「第1回:事後性」はこちら>
「第2回:足るを知る」
「第3回:文脈思考とその効用」はこちら>
「第4回:そんなにイルか?」はこちら>
※ 本記事は、2024年9月3日時点で書かれた内容となっています。
前回の2時間1万円作戦のポイントは、読書にインセンティブ(誘因)は効かないので、今すぐどうしても読みたいという内発的なドライブ(動因)に訴えてみる。それによって読書の持つ事後性が克服できるのではないか、という提案でした。ところが、ドライブでも乗り越えられない事後性の大問題があります。「足るを知る」です。
僕は「足るを知る」が人間の生活における最重要テーマだと思っているのですが、ここにも事後性という問題が横たわっています。まず、「足るを知る」ことの深い価値を事前に理解することはできません。しかも、足りた状態を経験しないと「足るを知る」ことができない。強烈な事後性があります。
何かが足りていない状態というのは、人間のモチベーションの源泉です。自分がありたい状態と現状とのギャップの認識がモチベーションの定義ですから、「足るを知る」に逆行してしまいます。モチベーションは枯渇感だと言ってよい。やればやるほどまだまだ足らないといった枯渇感を強めることもあります。例えばコレクション地獄というのは、そういう状態に陥っているということです。
僕も30代の頃に、軽いオーディオ地獄にはまったことがあります。いろいろなオーディオ雑誌を毎号入念にチェックして、気になるアンプやスピーカーがあればわざわざお店に行って試聴する。そうやって時間と労力と費用をかけてようやくアンプ、スピーカー、プレーヤーを取り揃えた後に待っていたのが、ケーブル地獄でした。今度は機器をつなぐケーブルが音に影響するということで、かなり無駄なお金を注ぎ込みました。これこそ「足るを知る」の真逆で、知れば知るほど足らなくなるという状態です。今考えれば、浪費以外の何物でもありません。
そんなオーディオ地獄を経由した僕が知る最高の音は、アイリスオーヤマ創業者である大山会長のご自宅にあるオーディオシステムで聴かせていただいたものでした。それは言葉にできるはずもないとてつもない音で、これこそ究極のオーディオシステムだと思いましたが、会長は今もさらに良い音を追求されているそうです。当然ですが、世の中上には上がいる。ただし会長は、お金を使うのはオーディオだけで、他に欲しいものもないし贅沢もしないとおっしゃっていました。これは1つ上の次元の「足るを知る」です。
大山会長もそうなのですが、「足るを知る」人というのは、多くの場合すでに足りている人です。例えばものすごくお金を稼いだ後に、やっぱり人生は金じゃないと気づいた人。散々放蕩を重ねた後に、もう一生分遊んだからとあっさりとした生き方をしている人。ものすごくファッションにお金をつぎ込んできた後に、さりげない普通の格好をしている人。こういうケースでは自然と「足るを知る」ことができます。
つまり「足るを知る」は、裏を返すと「足らないと知ることができない」。しかしそれでは、ごく限られた人にしか事後性が克服できないことになります。僕はそこまで足りた状態を経験しなくても、もっと気軽に「足るを知る」ことができる方法はないものか、ずっと考えてきました。そしてたどりついたのが、「そんなにイイか?」というメソッドです。
これを実践するのは非常に簡単です。普段生活してる時に、「この人は恵まれているな」「こんなことができるっていいな」「あんな生活ができるなんてうらやましいな」と思うことがあります。そんな時、すかさず脳内で「そんなにイイか?」と突っ込みを入れる、たったこれだけです。この言葉を自分に問うと、大体の場合「いや、そうでもないか」と気づかされます。つまり他者との比較ではなく、自分の本心に再考をうながすことで「足るを知る」を目ざすというメソッドです。
その実践は、次回ご紹介します。(第3回へつづく)
楠木 建
一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授。専攻は競争戦略。一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。一橋大学商学部専任講師、同助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科助教授、同ビジネススクール教授を経て2023年から現職。有名企業の経営諮問委員や社外取締役、ポーター賞運営委員(現任)などを歴任。1964年東京都目黒区生まれ。
著書に『経営読書記録 表』(2023年, 日経BP)、『経営読書記録 裏』(2023年, 日経BP)、『絶対悲観主義』(2022年,講談社+α新書)、『逆・タイムマシン経営論』(2020年,日経BP,共著)、『「仕事ができる」とはどういうことか?』(2019年,宝島社,共著)、『室内生活:スローで過剰な読書論』(2019年,晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる:仕事を自由にする思考法』(2019年,文藝春秋)、『経営センスの論理』(2013年,新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010年,東洋経済新報社)ほか多数。
楠木特任教授からのお知らせ
思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
この10年ほどX(旧・Twitter)を使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。
・140字しか書けない
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「楠木建の頭の中」は僕のXの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
不定期ですが、メンバーの方々と直接話をする機会も持ちたいと思います。
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シリーズ紹介
楠木建の「EFOビジネスレビュー」
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山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」
山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。
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経営戦略としての「働き方改革」
今後企業が持続的に成長していくために経営戦略として取り組むべき「働き方改革」。その本質に迫る。
ニューリーダーが開拓する新しい未来
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日本発の経営戦略「J-CSV」の可能性
日本的経営の良さを活かしながら利益を生み出す「J-CSV」。その先進的な取り組みに迫る。
ベンチマーク・ニッポン
日本を元気にするイノベーターの、ビジョンと取り組みに迫る。
デジタル時代のマーケティング戦略
マーケティングにおける「デジタルシフト」を、いかに進めるべきか、第一人者の声や企業事例を紹介する。
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私たちの仕事や働き方の発想を変える、膨らませるヒントに満ちた偉才たちの仕事術を学ぶ。
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さまざまな分野で活躍する方からビジネスや生活における新しい気づきや価値を見出すための話を聞く。
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全生庵七世 平井正修住職に、こころを調え、自己と向き合う『禅のこころ』について話を聞く。
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明治期に始まる産業振興と文明開化、日本社会の近代化に多大な影響を及ぼした岩倉使節団。産業史的な観点から、いま一度この偉業を見つめ直す。
八尋俊英の「創造者たち」~次世代ビジネスへの視点~
新世代のイノベーターをゲストに社会課題の解決策や新たな社会価値のつくり方を探る。