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一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授 楠木建氏
今年4月、楠木建氏は長年勤めた一橋大学を定年前に退職し、教授から特任教授に移った。その選択の背後にある楠木氏独自のキャリア観とは。

「第1回:4速へのギアチェンジ。」
「第2回:水揚げ。」はこちら>
「第3回:2度目のディープインパクト。」はこちら>
「第4回:競馬で言う『脚が残っている』感覚。」はこちら>

※本記事は、2023年4月4日時点で書かれた内容となっています。

僕の仕事の土俵は自分なりの論理を提供することです。分野は競争戦略。実際に商売をしている人に向けて、競争の中で長期利益が生まれる論理を生産し、供給する。社会レベルで言えば、日本国の税収増大が僕のパーパスです。向かう先を大まかに決めておいて、あとは「川の流れに身をまかせ」というのが僕のキャリアの方針です。

川の流れに身をまかせるにしても、いい感じで流れに乗っていくことが大切です。そのためには、自分のキャリアが今どんな段階にあるのかをざっくりとつかんでおけば十分。これも「川の流れに身をまかせ」でお話ししましたが、マニュアル車のギアチェンジにたとえるとしっくり来ます。ロー、セカンド、サード、トップギアの4段変速です。

どんな仕事でも、車の運転と同じで1速にギアを入れるのが一番難しい。僕の場合、特定の研究テーマとか志とか使命感ゼロの状態から仕事を始めたのでなおさらです。坂道発進でエンストしつつもなんとか1速にギアが入り、ゆるゆる進んでいきました。

僕が研究テーマに選んだのは、テクノロジーマネジメントという一種の組織論でした。基礎研究の組織に関する定量データを収集し、回帰分析して、研究の生産性との関係を解明していく。論文を書いて学術雑誌に提出する。採択されると雑誌に掲載される……というパターンを繰り返していく。

仕事や業界がどういうものかわかってくると、2速に入ります。僕の場合は、2速に入った感覚はあったのですが、あまり手応えがなかった。30代に入って、世界的に一流だと言われている学術雑誌に自分の論文が出たんですが、特に達成感もない。「まあ、そういう仕事だから……」とその後も学術論文を書き続けたのですが、2速なのでなかなかスピードが出ない。タコメーターは上がりっぱなし。この状態がしばらく続きました。

その頃僕は、ハーバード大学で教鞭を執っていたヘンリー・チェスブロウさん(※)とハードディスクドライブ業界を対象に共同研究をしていました。「この成果、どこで発表する?」という話になったとき、チェスブロウさんは「当然、学術論文に出したい」。それだけが研究業績としてカウントされるからです。

※ Henry Chesbrough:経済学者。2003年に著書『オープンイノベーション』でオープンイノベーションの概念を提唱した。

僕たちが行ったのは定性的な事例研究でした。アカデミックなフォーマットに載せるには定量的な分析が必要になるので、無理がある。僕はこう提案しました。「事例研究で得られたロジックだけで書こうよ」――。

チェスブロウさんは最終的には折れてくれて、学術雑誌の論文ではなく学術書のチャプターとして二人の研究を世に出すことになりました。こういう定性的な事例研究が僕にとってわりと面白かった。王政復古の大号令に引っ掛けて、「定性復古の大号令」と書いた紙を自分の研究室に張り出したくらいです。

その後僕は、『行為の経営学』(白桃書房,2000年)という本に出会います。この本で著者の沼上幹さんは「経営検証を対象とした場合、自然科学的な意味での法則定立はほとんどの場合、有効ではない」ということを、緻密な論理展開で主張しています。中でも僕がしびれたのがこの一節です。

“この問いに対して経営学者に許されている答え方が1通りしかないということはもはや明らかであろう。すなわち、「法則はないけれども、論理はある」という答え以外に、社会科学の1分野としての経営学は用意できるものがないのである。”(沼上幹『行為の経営学』)

「どうすれば成功するのか教えてくれ」という実務家の問いに対して、経営学ができる答えは一通りしかない。論理の提供しかない――このしゃきっとした主張に、当時30代後半だった僕はすっかりその気になり、この路線で行こうと確信しました。3速に入った瞬間です。

アカデミックな論文生産ではなく、実際に商売している人向けに自分の考えを提供する。学術論文ではなく書籍で直接伝える。卸売から直販へ。2速で散々引っ張っただけに、一気にブワーンとスピードが上がった感じがしました。

その後、20年近く3速のまま走ってきたんですが、最近になってまたタコメーターが上がり、エンジン音も大きくなってきました。幸い、コロナ騒動で時間がとれたので、改めて自分の仕事のギアチェンジについて考えてみました。

思いついたのが、私的専門用語「黒い巨塔」です。山崎豊子さんの小説『白い巨塔』は、出世栄達の野心に燃えた財前五郎という医学部の助教授が、権謀術数とポリティカルな闘争を繰り広げる話です。

