個人の行動や意識をとらえるマーケティングへの変革
インターネットの利用拡大、スマートフォンやタブレットに代表される多機能なモバイルデバイスの普及、センサー技術の発展などにより、ヒトのさまざまな行動やモノの稼働にともなう膨大なデータが次々に生成されてくる。
これらの多様かつ大量のデータをそのまま使い捨てにするのではなく、情報システムに取り込んで、いま起こっている事象や変化をリアルタイムに判断したり、長期的に蓄積してデータ間の因果関係を分析したりすることで、ビジネスに役立てようという取り組みが活発化している。いわゆる「ビッグデータ」の利活用だ。
なかでも大きな期待が高まっているのが、マーケティング分野での利活用である。
もちろん、これまでもマーケティングの世界では、さまざまな局面でITが活用されてきた。市場調査などから得られたデータを分析し、キャンペーンや広告展開などに生かしていくといった取り組みだ。コンピュータの処理能力の向上とともに、分析できるデータ量や精度も大きく向上してきた。それでも、従来のITがマーケティングの方法論やプロセスまで変えてきたとは言えなかった。
周知のとおり、マーケティングには4P(Product:製品、Price:価格、Place:流通経路、Promotion:販売促進)、3C(Customer:顧客、Company:自社、Competitor:競合)、4C(Customer Value:価値、Customer Cost:代価、Convenience:買いやすさ、Communication:伝達)といった多様な要素があり、これらが複合的に作用し合った結果が売り上げやシェアに結びついていく。
そこにある因果関係はあまりにも複雑であるため、「こうすればこうなる」といった将来を予測した手を打つことは非常に困難だ。したがって最終的には、経営者やマーケティング責任者の“勘”と“経験”に基づいた判断が下されることになる。しかし、それらの多くは過去の成功体験からもたらされたものであり、激しく変化していく市場や顧客においては、進むべき道を見誤ってしまうおそれがある。あるいは、せっかくのチャンスに気づかないまま見逃してしまうかもしれない。
ビッグデータは、こうしたマーケティング領域にかつてないイノベーションを起こそうとしているのである。日立製作所 情報・通信システム社 スマート情報システム統括本部の副統括本部長を務める安田誠は、次のように語る。
「ビッグデータによってどんなことが起きているのかというと、一人ひとりのお客さま、すなわち“個”の行動や意識を識別し、リアルタイムに変化や特別なイベントをつかむことが可能になりつつあるのです」
従来のような「30歳代、首都圏に在住する男性」といった大枠なターゲットではなく、個人を単位としたマーケティングが行われるようになり、なおかつ個人からのレスポンスが即座に返ってくるとなれば、その取り組みはもはやセールスと一体のものとなる。さらに、得られたデータは新たな製品開発やサービス拡充へのインプットにもなっていく。
「ヒトにまつわるデータを核としてそこに多様なデータが集まり、相互につながり合って、複合的な情報活用を呼び起こしていくのです。お客さまとのリレーションシップをより深め、従来にないマーケティングプロセスを生み出し、企業のビジネスそのものを変革していく可能性があります」
データの集め方、組み合わせ方によっては個人のプライバシー侵害につながる可能性があるため、クリアしなければならない課題が残っているのも事実だ。しかし、“個”をターゲットにしたアプローチは、大局的なビジネスの潮流であることに間違いはなく、マーケティング領域におけるビッグデータ利活用はますます発展しつつある。
博報堂と日立の協業 その背景にあるねらいとは
こうしたマーケティング領域のイノベーションに向けて、日立が踏み出したのが博報堂との協業である。
博報堂は、広告会社という立場から顧客企業のビッグデータを活用したマーケティング戦略の立案・実施を支援するとともに、さまざまな関連ソリューションの開発にも積極的に取り組んできた。そして日立もまた、豊富なデータ解析ノウハウやITプラットフォーム技術など、IT力を前面に打ち出したビッグデータ利活用事業を積極的に推進し、顧客企業の新たなビジネス価値創出に取り組んできた。
そこで培われた博報堂のマーケティングコンサルティング力と日立のIT力を融合し、補完しあうことで、顧客企業に対するサービス提案力の向上や新規事業の創生をめざすというのが、今回の協業のねらいである。
