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「第2回:少子化問題から母子の健康、家族の健康へ」
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岩見沢市で母子の健康に着目した理由
――母子の健康に関する取り組みは、どういったきっかけで始まったのでしょうか?
竹本
背景には、少子化、出生率の減少がありました。特に岩見沢市では2006年から人口減少に転じ、出生率は2018年まで全国平均よりも低い値で推移しており、2022年には出生率が0.99と、とうとう1を切ってしまいました。一方、岩見沢市とディスカッションを重ねるなかで、医療や健康に関するデータを利活用するための仕組みづくりが必要であるという課題も見えてきました。
そうしたなか、安心して出産・子育てができる環境づくりに注力する岩見沢市が問題視していたのが、2,500g以下で生まれてくる低出生体重児の存在です。私も最初、日本に低体重で生まれてくる子どもが10人に1人の割合でいると聞いたときは驚いたのですが、実はこの数字は、OECD加盟国の平均より1.5倍も高く、世界でもワーストクラスとなっています。要因の一つとして、ダイエット志向の高まりで、痩せ型の女性が増えていることが挙げられています。つまり、妊婦さんの栄養不足によって胎児に栄養が十分に行き渡らないことが一因になっているのです。
なお、DOHaD(Developmental Origins of Health and Disease)説によると、お母さんのお腹のなかで低栄養状態にあった低出生体重児は、大人になってから糖尿病などの生活習慣病に罹りやすいとされています。つまり胎児期から幼少児期の母子の栄養と発育をサポートすることは、子どもたちの将来の健康リスクの低減、ひいては医療費・社会保障費の削減にも効いてくるかもしれない。長期にわたって継続的に母子の健康ケアをしていけば、DOHaD仮説の検証にも役立つとも考えられ、非常にいい着眼点だったと思っています。
低出生体重児の比率減少に貢献
――具体的にはどのような取り組みをされたのですか?
竹本
2016年から、北海道大学COI(Center of Innovation)『食と健康の達人』拠点の一員として、岩見沢市に住むプレママ(妊娠する前の女性)から妊婦、ママ・乳幼児、幼児、学童に至るまでの食事調査と、母乳や血液、便の分析などを行ってきました。
さらに、DOHaD仮説の観点に基づき、子どもの発育・発達に影響があるとされる腸内環境に着目し、母の食事から母の腸内環境が影響を受け、それが子どもの腸内環境に影響を与える経路モデルを仮定し、母の食事情報と腸内細菌叢の関係について調査しました。データ分析を通じて、着目した腸内細菌に対して有意な栄養素を特定できるなど、今後、妊婦さんの栄養状態を簡便に調べるための「健康ものさし」(簡易な健康指標)の構築が期待できます。
このなかで日立は、これまでばらばらに存在していた母子健康、周産期医療、医療・介護レセプトなどの健康データの紐付けが可能な統合データベースと分析基盤からなる「健康データ統合プラットフォーム」を開発し、地域の方たちの健康状態の見える化に貢献しています。
――得られたデータ解析から、実際に妊婦さんにフィードバックをされたのでしょうか?
竹本
はい。とくに効果的だったと思われるのが、BDHQ (Brief-type self-administered Diet History Questionnaire)という、食事に関する質問票です。便や母乳の分析結果とともに、妊婦さんに足りない栄養素をアドバイスしたところ、2014年に10.4%だった岩見沢市の低出生体重児の比率が、2019年には6.3%と大きく改善したのです。従来の施策では産後のケアが中心でしたが、妊婦さんに働きかけ、行動変容を促したのがこの取り組みの大きな特長です。
すでにCOIは終了しましたが、その後も岩見沢市の健康施策としてデータは継続的に蓄積されています。つまり、最初に調査を開始したときからご協力いただいている子どもたちの成長とともに、その後の腸内環境などの健康状態も見ることができます。そうしたことから、継続的にデータを蓄積・解析し、将来、「お子さんはしっかり成長していますよ」と親御さんに伝えることも、子どもを安心して産み育てるためには非常に重要なことだと思っています。
データ連携でも数学が鍵を握る
――この活動はさらに進展しているのでしょうか?
竹本
はい、ここからがまさに数学の出番です。腸内細菌叢と他の健康パラメータとの網羅的データ分析により、子どもの発育・成長に有用となる栄養成分などを抽出する食・腸・生活分析ツールを開発し、数学的な手法を使いながら、さらなる「健康ものさし」の探索を進めようとしています。
また、健康データ統合プラットフォームに、レセプトデータの分析による「健康予報システム」や「ソーシャルキャピタル(社会関係資本)分析」などを入れ込むことにより、医療費や疾病数といった地域の健康特性に加えて、人々の協調活動や活性度といった地域力を、地域特性として可視化することで自治体と連携した健康施策の設計にも役立てていこうとしています。さらに、個人の健康データについては、母子健康調査で収集した母と子のデータだけではなく、そのご家族の健康も含めたデータベースに発展できればと考えています。
それらに加え、北海道大学COI NEXTの取り組みのなかで、少子化問題にさらに踏み込んで、若者を対象としたライフデザインやキャリアプラン、プレコンセプションケア(※)に資する取り組みを日立内の別の部署とも連携しながら始めています。さまざまな聞き取り調査やデータを連携して、数学の力も使いながら、単に少子化に寄与するというよりも、若者の人生の選択肢を広げ、生涯にわたる健康やウェルビーイングに資するような支援を進めているところです。
※将来の妊娠を考えながら女性やカップルが自分たちの生活や健康に向き合うこと。
(取材・文=田井中麻都佳/写真=秋山由樹)
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竹本享史(たけもと・たかし)
日立製作所 研究開発グループ 基礎研究センタ 日立北大ラボ ラボ長代行、北海道大学客員教授。
2006年、日立製作所入社。情報処理装置向け高速有線通信技術の研究開発などを経て、現在、社会課題解決に向けた健康データ統合プラットフォームや地域エネルギーシステムの研究開発に従事。科学博士。
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