監視システム屋の血が騒いだ地方キャラバン
山口氏は1987年に大学を卒業し、現在のKDDI株式会社の前身である国際電信電話株式会社に入社。同社の研究所に配属され、国際ネットワーク回線を管理・監視するシステムの研究開発に携わった。その後、日本ヒューレット・パッカード株式会社でサービス開発コンサルティングを担当し、2005年に当時のボーダフォン株式会社に移った。山口氏は通信卸売ビジネスの責任者となり、ディズニーモバイルなどの新たなサービスの開発を手掛ける傍ら、新規事業の開拓にも取り組もうとしていた。
「通話サービス以外に、通信を使って新しい価値を提供できる事業を立ち上げたいと考えていました。今で言うIoTですね」
山口氏が農業に出会ったのは、そんな時期だった。
「2008年に『ふるさとケータイ』という総務省が推進する事業に参加したんです。総務省が通信会社の人たちとキャラバンを組んで、いろいろな地方の通信ニーズを掘り起こそうっていう企画でした。その中で京都府の日本海側を訪れた時に、農業のイノシシ被害がひどいという話を現地の方から聞いて、ピンと来ました。“ITで何かつくれるぞ”って。以前やっていた監視システム屋の血が騒いじゃったんですね(笑)」
そこから山口氏は、社内の有志とともに、農業という新たな分野に切り込んでいった。
「共感してくれた部下たちと一緒に農業用ITの検討を始めました。最初は、京都で聞いたイノシシのように畑を荒らす動物に対する監視システムをつくろうとしていました。ところが農家や生産法人の方たちの話を聞いていくと、獣害対策以前に、作物をつくる段階で使えるIT機器そのものがまだ無かったことに気づいた。じゃあそれを自分たちがつくっていこう、と。そこで、栽培に使えるセンサーネットワークの開発を始めたんです」
センサーネットワークとは、センサーが付いた多数の無線端末を配置し、情報を採取する無線ネットワークのことだ。このときすでに「e-kakashi」というネーミングの原案が生まれていた。
「やっぱり、日本で昔から田んぼや畑を守ってきたのは案山子ですからね。農業をされている方にも親しみや実感を持っていただきたいと思って名付けました」
立ちはだかった3つの壁
栽培をターゲットに据え、意気揚々と始まったe-kakashiの開発プロジェクト。しかしそれは、すでに多くの技術者たちの挑戦をはねのけてきた、一筋縄ではいかない分野だった。
「農業向けのITソリューションの多くは、経営管理や在庫管理、トレーサビリティなどを目的にしていて、どれも作物ができてからのフェーズなんです。作物をつくる段階でのIT機器で成功しているものはまだ無かった。わたしたちはそこに切り込んだわけですが、開発を進めていくうちに、農業をやっている人たちのニーズと、IT側の人間がつくる機能とがかけ離れていることがわかってきました。
IT側にいるわたしたちは“ITで農業のために何かつくったらきっと喜んでくれるに違いない”と考えて、例えば温度や湿度、日射量などを測れる機器をつくって農家の方にお見せする。ところが農家の方にしてみれば“いろんな数値が測れるのはわかった。で、栽培にどう活かせるの?”と。何度も検討を重ねたんですが、農家の方に納得いただけるような、栽培の現場に役立つ機能はできなかった。農業とITの間には、どうしても渡れない大きな川がある…そう感じていました」
どんな機能を提供するかという問題に加えて、製品開発の面でもプロジェクトチームは苦しんだ。
「ハードウェアについては、設計は自分たちでやって製作はITメーカーさんにお願いするという形で開発を進めました。これがなかなか難しくて、ずっと失敗続きでした。センサーが付いた機器を畑や田んぼなどの圃場(ほじょう)に立てるわけですから、雨風に耐えることができて、ちゃんと作動しないといけない。ところが実際に圃場に置いてみると動かない、なんてことが何度もありました」
そして最も山口氏の頭を悩ませたのが、予算の問題だった。
「当時のソフトバンクの注力事業は携帯電話の販売でした。その状況で、うまくいくかどうかもわからない農業IoTという未知のジャンルに入って行こうと言うんですから、事業として成立させるための社内合意をとるのが大変でした。どんな会社でもそうだと思うんですが、新規事業をスタートさせる時の“産みの苦しみ”を味わいました」
農業の壁、製品開発の壁、そして予算の壁。e-kakashiを実用化するために、プロジェクトチームは3つの壁を乗り越えなくてはならなかった。
徐々に吹き始めた追い風
なかなか予算がつかず苦況に置かれたe-kakashiプロジェクト。しかし、世間からは注目を浴び始めていた。プロジェクトが始まった翌年の2009年、世界最先端のICTサービス開発を目的とした総務省の特例制度『ユビキタス特区』にe-kakashiを応募したところ、難関を見事突破。山口氏のチームは、念願の予算を獲得した。
「運よく通ってよかったです。ユビキタス特区というのは、要は開発案件のコンテストです。そこで認められたということで、農業分野への通信技術応用のジャンルでは頭ひとつ抜け出せたかなと、その時は一瞬だけ思いました」
次に山口氏は、製品開発の壁を破るべくさまざまなメーカーに足を運んだ。実用に耐えうる機器をつくるための技術に出会うためだ。
「農家の方に使っていただく以上、信頼できる機器であることは絶対条件です。そこで、それまでやっていた自社設計をやめました。やっぱり“餅は餅屋”だと考え直して、設計からお願いできるメーカーを探しました。」
2010年のある日。訪れた展示会で、一つの製品が山口氏の目に留まった。
「無線センサーを使ったAirSenseっていう、日立さんのシステムでした。これなら信頼性の問題をクリアできると直感しました。というのは、わたしはもともとネットワーク管理の研究開発をしていたので、システム運用管理分野での日立製品の信頼性の高さを知っていたからです」
