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一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授 楠木建氏
有名な鴨長明の随筆『方丈記』。読むにはハードルが高いと思われがちな作品だが、「住まいに興味のある方こそ読むべき」と楠木氏は勧める。

※本記事は、2023年7月11日時点で書かれた内容となっています。

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「第3回:生活哲学としての『方丈記』。」
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住宅建築には適正なサイズがあり、ほどよく小さい家こそ人間にとって居心地がいい――その考え方の原点にして頂点が鴨長明(1155年~1216年)です。彼が書いた『方丈記』の冒頭、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」の一節がよく知られていますが、住まいについて興味のある方にとっての必読書です。2018年に光文社古典新訳文庫から『方丈記』の読みやすい現代語訳版が出ています。

『方丈記』は、この世の無常という仏教的な考え方と草庵での簡素な生活を淡々とつづった随筆です。生活というリアリティを伴った文脈で、哲学を説く。それが人々の心に残り、今に読み継がれている。日本を代表する中世の作品です。

あの有名な冒頭を読むと、人生を達観して隠遁生活を送っている人――そんなイメージを鴨長明に持ちますが、読み進めると全然そうじゃない。亡くなる1年ほど前に当時の都、京の郊外の小さな庵に移り住む鴨長明ですが、依然として現実世界を生き迷って葛藤している。全然、達観の境地に至らない。それでも、この世の無常を自分に言い聞かせている――そういう随筆です。

鴨長明は「豪邸なんかに住んでいてもしょうがない」という無常観を掲げています。今と中世とで時代背景は違いますが、その理由として次の2つを挙げています。

1つは、社会環境というものはそんなに安定したものではないから。どんなに美しく立派な都でも、火災や地震、飢饉がひとたび起きようものなら、一瞬にして全部朽ち果ててしまう。あるいは遷都によって、それまで都の民として綺麗に着飾って生活していた人々が一気に路頭に迷ってしまう。豪華な邸宅なんかに財産をつぎ込んで、後であれこれ苦労するのは愚の骨頂だというわけです。

仮にそういう大きな環境変化がなくても、自律と自由のためにごく小さくて簡素な家に住んでいたほうがいい――これがもう1つの理由です。名家出身の鴨長明は、一時、父方の祖母の大邸宅を受け継ぎます。ところが、結局ほかの人が家督相続することになって縁が切れ、落ちぶれていきます。30歳で家を出て移り住んだ住居は、それまで住んでいた大邸宅の10分の1の大きさだったそうです。

官職に就かず妻子もいなかった鴨長明は50歳で出家し、『方丈記』を書いた草庵「方丈庵」を60歳で建てます。方丈とはすなわち1丈四方、約9平方メートル。気づけば、かつて暮らしていた大邸宅の100分の1の大きさになっていました。その方丈庵で、春は藤の花を見る。夏はホトトギス、秋はヒグラシの声を聞く。冬は雪が降り、それが日に当たって融ける――その時々における山中の風光(景色の趣)を味わう。こういう楽しみは尽きることがない。

自分のように人生を達観できていない者でさえそうなのだから、もっと感受性が強い人はもっと深く山中の風光を味わえるに違いない。それもこれも、家の中に何もない、まったくプレーンでシンプルな環境に住んでいるからこそ、注意や関心が風光に向かうのだ――。自分が「こうあるべし」と思う価値基準に向けて自分を律していく。家が、そのための装置になっている。

鴨長明は出家の身ですが、読経が面倒でどうしても気が乗らない日もある。そういうときは休んで、思い切り怠ける。1人で好きなだけ琵琶を弾いて歌い、ときには窓の月を眺めて亡くなった友を思う――至って気ままに暮らしています。

同時代を生きた人たちについて、彼はこう書いています。人が住まいをつくる理由は、自分のためではなく一族のため、財宝のため。場合によっては友人のためだ。自分は違う。100%自分のためにこの方丈の庵をつくった。それは自律と自由を獲得する手段であり、言い換えれば独立。下僕もいないので、生活に関することは全部自分でやる。自分の手という下僕、足という乗り物は全部、自分の自由になる――。

世界は心の持ち方1つで見え方が変わる。たまに都に出掛けると、「ああ。自分、落ちぶれたな」と思うことがある。でも、方丈庵に戻ってくるとホッとする。世の中の人々が世俗の中を走り回っているのが気の毒に思えてくる――。自分の価値観をより深く自分の中に取り込むために、物理的に毎日過ごすための場所。それが住まいだと、改めて認識させられます。

まさに、僕にとっての住まいの理想形。「執着を持つな」と説くのが仏教ですが、鴨長明曰く、「自分は草庵に執着している」。仏教修行のために出家して、一見、聖人のように見えるかもしれないけれど、心は濁りまくっている。どうしたものかと自問したところで、すでに60歳を過ぎた今、答えもない。だから、こういう草庵に住んでいる――。生活哲学としての住まいの究極がここにあります。

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画像: 住まいと人間―その3
生活哲学としての『方丈記』。

楠木 建
一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授。専攻は競争戦略。一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。一橋大学商学部専任講師、同助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科助教授、同ビジネススクール教授を経て2023年から現職。有名企業の経営諮問委員や社外取締役、ポーター賞運営委員(現任)などを歴任。1964年東京都目黒区生まれ。

著書に『絶対悲観主義』(2022年,講談社+α新書)、『逆・タイムマシン経営論』(2020年,日経BP,共著)、『「仕事ができる」とはどういうことか?』(2019年,宝島社,共著)、『室内生活:スローで過剰な読書論』(2019年,晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる:仕事を自由にする思考法』(2019年,文藝春秋)、『経営センスの論理』(2013年,新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010年,東洋経済新報社)ほか多数。

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