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後編では、岩倉使節団の一員として米欧の進んだ産業を日本に移入した肥田為良(ひだ・ためよし)と技術者教育の向上に奔走した大島高任(おおしま・たかとう)、日本実業界の夜明けを牽引した者たちの横顔に迫る。1871年創設の工学寮は、1877年工部大学校と改称され、多くの技術者を輩出した。

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肥田為良の飽くなき探求心

1872(明治5)年、使節団はワシントンに滞在中、フィラデルフィア市当局から丁重な招待をうける。当時工業都市として最も繁栄していたフィラデルフィアは大いに歓迎してビジネスにも結び付けようとしていたのだ。ところが使節首脳は俄かに始めた条約改正問題に忙殺されており、工部理事官・肥田為良を代表に10人の団員を派遣してその好意に応えることになった。工部省派遣組からは大島高任と瓜生震(うりゅう・しん)、通訳として川路寛堂、長野桂次郎の4名が、大蔵省他からも通訳を含め6名が参加することになった。フィラデルフィア側では正式に歓迎委員会を組織し産業別の綿密な視察コースを作成し、実に行き届いた応対をしてくれた。

その視察先をみると、フェアモント公園にある上下水道設備から始まり、製鉄、鋳造、鍛造、研磨、機械、エンジン、工具、造船、ボイラー、製氷機など。それから、農業機械、花、野菜の種子、農業、牧場。車両、クレーン、ガス、ドリル、旋盤、縫製機械、皮革、カーペット。さらには金銀宝石、美術工芸品、出版社、本屋、ドラッグストア、新聞社、造幣所、商品取引所、そして1泊2日でベスレヘムの炭鉱、鉄鉱石まで見に行き、その視察はなんと25日間で50か所にも及んだのだ。

肥田は旧幕臣42歳、長崎伝習所の出身で咸臨丸の機関掛としてサンフランシスコまで来たことがあり、造船や蒸気機関についてはすでに一級のエンジニアであった。また通訳の長野桂次郎も新見使節団に随行してワシントンまで行った組で英語も堪能だった。一行はまるで海綿のように新知識や技術を吸収し、各工場の各工程で鋭い質問を発し、実地の操作についても納得のいくまで説明を求めた。その余りの熱心さに応対側がネをあげるほどであったという。

肥田は帰国後、その知識と体験を基に、横須賀造船所長、海軍機関技監などを歴任、また経営の才もあったので岩倉から要請されて華族授産のために日本鉄道の創設や十五銀行の創設にも携わっている。が、あやまって汽車に触れ、その事故により60歳で亡くなっている。

画像1: 【第4回】日本的産業革命を興した「士魂洋才」のパイオニア(後編)
画像2: 【第4回】日本的産業革命を興した「士魂洋才」のパイオニア(後編)

岩倉使節団がフィラデルフィアで視察したフェアモント公園と造幣所
『特命全権大使 米欧回覧実記』に掲載された銅版画より 久米美術館提供

産業近代化に貢献したサムライ

工部省鉱山助の任にあった大島高任は46歳、岩倉大使に次ぐ高齢でありすでに鉱山事業ではキャリア十分の人物だった。南部藩の侍医の子に生まれ、17歳から江戸や長崎に遊学して大砲鋳造に注目し、オランダの書『大砲鋳造法』を研究して、それを基に水戸藩や薩摩藩から依頼されて反射炉の建設にも成功していた。釜石に良質な鉄鉱石が出ると、それを使って近代的な製鉄所づくりに挑んでいるが、どうしても米欧諸国の鉱山や精錬技術を現地で学びたいと志願しての参加だった。

大島は通訳一人だけを伴い見たい所をピンポイントで回り、ドイツでは鉱山学校にも通って学ぶという熱心さだった。そして最新の技術を現場で学び、鉄だけでなく種々の金属の採鉱、精錬、技術を学んで帰国した。そして長く鉱山局長の職にあり、その深い知識と体験を金、銀、銅、石炭など各地の鉱山の近代化に生かし、日本の鉱業開発のパイオニアとなった。また、その間、我が国初めての坑師学校や工学寮の創設にも関与し、1890(明治23)年には「日本鉱業会」の会長に就任して大御所的存在になるのである。

瓜生震は福井藩士の子で、長崎へ出て何礼之(が・のりゆき)や宣教師グイド・フルベッキに英語を学び、坂本竜馬の海援隊へも所属していた。そのころ土佐商会の岩崎弥太郎とも縁ができる。明治4年、19歳で工部省の鉄道寮に入り、使節団派遣に伴い工部省付き通訳として随行となる。

旅の回覧中に鉄道、交通、鉱山知識を得るが、ロンドンで使節団から離脱、留学生として3年間カレッジで鉄道の勉強をする。帰国後は鉄道寮に帰属、3年勤務した後、後藤象二郎の手掛けた長崎の鉱山事業に携わり、さらに三菱長崎(高島炭鉱)の支配人になった。そして、東京海上保険の監査役、九州鉄道の設立や麒麟麦酒の創業にも関与する。「計画の才豊で、口八丁手八丁」といわれ、岩崎弥太郎の大番頭との評もあり、実業界で縦横に活躍した。(出所:『岩倉使節団の群像』小野博正の資料より)

日本産業の近代化のプランナーでもあった伊藤博文は、時の状況を見据え適切に対応し、欧米の先進的教育や産業の導入に日本の将来のあるべき姿を見た。そして、伊藤の敷いたレールの上に多くの工学系技術者が育ち近代化を進めていくのだ。次回はその群像の続きをフォローしていきたい。

「東京名勝開花真景 虎門工学局」港区立郷土歴史館所蔵
明治20(1887)年、浮世絵として描かれた「工部大学校」(塔のある建物は小学館〈予備科教場〉)。工部大学校から明治の文明開化に貢献する技術者が多数育っていった。

画像3: 【第4回】日本的産業革命を興した「士魂洋才」のパイオニア(後編)

泉 三郎(いずみ・さぶろう)

「米欧亜回覧の会」理事長。1976年から岩倉使節団の足跡をフォローし、約8年で主なルートを辿り終える。主な著書に、『岩倉使節団の群像 日本近代化のパイオニア』(ミネルヴァ書房、共著・編)、『岩倉使節団という冒険』(文春新書)、『岩倉使節団―誇り高き男たちの物語』(祥伝社)、『米欧回覧百二十年の旅』上下二巻(図書出版社)ほか。

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