「黒い巨塔」は逆で、いかにヒラ教授の一兵卒にとどまるかを目的にした闘争です。大学も組織なので、だれかが経営管理しないといけない。ほとんどの国立大学法人の場合、研究職の人たちがその役目を担います。

50代になると、〇〇研究科長といったポストが回ってくる年向きになる。そういうことが嫌で向いていないからこの仕事を選んだのに、管理職に就いてしまったら何のために大学で仕事しているのかわからなくなります。これまでひたすら、僕は傍流かつ窓際、ヒラ教授の道を極めてきました。管理職のポストに据えられそうになったら、全力で回避する。責任がないヒラの立場で、好きなことをやっていたい――。

客観的に見ると、ただの無責任男です。僕は今58歳ですが、一橋大学の定年は63歳。こうして逃げまくってわがままを通していくのも無理があるんじゃないか――そんな思いに至りました。

僕の4速へのギアチェンジは、一橋大学を一旦辞めるということです。めでたく今年3月末で退職しまして、黒い巨塔作戦は完了しました。今回はそのお話をしようと思います。(第2回へつづく)

「第2回:水揚げ。」はこちら>

画像: 黒い巨塔―その1
4速へのギアチェンジ。

楠木 建
一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授。専攻は競争戦略。一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。一橋大学商学部専任講師、同助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科助教授、同ビジネススクール教授を経て2023年から現職。有名企業の経営諮問委員や社外取締役、ポーター賞運営委員(現任)などを歴任。1964年東京都目黒区生まれ。

著書に『絶対悲観主義』(2022年,講談社+α新書)、『逆・タイムマシン経営論』(2020年,日経BP,共著)、『「仕事ができる」とはどういうことか?』(2019年,宝島社,共著)、『室内生活:スローで過剰な読書論』(2019年,晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる:仕事を自由にする思考法』(2019年,文藝春秋)、『経営センスの論理』(2013年,新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010年,東洋経済新報社)ほか多数。

楠木特任教授からのお知らせ

思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
この10年ほどTwitterを使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。

・140字しか書けない
・オープンな場なので、仕事や生活経験の具体的な中身については書きにくい
・考えごとや主張をツイートすると、不特定多数の人から筋違いの攻撃を受ける

「楠木建の頭の中」は僕のTwitterの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
不定期ですが、メンバーの方々と直接話をする機会も持ちたいと思います。
ビジネスや経営に限らず、人間の世の中について考えることに興味関心をお持ちの方々のご参加をお待ちしております。DMM社のプラットフォーム(月額500円)を使っています。

お申し込みはこちらまで
https://lounge.dmm.com/detail/2069/

ご参加をお待ちしております。

楠木健の頭の中

シリーズ紹介

楠木建の「EFOビジネスレビュー」

一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。

山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」

山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。

協創の森から

社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。

新たな企業経営のかたち

パーパス、CSV、ESG、カスタマーサクセス、M&A、ブロックチェーン、アジャイルなど、経営戦略のキーワードをテーマに取り上げ、第一人者に話を聞く。

Key Leader's Voice

各界のビジネスリーダーに未来を創造する戦略を聞く。

経営戦略としての「働き方改革」

今後企業が持続的に成長していくために経営戦略として取り組むべき「働き方改革」。その本質に迫る。

ニューリーダーが開拓する新しい未来

新たな価値創造に挑む気鋭のニューリーダーに、その原動力と開拓する新しい未来を聞く。

日本発の経営戦略「J-CSV」の可能性

日本的経営の良さを活かしながら利益を生み出す「J-CSV」。その先進的な取り組みに迫る。

ベンチマーク・ニッポン

日本を元気にするイノベーターの、ビジョンと取り組みに迫る。

デジタル時代のマーケティング戦略

マーケティングにおける「デジタルシフト」を、いかに進めるべきか、第一人者の声や企業事例を紹介する。

私の仕事術

私たちの仕事や働き方の発想を変える、膨らませるヒントに満ちた偉才たちの仕事術を学ぶ。

EFO Salon

さまざまな分野で活躍する方からビジネスや生活における新しい気づきや価値を見出すための話を聞く。

禅のこころ

全生庵七世 平井正修住職に、こころを調え、自己と向き合う『禅のこころ』について話を聞く。

岩倉使節団が遺したもの—日本近代化への懸け橋

明治期に始まる産業振興と文明開化、日本社会の近代化に多大な影響を及ぼした岩倉使節団。産業史的な観点から、いま一度この偉業を見つめ直す。

八尋俊英の「創造者たち」~次世代ビジネスへの視点~

新世代のイノベーターをゲストに社会課題の解決策や新たな社会価値のつくり方を探る。

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