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岩倉使節団に随行した安場保和、留学生として参加した團琢磨。後編では、産業近代化を推し進めた2人のキーパーソンに着目したい。地方に産業を興す礎を築き、一大事業に駆り立てたもの、それは彼らの想像を超える熱き情熱と行動力だった。

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「キーパーソンの壮大なる計画 ~産業近代化を牽引した井上勝、安場保和、團琢磨~(後編)」

画像: 安積疎水事業の一環としてつくられた十六橋水門(写真提供/郡山市)

安積疎水事業の一環としてつくられた十六橋水門(写真提供/郡山市)

地方産業の開発に活躍

安場保和は旧熊本藩士で、横井小楠の門下生となり四天王といわれ、実学党に属し藩論を佐幕から王政復古へと変えた。明治2年には徴士となり新政府の参与となる。その後、胆沢県(水沢)の大参事、酒田藩大参事、熊本藩小参事を経て、大蔵省に転じ租税権頭になる。

使節団に参加しワシントンまでは行ったが、「わしのような歳とったもの(37歳)が、貴重な金を使って旅をするのは忍びない」といって、古武士的硬骨漢ぶりを発揮し単身帰国してしまう。

帰国後は福島県の県令となり、以後、愛知、福岡の県令を重ね、地域の開明化に挺身する。安場の目にはアメリカ大陸の開拓状況を見ただけでも大いに学ぶところがあった。そこで痛感したことは、日本には原野、荒蕪地の類いがまだ多くあり、畑作(麦、野菜、果実など)牧畜(馬、牛、羊など)の余地が十分にあるということであった。

福島県にはすでに猪苗代から水をひき灌漑設備を整備して農地化しようというアイデアがあった。安場は北海道開拓に情熱を燃やしていた中條正恒(米沢藩士、後に安積開拓の父とよばれる)を県の典事(課長)に据え、安積開拓事業を具体化するように委任する。安場と中條はすでに地元で進められていた大槻が原の開拓を本格化し、福島の二本松藩からの開拓民を受け入れ、さらには郡山の富商の出資を仰いで開成社を組織、県と共同での事業を始める。安場は明治8年、愛知県の県令に転任するのだが、内務卿の大久保利通が、翌年、明治天皇の東北巡行の下見にこの地を訪れる。中條はこれを好機と大久保の宿を訪ね、県の事業として大槻が原の開拓が成功したことを伝え、より大規模な安積開発プロジェクトを熱心に説くのである。

大久保は猪苗代から水をひく壮大な計画に共鳴し、その実現を国で支援することを約束する。そして明治11年3月、国営開拓第一号として「安積開拓」の予算が計上されるのだ。大久保はその2か月後に凶刃に倒れるが、中條の情熱と大久保の遺志を継いだ内務卿伊藤博文の支援もあって事業は継続される。

結果、オランダから土木技師ファン・ドールンを招き内務省勧農局の土木技師山田寅吉や南一郎平らの尽力もあり、久留米藩をはじめ全国9藩からの500戸2000人の入植、艱難辛苦の末に、猪苗代湖からの疎水127キロメートルが3年で開鑿された。そして灌漑面積は3000ヘクタールに及ぶ広大な農地が誕生したのだ。その所要労働力は85万人だという。

安場はその後、愛知県さらには福岡県の県令となり、九州鉄道、港湾施設など、公共施設やインフラの整備に力を尽くしている。また、根室~千島方面を探索し明治30年には北海道庁の長官にもなっている。

使節団のメンバーには、安場の他にも七つの藩の県令を務めた内海忠勝(長州)や沖守固(おき・もりかた)(鳥取)と、県令となって地方の開発に尽力した人物がいる。当時はとくに公共インフラ的な施設は主導での事業も多く、半官半民の経営が多かったことを示している。

安場保和の肖像(奥州市立後藤新平記念館所蔵)

石炭産業の近代化に奮闘 

團琢磨は金子堅太郎とともに福岡藩からの留学生である。明治4年当時14歳と19歳だった。二人はボストンへ向かい、英語を習ううちに團はこれからは産業が大事であることを知り鉱山学を学ぶことになる。金子は法律が大事だとみてハーバード大学へ進む。團はマサチューセッツ工科大学の前身である鉱山専門学校へ入学する。まだ小規模で後に鉱山学の第一人者になるリチャード教授から親身に教えを受けることができた。

帰国後は一時職がなく大阪専門学校や東京帝大で天文学の教鞭をとるなどしていたが、鉱山技術を生かすべく工部省に志願し、時の工部卿の佐々木高行や金子堅太郎(当時佐々木の秘書でもあった)の配慮もあり入省、官営だった三池炭鉱へ赴任する。三池炭鉱は埋蔵量も多く品質もいいので外貨稼ぎの花形だったが、主力坑が湧水問題で手がつけられない状況だった。当時の大蔵卿松方正義は外貨獲得のためにも石炭の開発が必須だとみてその解決策を探すため團に米欧への出張を命じるのだ。明治20年、團は勇躍して渡航、米英欧の丹念な調査の結果、強大な排水ポンプの導入しかないと確信して帰国する。しかし、当時の政策で炭鉱は三井へ払い下げられることになっていて團は窮地に陥った。

しかし、三池の石炭を一手に販売していた三井物産の益田孝と出会い、話をするうちに意気投合し、益田の英断もあって團は三井に移ることを条件に巨大な投資に踏み切ることになる。このとき二人は失敗すれば切腹覚悟だったとの決心を披歴している。そして幾多の難関を乗り越え、「士魂」で切り抜けてようやく成功に導くのだ。これを契機に、三池炭鉱は三井のドル箱的存在となり、事業は鉄道や港湾への投資となり、輸出産業としても重要な担い手となる。

その後、團は三井鉱山の社長から三井合名の総帥となり、三井グループの三井金属、石炭化学へとコンビナート化を推進する。そして日本工業倶楽部を創立して会長となり、日本の産業近代化のトップリーダーとなって活躍するのである。しかし、1932(昭和7)年3月5日、財閥の横行が民を苦しめる元凶だとする青年に暗殺されてしまう。まことに惜しんでも余りあることだが、この種の事件は歴史上ままあることであって人間の業の深さを感じざるを得ない。

画像: 三池炭鉱の主力坑として稼働した宮原坑(写真提供/大牟田市)

三池炭鉱の主力坑として稼働した宮原坑(写真提供/大牟田市)

團琢磨のポートレート(写真提供/大牟田市)

画像: 【第5回】キーパーソンの壮大なる計画
~産業近代化を牽引した井上勝、安場保和、團琢磨~(後編)

泉 三郎(いずみ・さぶろう)
「米欧亜回覧の会」理事長。1976年から岩倉使節団の足跡をフォローし、約8年で主なルートを辿り終える。主な著書に、『岩倉使節団の群像 日本近代化のパイオニア』(ミネルヴァ書房、共著・編)、『岩倉使節団という冒険』(文春新書)、『岩倉使節団―誇り高き男たちの物語』(祥伝社)、『米欧回覧百二十年の旅』上下二巻(図書出版社)ほか。

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