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今回は伊藤博文はじめ、日本近代化への骨格づくりに尽力した人物たちを紹介する。いずれも欧米での見聞を取り入れて、新機軸を打ち出した開拓者たちだ。また人が人を育て、新しい産業を花開かせる――そんな時代が到来していた。

「【プロローグ】いま、なぜ「岩倉使節団」なのか?」はこちら
「第1回:ペリー来航から、岩倉使節団の横浜出帆まで」はこちら>
「第2回:岩倉使節団は米欧諸国で何を見たのか」はこちら>
「第3回:大久保利通の変身と「新・殖産興業方針」の確立」はこちら>

画像: 「横浜鉄道館蒸気車往返之図」 明治6(1873)年 三代広重画 横浜開港資料館所蔵

「横浜鉄道館蒸気車往返之図」 明治6(1873)年 三代広重画 横浜開港資料館所蔵

この使節団における第一の意味は大久保利通が参加していたことだと前回(第3話の冒頭)に述べた。

が、それに匹敵しそれを凌駕するくらいの意義をもったのが伊藤博文の参加だったことはあまり知られていない。伊藤は、大久保が1878(明治11)年に凶刃に倒れた後、その遺志と建国の事業を継承し、殖産興業はむろん内閣制度をつくって初代の総理大臣になり、さらには帝国憲法という明治国家の骨格をつくり議会政治を定着すべく尽力した人物であり、対外的にも日清戦争に勝利し、宿願の条約改正への道筋もつけて、日本の独立と近代化の仕上げをやり遂げた人物だといえるからである。

伊藤が実質的に真のリーダーシップをとった期間は「明治十四年の政変」から総理辞任までの15年間ともいえようが、それを可能にした背景には、岩倉使節団の参加によって得られた抜群の広角の視野と深い見識があり、木戸はもとより岩倉、大久保という大立者の信頼を勝ち得たことが極めて大きかった。そして帰国後、「明治六年の政変」から明治10年の西南戦争の収束までの間、常に維新三傑の側近にあってよく薫陶を得、その政治力、人間力を修得したことが伊藤を大きく成長させたと思われるからである。

英国への密航留学と米欧使節団

伊藤は大久保より一世代若く、農家に近い出身ながら志士となり、吉田松陰や高杉晋作そしてとりわけ木戸孝允に親炙(しんしゃ)して深く感化をうけ、長州藩の生死を懸ける苛烈な倒幕運動のただ中で鍛えられた。そして早い時期に英国への密航留学という絶好の機会も得て開明派の志士として頭角を現していくのだ。

明治維新になると、いきなり開港場の兵庫で外交経済の担当官となり知事に昇進、次いで中央に呼ばれて大蔵省の重要官僚となる。そして同志的上司だった大隈重信とともに山積する喫緊の課題処理に奔走し、新橋・横浜間の鉄道建設にも先鞭をつけ、さらには金融財政問題が緊急課題だと認識するや果敢に米国への調査団を企画して自ら理事官となり、1870(明治3)年の末から出かける。この旅は6か月に及んだが米国側の好意的な対応もあり短期間に極めて有用な調査をすることができ、キャッチャーのようにそれを受けた大隈や井上馨や渋沢栄一が的確な改革を急ピッチですすめていくことになるのだ。

「廃藩置県」については、直接かかわることはなかったが、その考えは早くから提議しており、その断行とともに新政府は、次の一手として条約改正がらみの米欧使節団を企画することになる。それはもとより伊藤の意図するところでもあり、前年からの米国調査の体験が評価され、大使の岩倉から懇請され工部省の大輔(たいふ)に昇格して副使の一人になりアメリカへと旅立つことになるのである。

人脈づくりも明るく前向き

伊藤は既述の通り、米国で条約改正の本交渉に入るという勇み足ともいうべき大失態を演じてしまう。が、それにもめげず伊藤は以後前向きに着実に視察見聞の実績を重ね、大久保、木戸がベルリンから中途帰国した後は、旅の終わりまで岩倉大使の片腕として副使の役をやり遂げる。

そして伊藤は単に見聞の旅というだけでなく、旅の間にも工部省の大輔として極めて重要な仕事をしている。工部省はいわば産業化のエンジンともいうべき機関で、1871(明治4)年の段階で10寮1司から構成されていた。鉄道寮、鉱山寮、製鉄寮、電信寮、灯台寮、制作寮、工学寮、勧工寮、土木寮、造船寮、測量司である。そして当時計画していたのが工学寮の充実であり、技術教育のための優秀な教師を英国から雇うことが当面の課題だった。伊藤はその使命を果たすべく、幕末の英国留学時に知遇を得ていたヒュー・マセソン(大商社の社長)のコネで工科系教育の大御所だったウィリアム・ランキン博士に会うことができ、その縁でグラスゴー大学を卒業したばかりの逸材ヘンリー・ダイアーを校長格として招くことに成功する。そして、その人脈で数学、化学、機械、土木建築など各部門の教師7人の雇用も決めることができたのである。

そして随員だった二等書記官の林董(はやし・ただす)(後に英国大使、外務大臣)をその担当とし、教師たちを同伴して日本へ赴任するようにはかっている。林はこれが縁で工科大学(後の工部大学校)の創立に深くかかわり、工部省の推進者だった少輔(しょう)山尾庸三(やまお・ようぞう)(伊藤の盟友、幕末英国留学組の一人)を助けて技術者の早期育成に尽力することになる。

このカレッジは6か年制で予課、専門学、実地学からなり、当時世界でも最先端の実験的な工科教育をめざしたものだった。学科は七つに分かれ、初期の学生からは、後に活躍する錚々たる人物を輩出している。一例を挙げれば、土木の田辺朔郎(たなべ・さくろう)、建築の片山東熊(かたやま・とうくま)、辰野金吾、化学の下瀬雅允(しもせ・まさちか)、高峰譲吉、電機の志田林三郎などであり、いずれも西洋技術導入の先駆けとなり、日本の産業化に大きな事績を残すことになるのである。

「長州藩英国留学生写真」 伊藤博文(後列右)、山尾庸三(前列右)、井上馨(前列左)ほか若き日のポートレート 萩博物館所蔵

画像: 【第4回】日本的産業革命を興した「士魂洋才」のパイオニア(前編)

泉 三郎(いずみ・さぶろう)

「米欧亜回覧の会」理事長。1976年から岩倉使節団の足跡をフォローし、約8年で主なルートを辿り終える。主な著書に、『岩倉使節団の群像 日本近代化のパイオニア』(ミネルヴァ書房、共著・編)、『岩倉使節団という冒険』(文春新書)、『岩倉使節団―誇り高き男たちの物語』(祥伝社)、『米欧回覧百二十年の旅』上下二巻(図書出版社)ほか。

「第4回:日本的産業革命を興した「士魂洋才」のパイオニア(後編)」はこちら>

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