつあるのでしょうか?
沖
グローバルなシミュレーションにコンピュータは不可欠なので、当然そうした流れはありますが、水大賞について言えば、2023年は水と生態系についての専門家が受賞されましたし、2022年は温暖化と水の蒸発散についての理論研究をされた米国コーネル大学のWilfried Brutsaert名誉教授が受賞されたことから、近年はどちらかという基礎研究に軸足を置いているように思います。やはり気候変動は大きな焦点になっていますね。
一方、本家のノーベル賞はいま、転機にあると言えます。ノーベル賞を創設したアルフレッド・ノーベルは、もともと対象者を「人類に最大の恩恵を与えた人々」としたように、平和構築など社会に貢献する科学的発見や発明を表彰しようと考えていました。そうした意味もあってか、近年は社会に役立つかどうかに主眼が置かれているように見えます。基礎研究者には厳しいですね。
もっともAIやコンピュータサイエンスは基礎研究にもいまや欠かせません。2021年に、温暖化予測の数値シミュレーションにより、真鍋淑郎先生がノーベル物理学賞を受賞されたのは、その最たるものでしょう。
世界の見方を変えた「Science」論文
――改めて受賞理由と水文学について教えてください。
沖
受賞者紹介ページの冒頭には、「仮想水貿易、デジタル河川地図、人間活動を考慮した水循環などについての世界的な研究」とあります。端的に言えば、「気候システムのなかに川と人を入れた」ということになります。気候変動の問題を考える際に、地球規模の水収支を踏まえて、洪水が増えるか/減るか、干ばつが増えるか/減るか、といった議論ができるようになった背景には、まさにわれわれの研究成果があります。
そもそも、これまで自然科学というのは、人間以外の自然を扱ってきました。つまり自然科学の理論は、人を排除した手つかずの自然を観察することで生み出されてきた。いわば、「デジタルツイン」ならぬ「ナチュラルツイン」を仮想的につくり出すことにより真理を解き明かそうとしてきたと言ってもいいかもしれません。それでも、研究対象としての気候システムに川と人の営みを考慮したのが、われわれの最大の貢献と言えます。なぜなら、実際の水環境は、ダムに貯留したり、灌漑をしたり、地下水を汲み上げたりするように、人の手が加わっている。それは、人新世(Anthropocene)※においては当然のことでしょう。われわれの研究が、従来の自然科学のあり方自体に少しは一石を投じたと言っていいと思います。

――水文学の中にも、当然、人が入ってると?
沖
そうです。天文学が天に関する森羅万象を扱うように、水文学は地球上の水循環に関わる森羅万象を対象とする学問です。物理化学的なメカニズムから水と人との関わりまで、非常に幅広い学問なんですね。
私の研究でとくに注目されたのが、2006年に「Science」誌に掲載された論文※です。そのなかで、地球上の水文循環量と貯留量を示し、河川および灌漑、工業(用水)、家庭(用水)を加えた概念図を入れたのですが、これが大きな反響を呼びました。当時は、水分野の論文が「Science」や「Nature」に掲載されること自体まだ珍しかったということもあります。
なお、Google Scholarによればこの論文の引用は4600以上に上ります(2024年11月末時点)。また、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の最初の評価報告書(1990年)には水循環も河川も地下水も、ましてや人間活動もまったく含まれていなかったのですが、2021年の第6次評価報告書には、人間の営みを含んだ水の流れの模式図が加えられることになりました。
※人新世(Anthropocene)
「人類の時代」を意味し、地質学の新しい時代区分とされるが、正式な地質年代とするか議論が続いている。1950年頃からの時代を指す。人類の経済活動などが地球規模の環境変化をもたらした影響に注目して、オゾン層の破壊を警告しノーベル化学賞を受賞したドイツのパウル・クルッツェンと、アメリカの生態学者ユージン・ストーマーによって2000年に提唱された。
※ Oki T, Kanae S. 2006. Global Hydrological Cycles and World Water Resources. Science 313: 1068-1072.
DOI https://doi.org/10.1126/science.1128845
水循環に人間活動が与える影響
――先生ご自身は、自然科学に人の活動を加えることに違和感はなかったのでしょうか?
沖
違和感がなかったわけではありません。ところがあるとき、大気の流れから水蒸気の動きを見て、地上の水収支を見るなかで、降る雨よりも蒸発する量のほうが多い地点があることに気づいたのです。最初はデータのミスだろうと思っていたのですが、後に、人間が川の水を灌漑に使ったり、地下水を汲み上げていたりしている結果だとわかりました。大気の水蒸気の流れは天気予報のためにつくられたデータで、観測に基づくものですが、そこに地上の人間活動が反映されていると気づいたときは、身震いするほどすごい話だと思いました。だとすれば、グローバルスケールでも、人間活動を含んだ水の循環を研究する必要がある、と考えたわけです。
ちなみに先の「Science」論文は、グローバルな水循環と世界の水資源の概説として、現在でも通用する内容を盛り込んでいます。世界中の大学の初心者向けの講義などでも使われているようで、初めて会った人から、「読んだことがあります」と言われることも多い。自分で言うのもなんですが、いま読んでもなかなかいい論文だと思っています(笑)。(第2回へつづく)
(取材・文=田井中麻都佳/写真=秋山由樹)

沖大幹(おき たいかん)
東京大学総長特別参与/大学院工学系研究科社会基盤学専攻教授/未来ビジョン研究センター教授(兼任)。
1964年生まれ。1989年東京大学大学院工学研究科修了、1993年博士(工学)。東京大学生産技術研究所教授等を経て、東京大学大学院工学系研究科教授。2016年より21年まで国連大学上級副学長、国際連合事務次官補を兼務。専門は水文学。気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第5次評価報告書統括執筆責任者等を務めた。2024年8月に「水のノーベル賞」といわれる「ストックホルム水大賞」を受賞。著書に『水危機 本当の話』(新潮選書、2012年)、『水の未来――グローバルリスクと日本』(岩波新書、2016年)他。
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