AirSenseを紹介していたのは、日立で社内のベンチャー部門を率いていた木下泰三だった。木下は、もともと研究畑出身。偶然にも、その経歴は山口氏と似通っていた。
「気質が合ったんでしょうね。その場ですぐに意気投合して、農業への思いを語り合って盛り上がりました。ちょうど木下さんはAirSenseの技術を活かせる分野を探していて、e-kakashiの構想を話すと強く共感してくれました。それから数回打ち合わせをして、じゃあ一緒にハードウェアの部分を開発していきましょう、となりました」
しかし、追い風は長くは続かなかった。2010年に行われた“事業仕分け”により、ユビキタス特区事業は2年間で終了することが決まった。総務省の委託で続けることができたe-kakashiの開発は、早くも存続の危機に追い込まれた。
社内公募に望みを繋ぐ
2011年、山口氏率いるプロジェクトチームは、ついに最後のチャンスに懸けることを決意した。
「『SBイノベンチャー』っていう、ソフトバンクグループの中での新規ビジネス提案コンテストがこの年から始まったんです。入賞すると事業化検討の対象になり、認められると社長からゴーサインが出る。これに通らなかったら、もうe-kakashiは諦めよう。これに懸けようと、腹をくくって応募しました」
応募案件の総数は約1,200件。そのうち、審査を通過して事業化検討の対象となるのはわずか10件程度に過ぎない。通過する可能性は実に1%を切るという、過酷なレースだった。結果は、プロジェクトメンバーのだれもが予想しないものだった。
「なんと1位で通過したんです。それも、圧倒的な高評価でした。さらに、その後の事業化検討の結果、社長からゴーサインが出たんです」
まさに土壇場での一発逆転。山口氏は最大のネックだった社内合意の壁をついに乗り越えると、一気に事業化へと突き進んだ。そして、リーンスタートアップをめざしてグループ会社のPSソリューションズ株式会社に事業主体を移し、農業IoT事業推進部を創設。植物生理学や農学分野の学位を持つ専門性の高い人材を採用し、同部に配置した。
「三重大学大学院生物資源学研究科に亀岡孝治教授という方がいらっしゃいます。e-kakashiの開発を進めてきたなかで、亀岡教授からは農業におけるIT活用について助言をいただいたり、国内の有力農業生産法人の現場に連れて行っていただいたりしました。その研究室の博士課程の学生が、就職先として弊社を選んでくれたんです。彼は、土壌センサーなどのネットワークを使って農業をより精密化し、技術的にも向上させる研究をしていました。まさに、わたしたちが求めていた人材でした」
e-kakashiの開発でつくりあげた人脈がもたらした縁だった。これで、プロジェクトの陣容は整った。その後、ソフトウェアとハードウェア両面の開発を重ねた山口氏のチームは、数年にわたるフィールド検証を経て、2015年10月、悲願だったe-kakashiの商用化にたどり着いた。プロジェクトの始動から8年が経とうとしていた。
他の農業IoTに無い、e-kakashiの強み
e-kakashiの概要は次のとおりだ。まず、圃場に無線センサーを搭載した子機を設置する。センサーが計測するのは、気温や湿度、日射量、土壌の温度や水分量、CO2濃度など。これらが無線ネットワークを通じて親機に収集され、さらにクラウド上で蓄積・分析される。その結果から、今必要な管理作業は何か、計測されたデータが適正な値かどうか、収穫まであと何日と予想されるかといったアドバイスがはじき出される。農業従事者は、スマートフォンやタブレット、パソコンに表示されたそれらのアドバイスに従って農作業を行う。ハードウェアの開発は日立製作所が、データ分析やアドバイスの監修はPSソリューションズの農学出身部隊が担当した。
これによって、従来のような経験と勘に頼る農業ではなく、科学に基づいた農業が可能になる。近年、農業向けにIoTを活かした機器やソリューションが登場し続けるなか、e-kakashiが持つ独自性について山口氏はこう語った。
「サイバー・フィジカル・システム(CPS)という言葉があります。物理的な世界でセンサーネットワークを使ってデータを収集する。それを、サイバーな世界で処理して分析し、社会課題の解決に役立てる。e-kakashiは、そういったCPSの分野に踏み込んだ最初の農業IoT機器だと考えています。もはや、見える化はできて当たり前。大切なのは、その数値化された情報から、今具体的にどうなっているか、何をやるべきかを導き出せること。それを農学の視点を活かして実現したのが、われわれの一番の強みです」
作物づくりのあり方を変えていくe-kakashiの発明が、ある社会課題の解決に役立つと山口氏は考えている。
「日本の農業が長年抱えてきた、人材不足の解消に繋げたい。そして、日本の農業がポテンシャルを発揮すれば、世界で注目される産業になりうる。わたしはそう信じています」
8年間の紆余曲折を経て、ようやく日の目を見たe-kakashi。山口氏が今後めざすところは何か。
「農業は、食べ物をつくる重要な産業です。e-kakashiを世界中の農業に使っていただいて、食糧問題の解決に少しでも貢献できたら嬉しいですね。それと、農業って実は環境負荷が高い産業なんです。今の農業では“おいしくて安全”であることが重視されていますけど、“地球にもやさしい”っていう要素をプラスしていかなきゃいけない。e-kakashiが、その一助になれたらと思います」
第2回では、e-kakashiの製品開発における壁をどう乗り越えたのか、設計と品質保証を担当した日立製作所の技術者に話を聞く。
このシリーズの連載企画一覧
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疲労の国が医療を変える >
イノベーターは、校長先生 >
経験不問、IoT農業。 >
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