泉谷氏は、生きる意味を見いだすカギは感動にあると説くが、現代の音楽をはじめとする芸術には感動を生み出す力が薄れているとも指摘する。その原因はどこにあるのか。人間が人間らしく生きていくために必要なものとは何か。
東京・広尾の泉谷クリニックを訪ねた山口周氏との対話を通じて明らかにしていく。
「第1回:物質的充足がもたらす実存的な問い」
「第2回:生きづらさから救ってくれたもの」はこちら>
「第3回:『生きている音楽』とは何か」はこちら>
「第4回:『量』に負けず『質』を追求する」はこちら>
「第5回:経済システムから人間性を解放できるか」はこちら>
温度の低い悩みが増えている
山口
本日は対談をお受けいただき、感謝いたします。私、泉谷先生のご著書はほとんど拝読しています。
泉谷
それは、ありがとうございます。
山口
先生は『仕事なんか生きがいにするな』や『本物の思考力を磨くための音楽学』などの中で、現代社会では「生きる意味」を見失っている人が増えていると書いておられますね。精神科医として扱う心の問題についても、ひと昔前までは愛情不足や劣等感などのように情念が絡んだ「温度の高い悩み」がほとんどだったのが、近年は「自分が何をしたいのか分からない」というような「湿度の低い悩み」が急増していると。
泉谷
ええ、私が医者になったのはちょうど昭和の終わりですが、それから10数年くらいはいわゆる「境界性パーソナリティ障害」、例えば愛情の欠乏感から人に執着する、周囲の関心を惹きたくて自傷行為を行うといった病態を示すような方が多く、治療にも苦労したおぼえがあります。それが、正確には言えないのですが、おそらく2000年頃を境に減り始め、代わって広義のうつ病と呼べるようなケースが増加しています。分かりやすく言うと、他人に絡むような病態から「一人で静かに消えていってしまう」とでも言うべき病態へと顕著に変化しているということです。具体的で現実的な悩みや苦しみがあるわけではないけれど、虚無感にさいなまれ無気力になる、生活はできていても生きるエネルギーに乏しいというような方々が増えていますね。
山口
先生が診ておられる種類の病気は、医学的な原因、つまり本人の体質に起因する場合と、周囲の環境と本人の性質とのミスマッチという社会的な原因もあると思われます。おっしゃるような病態の移り変わりには、やはり社会の変化が影響しているのでしょうか。
泉谷
そうですね。大げさな言い方をすると、人類はその歴史が始まって以来つい最近まで、足りないものを満たすために生きてきました。「ハングリー」を行動のモチベーションとする時代が長く続いてきたのです。それが近年、急激に経済的な豊かさを手に入れ、利便性は飛躍的に向上し、情報があふれるようになりました。これは先進国に限った話かもしれませんが、物質的な不足、不便さへの不満がある程度満たされてしまった状況の中で、なぜこの面倒な人生というものを続けなければいけないのか、何のために生きているのかという、「実存的な問い」が生まれてきたのだと考えられます。
憧れる対象をつくる
山口
物質も情報もあふれているという状況は、ある意味で文明化の完了を意味します。文明化を終えたら次は文化が育つ番ですが、それがどうも日本ではうまくいっていないように感じます。物質的には満たされた一方で、精神的な欠乏を満たしてくれるものがないために、幸福感ではなく虚無感に包まれてしまうのでしょうか。
泉谷
そう思います。実は『仕事なんか生きがいにするな』というタイトルは編集者が付けたもので、もともと「現代の高等遊民」というテーマで書いたものなのです。
山口
長井代助ですね、夏目漱石の『それから』の主人公。
泉谷
ええ。彼の言動には生きる目的が見いだせない様子が、見事に描写されていますね。若い人たちには「高等遊民」よりも「高学歴ニート」と言ったほうが分かりやすいかもしれません。漱石の時代には一部の恵まれたインテリ層限定の問題だったのが、今や社会全体の問題になってしまいました。
山口
長井代助にとっては「働く意味」が問題だったわけですよね。バートランド・ラッセルは『怠惰への讃歌』の中で、労働が善とされていることを問題視して、人間らしい生活のために閑暇が重要であると説いています。そして閑暇を有意義に過ごすためには知的な活動と興味、精神的享楽をめざす教育が必要だと。要するにリベラルアーツを学ぶことが閑暇のある生活を人間らしくするということですね。このラッセルが示した考えの中に、私は問題を解くヒントがあるのではないかと思うのですが。
泉谷
このラッセルの『怠惰への讃歌』は、塩野谷祐一さんによる平凡社ライブラリー版の解説も秀逸で、とても大切な指摘をされていますね。
山口
学校(school)の語源はギリシャ語のスコーレ(σχολή) で、その意味は閑暇(leisure)であると。学校は本来、労働のための技術を学ぶところではなく、「閑暇のあり方」を学ぶところだと書かれていました。そうなるとビジネススクールとは、「忙しい」と「閑暇」を結びつけたブラックジョークだと(笑)。
泉谷
