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一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授 楠木建氏
読み終わった本のほとんどを手放すという楠木氏が、何らかの理由で残したごく一部の本の中から3冊を紹介していく。2冊目に取り上げるのは、経営書『会社という迷宮』。

「第1回:読書のルーティン。」はこちら>
「第2回:『岩田さん』。」はこちら>
「第3回:『会社という迷宮』。」
「第4回:『ふつう』。」はこちら>

※本記事は、2023年2月3日時点で書かれた内容となっています。

捨てられなかった本の2冊目は、石井光太郎さんという長いキャリアを持つコンサルタントがお書きになった『会社という迷宮』です。

画像: 石井光太郎『会社という迷宮』(ダイヤモンド社,2022年)

石井光太郎『会社という迷宮』(ダイヤモンド社,2022年)

僕が大学院に進んだときにすぐ気づいたのは、さすがに大学院に来るような人はみんな頭がイイということです。野球のピッチャーに例えれば、みんなそれなりに速い球を投げる。

ただ、それだけだとプロでは厳しい。大切なのは制球力です。その人の「問いが立っている」かどうか。議論の対象がはっきりとしていて、重要な問題にきちんと光を当てている。スピードに加えて制球力もいい人となると、数が少なくなる。

制球力があるだけでなく、まれに球のキレに優れた人がいます。その人にユニークな視点がシャープで、論理展開にハッとさせられる。僕が大学院で勉強していたころの同期に青島矢一さん(一橋大学教授)がいます。彼が投げる球はキレが抜群で、手元でグイッと伸びる。これはちょっと適わないな……と思わされました。

球速、制球力、キレの次に来る基準が、球の重さです。受け止めたときにズシンとくるかどうか。重い球でシビれさせる議論や主張ができる人となるといよいよ少ないものです。

『会社という迷宮』で著者が投げ込んでくる球は本当に重いんですね。僕はその重さにシビれました。本書を手放さなかったのは、この重さの感触をいつまでも自分の中に残しておきたかったからです。

経営書というジャンルには、その時点での旬の話題を狙う書き手が多い。ただ、コントロール優先の書き手のほとんどは球を置きにいくものです。多くの経営者の関心事を捉えてはいるけれども、いかんせん球が軽い。

『会社という迷宮』はその対極にあります。球種はストレートのみ。もちろん剛速球なのですが、スピードだけでなく異様に球が重い。読んでいるとまるで手が痛くなるような錯覚に陥る。ここまで重い球を投げ込んでくる経営書は本当に稀です。

著者の石井さんは経営戦略コンサルティングの仕事を40年近くされてきました。この本のメッセージを僕なりに解釈すると、「経営における主観の復権」。経営というものは得てして外形的な基準に追い立てられ、本当はありもしない正解探しに明け暮れがちです。経営者が本来持つべき自由意思の重要性を、この本は強調しています。自由意思で経営する――当たり前の話ですが、この根本のところが希薄になっている。石井さんは「common sense」、そもそも経営者が持つべき常識的な感覚を取り戻すべきだと言っています。

本書は経営の本質だけを論じています。その文章は実質的にアフォリズム(※1)に近い。哲学者のエリック・ホッファー(※2)は、精神生活を語るためには詩かアフォリズムのどちらかしかないと語っています。石井さんの文章もホッファーのスタイルに通じるものがあります。

※1 aphorism:簡潔かつ要を得た表現で人生や社会の機微を写す言葉。警句、金言、格言。
※2 Eric Hoffer(1902-1983):アメリカの社会哲学者。

例えば、「会社は競争するために生まれてきたのではない。志を実現するために競争しなければならなくなっただけだ」――これにはいきなりシビれました。僕は競争戦略の分野で仕事をしています。競争は所与の条件。競争の中で独自の価値を創出しなければならない。そのための優れた戦略は何か……無意識のうちにそう考える癖がついている僕にとって、石井さんの指摘はガツンときました。

石井さんは、組織の存在理由を「1+1≧2」と言います。ここまでならよくある話なのですが、その意味が凡百の議論と違って深い。組織に所属することで自分が1以上の働きができることが、その組織にとどまっている条件で、これができない組織は組織としての体を成してない――人的資本の本質を突いています。

