疲労・ストレス測定システムの開発
ベンチャー企業と共同で自律神経測定器を開発し、疲労の定量化に成功した関西福祉科学大学健康福祉学部長・倉恒弘彦氏。しかし、疲労研究のゴールはまだまだ先にあった。
「わたしが目指すのは、家庭でもあたりまえに疲労を測れる環境です。そのために、測定器を世の中に広く普及させたい。しかし、測定結果を被験者にわかりやすく説明するには、測定で得られた数値を細かく解析する必要があるんです。それをできるシステムが必要でした」。
そんな折り、倉恒氏に、あるITメーカーの社員から声がかかる。それが、株式会社日立システムズの松原孝之氏だ。同社で新規事業の企画に携わり、社内の東日本大震災復興支援プロジェクトにも名を連ねていた松原氏。疲労研究の世界と関わりを持つことになったきっかけは、当時の被災地の状況だ。
「ちょうど震災から1年経った時期、仮設住宅に暮らす方の孤独死や、自治体職員の自殺などが報道され、住民の疲労とストレスが問題となっていました。実際に現地にも足を運んで、疲労に対する自治体の問題意識の高さを痛感し、心身の疲労に苦しむ人たちの助けになる製品を開発したいと考えたんです。倉恒先生は、それよりも以前から日立製作所の中央研究所と共同研究をされていたので、研究チームから先生を紹介していただいて、システムの共同開発を始めました」。
だれもが疲労を測れる社会づくりを目指す倉恒氏と、疲労に悩む被災地域の復興に貢献したいと考える松原氏。その後、大阪市立大学健康科学イノベーションセンター所長・渡辺恭良氏も加わり、自律神経測定器を軸とした"疲労・ストレス測定システム"の開発が始まった。
金融のシステムエンジニアから医療の分野へ
松原氏は1980年、旧・日立電子サービス株式会社に入社。大型汎用コンピュータ周辺装置の設計や保守を経験したのち、ATMや監視カメラなど金融業向けのシステム設計を担当。入社から約30年、一貫して技術畑を歩んできた。常に確実さが求められ、万が一のシステム不具合も許されない金融というクリティカルな世界とは180度異なる、事業開発という分野への転身。松原氏は、疲労・ストレス測定システムの開発に着手した当時をこう振り返る。
「2012年の春に、金融のシステム設計から、新設された新規事業開発のセクションへ異動 になったんです。しかし、どんな案件をやるか、まだ何も決まっていない状態で、はじめは電力や水道など社会インフラの分野をリサーチしていました。疲労・ストレス測定システムの開発プロジェクトを立ち上げたときは、まだ5月でした」。
異動してわずか1カ月後に、医療分野での事業立ち上げに着手した松原氏。しかし、医療に関する予備知識が無いなか、手探りでのスタートだった。
「ドクターが話す専門用語を耳にしても、最初はまるで外国語を聞いているようでした。しかし、新しい事業を立ち上げるためには、一日も早く、専門的な話を理解できるようにならなければいけません。そのために、用語の意味を調べて自分なりに解釈して辞書をつくり、ドクターとの会話のなかでそれが正しいかどうかを確認していく。そんなことの繰り返しでした」。
その後、松原氏は、社内の東日本大震災復興支援プロジェクトのメンバーにも選ばれる。急ピッチで医療の知識を吸収していった背景には、復興支援に関わる、ある公募案件があった。
ITで、疲労に苦しむ人を救いたい
「異動してすぐ、福島県のとある自治体が、東日本大震災で被害を受けた住民への健康支援プロジェクトの事業者を公募したんです。それに参加するために、疲労・ストレス測定システムの設計を大急ぎで進めました。地元の人たちに対して、どんなしくみで疲労をケアしていけば貢献できるのかを第一に考え、倉恒先生や渡辺先生にもアドバイスをお願いしました」。
しかし、競合の結果は次点。受注したのは、疲労・ストレス測定システムとは異なるアプローチで提案を行った他社だった。しかし、松原氏は開発の手を止めなかった。
「落札こそできませんでしたが、かなりの人材と技術力を投入して開発に取り組んだ結果、自信を持てる仕様ができあがったので、"このシステムなら多くの人を救える"という自負がありました。だから、公募のあとも設計内容をブラッシュアップし、製品化することにしたのです。11月にシステムの開発を始め、翌2013年の2月にはリリースにこぎつけました」。
4月の段階ではまったく白紙の状態だった、疲労・ストレス測定システムの開発。医療分野は未経験という不利を努力でカバーし、公募での不本意な結果をものともせず、松原氏は企画から1年足らずで製品化を実現した。システムは、リリースの発表直後からテレビのニュース番組で報道されると大きな反響を呼び、今でも医師や企業を中心に問い合わせが相次いでいるという。
測定結果の解析にクラウドを活用
疲労・ストレス測定システムの、大まかなしくみは次のとおりだ。まず、測定器によって得られた被験者の心電と脈波のデータは、PCを介して日立システムズのデータセンターに転送される。データは瞬時に解析され、"測定結果"となってPCに返ってくる。測定結果に記載されるのは、グラフ化された自律神経の強さと、交感神経・副交感神経のバランス。さらに、倉恒氏の監修によるコメントで、疲労の状態がわかりやすく説明されている。このシステムを医療機関や企業などが導入して測定に用い、医師や保健師はその結果をもって被験者に健康管理のアドバイスを行う。機器だけでも測定は可能だが、あえてクラウドを用いたねらいを、松原氏はこう語る。
