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前編では、大正から昭和にかけて活躍したエコノミスト・高橋亀吉の見解を引き合いに、殖産興業の段階的発展を俯瞰したい。そして、岩倉具視主導のもと、鉄道の飛躍的発展に貢献した鉄道の父とも称される井上勝にも登場してもらおう。

「キーパーソンの壮大なる計画 ~産業近代化を牽引した井上勝、安場保和、團琢磨~(前編)」
「キーパーソンの壮大なる計画 ~産業近代化を牽引した井上勝、安場保和、團琢磨~(後編)」はこちら>

編集部注*)井上勝は、伊藤博文らと共に幕末、長州から英国に密航した留学生でした。
岩倉使節団には参加していませんが、岩倉具視主導のもと、鉄道の近代化に奔走した一人として今回取り上げました。

画像: 蒸気機関車の前に立つ、初の日本人機関士たち(鉄道博物館所蔵)

蒸気機関車の前に立つ、初の日本人機関士たち(鉄道博物館所蔵)

殖産興業に見る段階的発展

さて、殖産興業とは何か、その経過はどのように辿ったかをここで一覧しておきたい。ペリー来航以来、有識者の間では「富国強兵」と「殖産興業」は共通のスローガンとなり、とくに開明派の藩主をもつ雄藩においては現実にその政策が実行されていた。その最も先進的な事例が薩摩における島津斉彬の開化策であり、近代様式工場群の「集成館事業」に見られる。また、佐賀藩の鍋島閑叟(なべしま・かんそう)による製鉄や蒸気機関の製作などの諸施策だった。また土佐や越前などの目覚めた藩では、輸出品となる生糸や茶の生産、石炭の開発、樟脳や海産物などの生産が奨励された。しかし、新政府の基本方針として明確になったのは、廃藩置県後のそれも使節団の帰国後であり、その顕著な例が大久保利通の殖産興業に関する建言だった。

これによって、まだお題目であり断片的であったものが、統一国家の方針として整理され計画性をもつことになった。しかし、西南戦争までは士族の反乱や農民一揆なども頻発して政治的な安定が得られず、それも散発的であったといえる。

経済評論家の高橋亀吉はそのもようを、『日本近代経済形成史』(昭和43年刊)において次のように述べている。

「維新後の殖産興業は大約三つの段階を経て、明治16~18年期に至りようやく近代企業条件を一応具備するに至ったとみることができる。第一段階がすなわち明治1~10年期であって、封建制度変革に伴う旧秩序の破壊と新秩序建設の過渡的摩擦、混乱、不安動揺のため、殖産興業意欲が朝野ともにいまだ本格的にならなかった時期である。

第二段階はおよそ明治11年より15年期であって西南戦争の鎮定を画期に朝野ともに殖産興業にいよいよ本腰を入れはじめた時期である。第三段階はおよそ明治16年から18年期であって、近代企業台頭の条件が何とか一応具備し、先駆的近代企業がわが経済の檜舞台に登場しはじめ、そのモデル的役割を、企業的にようやく演じはじめた時期である」。

そして、具体的な形としては、第一は在来の産業、つまり農業と鉱業の近代化であり、第二には政府主導の紡糸、製紙、セメント、ガラス、肥料などの工業化であり、第三には鉄道、道路、港湾など運輸交通の整備であり、第四には銀行、保険などの金融制度の整備だといえる。以下、各分野における使節団メンバーの関与と活躍ぶりを見ていきたい。

「鉄道の父」と呼ばれし男

岩倉具視は欧州各国で王室の在り方と藩屛(はんぺい)となる貴族社会のあり方を見てきた。そして、いわば「華族の棟梁」として華族の資産保護と授産の方法を考え、二つのことを主唱した。一つは公家と大名からなる華族は秩禄処分による金禄公債を原資とする銀行の設立であり、明治10年に有力大名を主に16名が発起人になり毛利元徳を頭取とする第十五国立銀行を設立した。そして明治14年には、もう一つの事業として日本鉄道株式会社の設立を行うのである。それは東京から青森までの鉄道敷設をめざすものであり、アイデアとしては高島嘉右衛門(高島易断本家、事業家)の構想であったが、開明派の公家や大名が集まって第十五国立銀行の投資先として立案したものであった。

この企画には使節団のメンバーだった、工部省の肥田為良(ひだ・ためよし)、大蔵省の安場保和、左院の高崎正風、左院の安川繁成、それに留学生だった大久保利通の長男・利和らが参加している。そのあたりの事情について、高橋亀吉は次のように書いている(『日本近代経済形成史』)。

「明治14年1月、安場保和、中村弘毅(旧土佐藩士、太政官書記官長など、佐々木高行に近い)、高崎正風、安川繁成の四人が鉄道敷設を企図し、岩倉具視邸で、鉄道会社条例案・利益保証法案を具した建議書を作成した」とあり、株式会社方式をとり、株主になる華族諸家を招集して、岩倉自身が、企画、概要を説明している。「上皇族より朝野の別なく一般人民の同心協力によって、全国一条の鉄道を敷設せんとする」遠大な構想であった。

第一次計画が東京から青森まで結ぶ路線であり、実際の工事や運営についてはすでに新橋・横浜間の鉄道や京都・大阪・神戸の鉄道を開通させて、当時すでに工部省の鉄道局長になっていた井上勝(旧長州藩士、幕末英国へ密航した留学生)の監督指導によるところが大であった。幹部人材は官により現場の作業は地元の人員に任される、いわば官民共同の大仕事となった。着工は明治15年6月、18年には宇都宮まで、20年には仙台まで、24年には青森まで全線を開通した。鉄道工事については当初はお雇い外国人の力に依存したが、井上は早急に各種の技術者を育成し、この路線の工事に関してはすでに日本人技術者がそれぞれの部門の責任を負って完成させている。

その全通式は帝国ホテルで盛大に行われ、皇族、各大臣以下、百官に及び、松方総理の祝辞のあと、井上は「岩倉公ノ心霊ニ告クルノ辞」(岩倉は明治16年に逝去)を述べた。(後編へつづく)

若き日の井上勝(鉄道博物館所蔵)

画像1: 【第5回】キーパーソンの壮大なる計画
~産業近代化を牽引した井上勝、安場保和、團琢磨~(前編)
画像2: 【第5回】キーパーソンの壮大なる計画
~産業近代化を牽引した井上勝、安場保和、團琢磨~(前編)

逢坂山トンネルと日本最長を誇る天竜川鉄橋の竣工当時の写真(いずれも『子爵井上勝君小伝』より画像転載)

「キーパーソンの壮大なる計画 ~産業近代化を牽引した井上勝、安場保和、團琢磨~(後編)」はこちら>

画像3: 【第5回】キーパーソンの壮大なる計画
~産業近代化を牽引した井上勝、安場保和、團琢磨~(前編)

泉 三郎(いずみ・さぶろう)
「米欧亜回覧の会」理事長。1976年から岩倉使節団の足跡をフォローし、約8年で主なルートを辿り終える。主な著書に、『岩倉使節団の群像 日本近代化のパイオニア』(ミネルヴァ書房、共著・編)、『岩倉使節団という冒険』(文春新書)、『岩倉使節団―誇り高き男たちの物語』(祥伝社)、『米欧回覧百二十年の旅』上下二巻(図書出版社)ほか。

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