市場についての洞察も鋭い。市場とは本来、市場(いちば)である。経済主体が縦横に動き回り、商流していく中で、売り手と買い手の複雑で精妙な出会いが生まれる場所のはず。市場はそこにあるものではない。一つひとつの会社の独創であり、独自の市場観が、その会社を会社成らしめている――。

この本には、石井さんがご自身の仕事であるコンサルティングについて論じている章があります。コンサルタントは独立した第三者でなければならない。コンサルタントとクライアントである経営者の関係は、医者と患者のそれに近似している。

ガンを克服した患者の経験談を聞いて参考にするのと、がんの症例を数多く見てきた医師の診断を受けるのとではまるで異なります。「ガンに自ら罹患した経験があること」が、「ガンの専門医であること」の必要条件ではありません。なぜなら、ガンと言ってもそれぞれ状況が違うからです。患者に対する医者のように、経営者に寄り添って会社のことを考える第三者、それがコンサルタントだ――比喩が的確で、腑に落ちます。

コンサルタントという仕事はシェルパのようなもの。登山に挑むのはクライアントだが、コンサルタントはそれに同伴するガイドです。しかし、あらかじめ決まったルールを案内する観光ガイドとは違う。クライアントは処女峰の登山に挑戦しようとしています。何が起こるか分からない。そうした状況にあって、つねにクライアントの横にいて、意見を求められたときに、相手のことを十分に知悉した上で手助けができる。これがコンサルタントのあるべき姿だと石井さんは言います。

石井さんのようにご自身の仕事について明晰かつ深い考えを持つ人を知ると、「自分はどうなのかな……」と反省させられます。マウンドに立つときの軸足がはっきりしていないと、重い球は投げられない。この本には世間一般が興味を持つ旬の話題は一切出てきません。それでも、この本はよく売れています。結局のところ、良い本は多くの読者を獲得するわけで、ビジネス書業界も捨てたものじゃないな、と思います。

あらゆる経営者に熟読をお勧めします。僕と同じように手が痛くなるような感覚を味わっていただきたい。「経営者の眠れぬ夜のために」という副題がついています。読むとあまりにも考えさせられるので、眠れぬ夜に読むとかえって眠れなくなるかもしれません。この本の唯一の欠点です。(第4回へつづく)

「第4回:『ふつう』。」はこちら>

画像: 僕が処分しなかった本―その3
『会社という迷宮』。

楠木 建
一橋ビジネススクール特任教授(PDS寄付講座・競争戦略)。専攻は競争戦略。一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。一橋大学商学部専任講師、同助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科助教授、同ビジネススクール教授を経て2023年から現職。有名企業の経営諮問委員や社外取締役、ポーター賞運営委員(現任)などを歴任。1964年東京都目黒区生まれ。

著書に『絶対悲観主義』(2022年,講談社+α新書)、『逆・タイムマシン経営論』(2020年,日経BP,共著)、『「仕事ができる」とはどういうことか?』(2019年,宝島社,共著)、『室内生活:スローで過剰な読書論』(2019年,晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる:仕事を自由にする思考法』(2019年,文藝春秋)、『経営センスの論理』(2013年,新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010年,東洋経済新報社)ほか多数。

楠木特任教授からのお知らせ

思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
この10年ほどTwitterを使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。

・140字しか書けない
・オープンな場なので、仕事や生活経験の具体的な中身については書きにくい
・考えごとや主張をツイートすると、不特定多数の人から筋違いの攻撃を受ける

「楠木建の頭の中」は僕のTwitterの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
不定期ですが、メンバーの方々と直接話をする機会も持ちたいと思います。
ビジネスや経営に限らず、人間の世の中について考えることに興味関心をお持ちの方々のご参加をお待ちしております。DMM社のプラットフォーム(月額500円)を使っています。

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ご参加をお待ちしております。

楠木健の頭の中

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楠木建の「EFOビジネスレビュー」

一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。

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山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。

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