「多くの企業の場合、事業所は1箇所ではなく全国の各地に点在しています。市役所ならば、市内にいくつもの出先機関がある。クラウドを用いる最大のメリットは、複数の場所で取得した自律神経データを一元管理できるので、大量のデータを一気に解析できることです」。
そのほか、価格を抑えられるという、導入する側にとってのメリットもある。
「取得データの解析には、高価なソフトウェアが必要になります。測定器単体で販売する場合、このソフトをPC1台ごとにインストールしなければいけませんが、クラウドなら、データセンターにそれを導入すればいい。そのぶん、価格を抑えられるのです。また、機能を更新する際にも、センターにだけ手を加えれば済みます」。
大量の測定データを1箇所で収集・解析し、コストを抑えることで普及しやすくする。クラウド化は、倉恒氏のビジョンを具現化するためには最適な手段だった。
ライフログ解析との連携
日立製作所は、数年前に三次元加速度センサーを搭載した"ライフ顕微鏡"という製品を開発。倉恒氏は、この機器を被験者の腕に24時間装着してもらうことで得られるライフログというデータの解析に関して、日立製作所中央研究所と共同研究を続けてきた。ライフログとは、身体活動の量や睡眠の状態を示すデータだ。ライフログ解析を疲労・ストレス測定システムと連携させることで、さらに正確に健康状態の管理ができると倉恒氏は考えている。
「疲労・ストレス測定システムで"疲労傾向がある"という測定結果が出た人に対しては、次のステップとして、ライフ顕微鏡を使って身体活動量の変化や睡眠の傾向を分析する。その結果を受けて、病院で診療を受ける必要の有無を判断できるのではと考えています。検診をすると、疲労感を自覚していないにもかかわらず、自律神経を測定したら疲労しているという結果が出た、という人が全体の数パーセントいます。こういった人たちには、過労死の危険があります。まずは自律神経を測定することでスクリーニングをかけ、問題がある人に対しては、さらにライフログを測定する。この二段階の測定によって、的確な改善処置ができると考えています。診療機関における使用を想定して、現在日立システムズさんと開発中です」。
家庭で健康管理ができる社会へ
渡辺氏は、今後、疲労・ストレス 測定システムが提供できる機能をさらに拡張していくべきだと考えている。
「疲労を測定するだけではなく、ソリューションの提供も必要です。測定してこんな結果が出たら、こう対処してくださいというアドバイスを被験者に送る。それを自動化できれば、それぞれの家庭で健康管理ができます。現段階では、被験者は測定器を導入している医療機関などへ出かけて行かないと測定ができませんが、将来的には、血圧計のような健康器具として測定器が一家に1台あるという環境を実現したいですね」。
また、多くの測定データが蓄積されることで、疲労と病気との関係も見えてくる。
「ヒトが疲労感を覚える際には、抗酸化剤と細胞修復メカニズム、免疫物質という3つの要素が働いています。これらは、実は病気や老化にも関係しているのです。データが蓄積されていくことで高い精度の解析ができるようになれば、疲労と、糖尿病や認知症などの病気との相関関係も見えてきます」。
一方で倉恒氏は、自律神経測定器を応用すれば、疲労以外の測定にもシステムを役立てられると話す。
「血管年齢を割り出す指標として脈波伝播速度という数値がありますが、自律神経測定器を応用することで、これを測れる可能性があります。実現すれば、例えばクモ膜下出血や狭心症などの循環器系疾患の予防にも役立てられるかもしれません」。
渡辺氏と倉恒氏の、ITにかける期待は高まる。松原氏は、ふたりの思いを実現するだけでなく、さらにシステムの可能性を広げようとしている。
「疲労を測定すると、被験者のスマートフォンにメールでアドバイスが送られるなど、すでに普及しているデバイスの活用も考えています。さらに現在、中国や東南アジアへの進出も検討中です。実際に、鍼灸をはじめとする東洋医学療法の効果を測るといった事例も出てきています」。
病気になる前に、気づかせたい
疲労研究のゴールとして、倉恒氏と渡辺氏は同じことを掲げている。
「病気にかかる前に、体の異常に気づかせてあげたいんです。それができれば、病気を防ぐことができます。そのために、だれもが疲労の状態を手軽に測れる世の中をつくっていきたい」。
その夢をITの力で実現させようと、慣れない医療の分野でのシステム開発に没頭してきた松原氏。ふたりの研究者とは、単なるビジネスパートナーではない強いつながりで結ばれている。
「先生方はともに研究の第一線を走られているだけに、わたしにとっては近づきがたい存在でした。しかし、とてもフランクに接してくださるし、いつもバックアップしていただいています。先生方なくしては、この事業は実現していませんでした。わたしたちが共有している開発の目的は、測定システムを製品化して終わりではなく、多くの人が手軽に疲労を測定でき、疾病を予防できる世の中をつくっていくことです。そのために、疲労・ストレス測定システムの改良と普及を進めていきます」。
ふたりの研究を、技術でサポートする松原氏。ITを駆使した疲労への挑戦は、これからも続いていく。
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