「第1回:好き嫌い、野中郁次郎氏の場合。」
「第2回:曖昧さを許容する。」はこちら>
「第3回:特攻隊の生き残り。」はこちら>
「第4回:理論は明るく。」はこちら>
※ 本記事は、2024年2月26日時点で書かれた内容となっています。
野中実行委員長
楠木
今回は、僕が特任教授を務めている一橋ビジネススクールの大先輩、野中郁次郎名誉教授との対談です。野中先生、今日はお越しいただきありがとうございます。
野中
どうもどうも。
楠木
読者の皆さんは、『知識創造企業』や『ワイズカンパニー』などの野中先生の理論はすでにご存じかと思います。今日の対談は、野中先生がどんな方なのか、その類まれな思考の源泉がどこにあるのかを探りたいという趣旨です。
野中
なるほど。
楠木
まずは、野中先生の好き嫌い――価値基準について聞いていきたいと思います。1つ、僕にとって印象に残っているエピソードがあります。僕がまだ駆け出しの研究者だった30年ほど前、一橋大学で組織学会を開催することになりました。僕は準備でバタバタしていたんですが、実行委員長の野中先生は何もしない(笑)。学会当日に野中先生の挨拶があるので「それだけは来てください」とお伝えしていました。で、当日の朝、大学の正門で待っていたんです。そうしたら野中先生がのんびり自転車でやって来られた。「先生、こっちです」と案内したら、「おっす」って、そのままご自分の研究室に行ってしまわれたんです。
野中
(笑)。
楠木
ですから、実行委員長みたいな仕事はきっと嫌いなんだろうなと。
野中
うん、嫌いですね。あまりやりたくない。
自分の理論を否定する
楠木
僕が初めて野中先生にお会いしたのは、一橋大学の学部生として受講した「特殊講義」でした。
野中
ああ、あなたもその場に。
楠木
野中先生は当時、一橋大学の産業経営研究所(現・一橋大学イノベーション研究センター)に在籍されていて、学部生向けの講義はお持ちでなかった。年に1回だけ学部生向けに開講していた科目が「特殊講義」でした。テーマは、当時の組織論において中心的な話題だった「情報処理パラダイム」でした。
野中先生がその講義で初めに教えてくださったことは、本の読み方です。教材は、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。どんな倫理がどんな因果関係でつながっているのかを、まずはモデル図にしてみることで、本に書かれている構成概念を把握する――本ってこういうふうに読むのかと、目から鱗が落ちました。で、そのあと情報処理パラダイムについての解説があったわけですが、講義の最後に野中先生はこう宣言されました。「僕は、情報処理パラダイムの研究はやめる」。
野中
そうそう。
楠木
「これからは情報“創造”だ」と。
野中
その頃はまだ「知識創造」と言っていなかった。
楠木
僕としては、せっかく野中先生の『組織と市場』を読んで情報処理パラダイムを勉強しようとしていたのに、当のご本人が「もう捨てた」と。なぜなら「情報処理パラダイムは、本質的に考え方が暗いからだ」と。そうおっしゃっていたことが衝撃で、今でも覚えています。
野中
そこから「知識創造理論」に行って、近年では「ワイズカンパニー理論」を提唱している。情報から知識へ、知識から知恵へと、ある意味での自己否定を重ねてきたわけです。あなたもそうだよね。
楠木
いや、僕は否定するほどの自己もないので、野中先生とは比べ物にならないですけど。
知識創造理論と芸者
楠木
野中先生が「知識創造理論」を掲げられ、「暗黙知」と「形式知」の作用が大切だと主張されるようになった1990年頃、僕は一橋大学商学部の教員として働き始めていました。当時は年に一度、教授会で温泉宿に泊まりに行くという恒例行事がありました。夜になると大広間で宴会が始まる。コの字型にお膳が据えられ、今では考えられませんが、芸者さんがお酌して回っていました。で、僕は末席にいたのですが、気づくと上席にいらした野中先生が芸者さんに何やら一生懸命語っている。内容まで聞こえなかったんですが、身振り手振りを見るとどうやら暗黙知と形式知の説明をしている。そのうち指をくるくるっと回旋したので、知識創造のスパイラル(※)の話をしているなと。
※ 暗黙知と形式知という2つの知識形態が相互に作用し合い、新しい知識(価値)を生むこと。個人のレベルにあった暗黙知が、共有可能な集合知、組織知へと変換され、個人が実践することで暗黙知が豊かになるプロセスであり、高いレベルへダイナミックかつ螺旋状に回転していく。
野中
(笑)。
楠木
面白そうなので、2人が話しているのを聞きに先生の近くまで行ったんです。そうしたらこんな会話が聞こえてきました。「わたしは自転車に乗れるけれども、乗り方を人に説明することはできない。先生、これって暗黙知ですよね?」「まったくそのとおり」――何を見ても、だれに対してでも、今ご自分が熱中していることを説明せずにいられない。野中先生って、よっぽど考えることがお好きなんだなと思いました。
優しい先生
楠木
僕が大学院の修士課程にいた頃、こんなことがありました。研究のために、どうしても株式会社リコーにインタビューに行きたい。ですが当然、一学生の依頼など通るはずがない。困っていたら野中先生が「じゃあ、僕が掛け合ってみよう」とおっしゃってくださったんです。すぐにリコーからOKが出て、北青山にあるリコーのオフィスに先生と2人で行くことになりました。
たかだか23、24歳の一学生のために、あの野中先生がわざわざ一緒に来てくださった――なんて優しい先生なんだろうと思ったんです。で、リコーの偉い方が出てきてくださったのですが、先方が何かおっしゃる度に野中先生は「それは暗黙知ですね」「それは形式知ですね」――先生とリコーの方とのディスカッションになってしまって、一向に僕が聞きたいことが聞けない。結局、日を改めて1人で出直しました。
野中
(笑)。
楠木
そのときも野中先生は、何を見ても何を聞いても「知識創造」。思考に対する集中力が半端ないんです。
野中