少し違う切り口からお話しすると、医学の治療とはマイナスの状態をゼロレベルまで引き上げることをめざすものです。私は精神療法という、薬物ではなく言葉、対話による治療を行いますが、最初はうつやパニック障害などの症状で受診された方も、セッション(診察)を重ねるうちにいつしかゼロレベルになっていきます。ただケガや普通の病気と違うのは、ゼロレベルになったからそれでよしとは言えないことです。そこから先どこへ進めばいいのか分からず、手がかりを求めて通い続ける方も多くいらっしゃいます。
その手がかりとして大切なのが、「憧れる対象」をつくることです。リベラルアーツがスコーレを豊かにするために必要なものであるという考え方に合致しますが、人間らしく生きるために大切なのは「世の中にはこんなに素晴らしいものがある」と気づいていただくこと。そのため、私のクリニックにはさまざまな本、画集や写真集を揃え、CDも聴けるようにしています。もちろん私自身の好きなもの、必要なものもあるのですが、実は治療でもよく利用しています。(第2回へつづく)
泉谷 閑示(いずみや・かんじ)
東北大学医学部卒業。東京医科歯科大学神経精神医学教室、財団法人神経研究所附属晴和病院等に勤務の後、パリ・エコールノルマル音楽院に留学。帰国後、精神療法を専門とする泉谷クリニック(東京/広尾)院長。大学・企業・学会・地方自治体・カルチャーセンター等で講義や講演を行うなど、精力的に活動中。TV、ラジオではニュース番組、教養番組に多数出演。舞台演出や作曲家としての活動も行なっており、CD『忘れられし歌 Ariettes Oubliées』(KING RECORDS)等の作品がある。
著書に、『「普通がいい」という病』(講談社現代新書)、『反教育論』(講談社現代新書)、『仕事なんか生きがいにするな』(幻冬舎新書)、『本物の思考力を磨くための音楽学』(yamaha music media)他多数。
山口 周(やまぐち・しゅう)
1970年東京都生まれ。電通、ボストンコンサルティンググループなどで戦略策定、文化政策立案、組織開発等に従事した後、独立。
著書に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(光文社)、『武器になる哲学』(KADOKAWA)、『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社)、『ビジネスの未来 エコノミーにヒューマニティを取り戻す』(プレジデント社)他多数。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院美学美術史学専攻修了。
シリーズ紹介
楠木建の「EFOビジネスレビュー」
一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。
山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」
山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。
協創の森から
社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。
新たな企業経営のかたち
パーパス、CSV、ESG、カスタマーサクセス、M&A、ブロックチェーン、アジャイルなど、経営戦略のキーワードをテーマに取り上げ、第一人者に話を聞く。
Key Leader's Voice
各界のビジネスリーダーに未来を創造する戦略を聞く。
経営戦略としての「働き方改革」
今後企業が持続的に成長していくために経営戦略として取り組むべき「働き方改革」。その本質に迫る。
ニューリーダーが開拓する新しい未来
新たな価値創造に挑む気鋭のニューリーダーに、その原動力と開拓する新しい未来を聞く。
日本発の経営戦略「J-CSV」の可能性
日本的経営の良さを活かしながら利益を生み出す「J-CSV」。その先進的な取り組みに迫る。
ベンチマーク・ニッポン
日本を元気にするイノベーターの、ビジョンと取り組みに迫る。
デジタル時代のマーケティング戦略
マーケティングにおける「デジタルシフト」を、いかに進めるべきか、第一人者の声や企業事例を紹介する。
私の仕事術
私たちの仕事や働き方の発想を変える、膨らませるヒントに満ちた偉才たちの仕事術を学ぶ。
EFO Salon
さまざまな分野で活躍する方からビジネスや生活における新しい気づきや価値を見出すための話を聞く。
禅のこころ
全生庵七世 平井正修住職に、こころを調え、自己と向き合う『禅のこころ』について話を聞く。
岩倉使節団が遺したもの—日本近代化への懸け橋
明治期に始まる産業振興と文明開化、日本社会の近代化に多大な影響を及ぼした岩倉使節団。産業史的な観点から、いま一度この偉業を見つめ直す。
八尋俊英の「創造者たち」~次世代ビジネスへの視点~
新世代のイノベーターをゲストに社会課題の解決策や新たな社会価値のつくり方を探る。