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ドイツからマルセイユ経由で帰国した大久保利通を待っていたのは、明治政府内の内紛であり、「征韓論」をめぐる混乱した状況だった。「明治六年の政変」を収めた後、大久保政権が成立。新・殖産興業に邁進していく。

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「第3回:大久保利通の変身と「新・殖産興業方針」の確立(前編)」はこちら>

(国立国会図書館デジタルコレクションより)

政権を奪回、大久保政権誕生

そのベルリンで、留守政府から木戸と大久保に帰国命令がくる。留守内閣で紛糾が起き、太政大臣の三条は急遽二人を呼び返すことにしたのだ。大久保はようやく足掛かりをつかんだ思いもあり独国から帰国の途に就く。が、木戸は露国をぜひ見たいと主張し、少し遅れて帰国することになる。こうして大久保はマルセイユからの船旅で1873年5月26日に横浜に帰着している。

しかし、留守中に内閣は江藤一派の策略で大改造されており、大久保の居場所はなきに等しかった。大久保は西郷、井上馨らと話し込んだが打つ手はなく、「役者の揃うまで待つほかはなし」と覚悟を決める。そしてこの年から採用された「夏休み」を取り、悠々と富士から紀伊へと旅をし、有馬温泉で英気を養う。木戸は7月に帰国するが為すすべなく、岩倉と伊藤の帰国(9月13日)を待つのである。

当時、国内は「征韓論」が沸騰していた。帰国した伊藤は事態の深刻さに危機感を抱き、猛然と大久保、木戸、岩倉の間を奔走し巻き返しにかかる。そしてようやく大久保も参議として参加する内閣(正院)が開かれる。そこで大久保は七箇条を挙げて征韓論(遣韓論)に真正面から反論するのだ。
一 新政まだ久しからず、古今希少の大変事が相次いで,所を失い産を奪われ、大いに不平を懐くものもすくなくない。もし、油断すれば、不慮の事態を起こすかも知れない。事実、各地に流血の一揆、暴動が次々と起こっているではないか。この現実をよくみないで、にわかに朝鮮の役を起こすなどもってのほかである。
二 今日すでに政府の費用莫大で、歳入は常に歳出を償えない。いわんや数万の兵を外地に出せばその費用も莫大なものになり、結局のところ、人民に重税を課し、外国からの借財に頼り、紙幣を乱発することになる。現在、我が国の外債は500万以上に達し、その償却の方法に至っては未だ確たる成算はない。
三 今、無用の戦を起こせば政府の事業はことごとく中途にして止めることになり、再度やろうとすればまた新たに事を起こすことになる。殖産興業の道は数十年も遅れることになろう。
四 我が国輸出入の状況は、年に百万両の輸入超過になっており、いまや国産品の育成を奨励して輸入品に代えることが焦眉の急である。しかるに、戦となれば戦艦、弾薬、銃、軍服の多くは外国に頼らざるを得ず、ますます入超を増やして、国に疲弊を招くは必定である。

以下三条は省略するが、大久保の主張は理路整然、まさに西洋見聞の成果が見事に凝縮されており、誰も反論することはできなかった。

こうして「明治六年の政変」と称される奇跡的な大逆転劇が演じられ、西郷、板垣、江藤、副島、後藤は辞職。代わりに伊藤博文、寺島宗則、勝海舟らが入閣、留任の大隈重信や大木喬任(たかとう)とともに、大久保政権が成立するのだ。

画像: ロンドンの金融街「シティ」に通じる門(ゲート)。

ロンドンの金融街「シティ」に通じる門(ゲート)。

画像: ロンドンのウェストミンスター橋と国会議事堂。

ロンドンのウェストミンスター橋と国会議事堂。

画像: リバプールのドックゲートと穀物倉庫。

リバプールのドックゲートと穀物倉庫。

銅版画挿絵画像はいずれも『特命全権大使 米欧回覧実記』より。(提供/久米美術館)

大久保流の新・殖産興業策

大久保はその後、内務省を設置して自ら内務卿となり、大蔵卿の大隈重信と工部卿の伊藤博文を両輪にして大車輪で近代化、工業化、言い換えれば「新・殖産興業方針」を推進していくことになる。1878(明治11)年3月、大久保は「一般殖産及び華士族授産の儀」を提出して体系化を図っており、国力の伸長を図るには固有の物産を改良し、「国人」の産業を安定させなければならないと民力養成論を掲げ、また士族授産として開墾事業と府県への殖産資本金の貸与を提案するとしている。

大久保の殖産興業策は、資金的裏付けのあることが特徴であり、資本のかかるものについては官業として始業し漸次民間に払い下げる方針をとり、造船、鉱山、港湾、鉄道、製糸、紡績、紡織などに優先投資を行った。また、当面の輸出産業である生糸と茶については特別の配慮を行うとともに、農業は諸業の基として左記のような種々の事業を進めた。
一 製糸業、紡績業、富岡製糸工場、新町屑糸紡績所
二 農業試験場、内藤新宿試験場、三田育種場、駒場農学校、下総牧羊場
三 疎水開墾事業 国営安積開墾、灌漑、用水
四 勧業博覧会、西南戦争中にもかかわらず第一回の内国博覧会を盛大に開催

大久保の企図した公債には2倍の申し込みがあり1,000万円の基金がつくられた。このために大久保没後も事業が継続され、近代化事業の促進が着実に図られることになるのだ。

大久保の事績につき、大蔵省での側近だった渡辺国武(後に大蔵大臣)がこう述べている。

「幕末の末葉から全権副使として岩倉公と一緒に欧米諸国を巡回されるまでが第一段階で、この間の大久保さんの理想は、全国の政権、兵権、利権を統一して、純然たる一君政治の古に復するのがその重要目的であった。

欧米諸国を巡回されて、その富強の拠って基づくところを観察して、帰朝されてから以後は第二段階である。この世界上に独立した国を建てるのには、富国強兵の必要は申すまでもないが、この富国強兵を実行するには、ぜひとも殖産興業から手を下して、着実にその進歩発達を図らねばならない。建国の大業は議論弁舌ではいかぬ。やりくり算段でもいかぬ、恐喝恐赫でもいかぬ、権謀術数でもいかぬ、と大悟徹底された。これが大久保さんの理想の第二段階であると私は考える」

このように岩倉使節団の旅は、保守家だった大久保の目を開かせ積極的な開化派に大変身させた。大久保は日本の近代化を順序良く漸進的に進めていく現実的な知恵を学び得たと言いうるのではないだろうか。

※日立「Realitas」誌27号に掲載されたものを、著者泉三郎氏の許可を得て再構成しています。

画像: 【第3回】大久保利通の変身と「新・殖産興業方針」の確立(後編)

泉 三郎(いずみ・さぶろう)

「米欧亜回覧の会」理事長。1976年から岩倉使節団の足跡をフォローし、約8年で主なルートを辿り終える。主な著書に、『岩倉使節団の群像 日本近代化のパイオニア』(ミネルヴァ書房、共著・編)、『岩倉使節団という冒険』(文春新書)、『岩倉使節団―誇り高き男たちの物語』(祥伝社)、『米欧回覧百二十年の旅』上下二巻(図書出版社)ほか。

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