「凝る」って言うのかな。確かに、そのときどきに熱中していることしか僕は話さない。ただ、何年経ってもずっと1つのアイデアにこだわるわけというでもない。さっきも言ったように、自己否定もする。そのときどきに好きなことに集中して自分なりの理論を作り上げる。で、のちのちそれを否定することで、過去の自分を超えていく。そこは楠木さんとの共通項かもしれません。(第2回へつづく)
野中郁次郎(のなか いくじろう)
1935年東京都生まれ。1958年早稲田大学政治経済学部卒業。カリフォルニア大学バークレー校経営大学院にてPh.D,取得。現在、一橋大学名誉教授、日本学士院会員、中小企業大学校総長。2017年カリフォルニア大学バークレー校経営大学院より「生涯功労賞」を受賞。ピーター・F・ドラッカー伊藤雅俊経営大学院で特別スカラーも務めた。知識創造理論を世界に広めたナレッジマネジメントの権威として世界中のビジネスリーダーに多大な影響を与え、知識創造理論は多くの組織経営に応用されている。主な著書に『失敗の本質』(共著、ダイヤモンド社)、『知識創造企業』『ワイズカンパニー』(いずれも共著、東洋経済新報社)、『野性の経営』(共著、KADOKAWA)など多数。
楠木建(くすのき けん)
一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授。専攻は競争戦略。一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。一橋大学商学部専任講師、同助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科助教授、同ビジネススクール教授を経て2023年から現職。有名企業の経営諮問委員や社外取締役、ポーター賞運営委員(現任)などを歴任。1964年東京都目黒区生まれ。
著書に『絶対悲観主義』(2022年,講談社+α新書)、『逆・タイムマシン経営論』(2020年,日経BP,共著)、『「仕事ができる」とはどういうことか?』(2019年,宝島社,共著)、『室内生活:スローで過剰な読書論』(2019年,晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる:仕事を自由にする思考法』(2019年,文藝春秋)、『経営センスの論理』(2013年,新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010年,東洋経済新報社)ほか多数。
楠木特任教授からのお知らせ
思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
この10年ほどX(旧・Twitter)を使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。
・140字しか書けない
・オープンな場なので、仕事や生活経験の具体的な中身については書きにくい
・考えごとや主張をツイートすると、不特定多数の人から筋違いの攻撃を受ける
「楠木建の頭の中」は僕のXの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
不定期ですが、メンバーの方々と直接話をする機会も持ちたいと思います。
ビジネスや経営に限らず、人間の世の中について考えることに興味関心をお持ちの方々のご参加をお待ちしております。DMM社のプラットフォーム(月額500円)を使っています。
お申し込みはこちらまで
https://lounge.dmm.com/detail/2069/
ご参加をお待ちしております。
シリーズ紹介
楠木建の「EFOビジネスレビュー」
一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。
山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」
山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。
協創の森から
社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。
新たな企業経営のかたち
パーパス、CSV、ESG、カスタマーサクセス、M&A、ブロックチェーン、アジャイルなど、経営戦略のキーワードをテーマに取り上げ、第一人者に話を聞く。
Key Leader's Voice
各界のビジネスリーダーに未来を創造する戦略を聞く。
経営戦略としての「働き方改革」
今後企業が持続的に成長していくために経営戦略として取り組むべき「働き方改革」。その本質に迫る。
ニューリーダーが開拓する新しい未来
新たな価値創造に挑む気鋭のニューリーダーに、その原動力と開拓する新しい未来を聞く。
日本発の経営戦略「J-CSV」の可能性
日本的経営の良さを活かしながら利益を生み出す「J-CSV」。その先進的な取り組みに迫る。
ベンチマーク・ニッポン
日本を元気にするイノベーターの、ビジョンと取り組みに迫る。
デジタル時代のマーケティング戦略
マーケティングにおける「デジタルシフト」を、いかに進めるべきか、第一人者の声や企業事例を紹介する。
私の仕事術
私たちの仕事や働き方の発想を変える、膨らませるヒントに満ちた偉才たちの仕事術を学ぶ。
EFO Salon
さまざまな分野で活躍する方からビジネスや生活における新しい気づきや価値を見出すための話を聞く。
禅のこころ
全生庵七世 平井正修住職に、こころを調え、自己と向き合う『禅のこころ』について話を聞く。
岩倉使節団が遺したもの—日本近代化への懸け橋
明治期に始まる産業振興と文明開化、日本社会の近代化に多大な影響を及ぼした岩倉使節団。産業史的な観点から、いま一度この偉業を見つめ直す。
八尋俊英の「創造者たち」~次世代ビジネスへの視点~
新世代のイノベーターをゲストに社会課題の解決策や新たな社会価値のつくり方を探る。