「日立の強みがどこにあるかというと、やはりモノづくりや、交通や電力などの社会インフラ構築といった領域になります。しかし、一般の生活者を含めたお客さまとのリレーションを築いていくといった部分で、必ずしも十分なノウハウを持っているわけではありません。これを補ってくれる、マーケティング領域における豊富な実績とプロフェッショナルの知見を持った企業を探していました。そうした中で出会ったのが博報堂だったのです。同様に博報堂の側でも、生活者に関わるビッグデータを統合し、スピーディな戦略策定、施策の実行、検証を継続的に行い、マーケティングROIを最大化していくPDCAサイクルを実現するうえで、IT力の強化を求めていました。マーケティングは単なる広告宣伝ではなく企業経営にもかかわる分野であり、同じ目的意識を持つ者どうしの連携によって、新たな価値を生み出せると考えました」(安田)
こうして「ヒト」をよく知る博報堂と「モノ」をよく知る日立の両社は協業に合意し、2013年4月1日に協働プロジェクトの場となる「マーケット・インテリジェンス・ラボ」を設立するに至った。
従来のマーケティングの枠を超え新たな事業機会を掘り起こす
マーケット・インテリジェント・ラボは、すでに日立が2012年4月より活動を開始しているビッグデータ利活用専任組織「スマート・ビジネス・イノベーション・ラボ」内に設立され、現在は日立から7名、博報堂から8名のメンバーが参画した計15名体制で運営している。
ちなみに、協働プロジェクトの名称に掲げられている「マーケット・インテリジェンス」とはいかなるものなのか。安田によると、「企業活動の場であり生活の場である市場の実体を把握するために、業務システムの伝票データのような「コト」に関するものだけでなく、「モノ」、「ヒト」の幅広いデータを収集、分析し、生活者の潜在的なニーズ、企業における新たな事業機会を掘り出すこと」と定義されている。
この共通コンセプトからも見えてくるのが、従来のような特定商品の拡販を目的としたマーケティングの枠を大きく超え、新規ビジネスを創生していくという両社のミッションだ。その意味でもマーケット・インテリジェンス・ラボは、マーケティング領域にイノベーションを呼び起こす壮大な実験場となるのである。
一方で安田は、「マーケット・インテリジェンス・ラボは単なる研究チームではなく、実務ベースでお客さまのビッグデータ利活用を支援していきます」と強調する。
まず提供を開始したサービスが、マーケティングプロセス改革コンサルティングである。市場、顧客、各種マーケティングデータを統合し、高度なマーケティング解析モデルを活用して、顧客の課題解決におけるプランニング精度の向上をめざす。例えば、顧客企業内のさまざまな業務データや公共系のオープンデータを掛け合わせ、マーケティング解析モデルを適用することで、これまで見えなかった事業の状況を把握することができる。リアルタイムに可視化することで、従来のマーケティングプロセスを高精度化、高速化さらには自動化することが可能となる。
また、マーケティングデータ管理プラットフォーム構築と関連ソリューションの共同開発も推進していく。顧客企業におけるマーケティングデータをはじめとする多様なデータの収集・蓄積と、多角的な用途に活用するための加工・分析のためのITプラットフォームを構築する。これにより、異分野・異業種間のデータの掛け合わせを含めた、マーケティングデータ提供ビジネスの開発を容易にすることをめざす。
その先にはどんなビジョンが描かれているのだろうか。
「将来的には、社会インフラの視点からマーケットをとらえ、ビジネスでのデータ利活用だけでなく、生活者の暮らしを豊かにするための仕組みづくりも視野に入れながら、体制の拡充を図っていきたいと考えています」(安田)
例えば、電車の運行状況や車の動き、発電機の稼働状況など、モノの動きから得られるデータによって社会インフラの安全性を高めたり、スマート化を進めたりするといったビッグデータ利活用が提案されている。そこにヒトの行動から得られたデータを組み合わせることで、生活者にとってより優しく、便利で、活動しやすい街を設計することができる。これも広い意味でのマーケティングなのである。
同様のニーズは国内や先進諸国のみならず新興国の間にも高まっていくと予想され、博報堂と日立の両社は、先行して獲得したノウハウと知見を、マーケット・インテリジェンス・ラボから世界に向けて発信していく考えだ。
「IT×社会インフラ×マーケティング」のシナジーを発揮していく
今回、マーケティング領域におけるビッグデータ利活用事業で日立と協業することになりましたが、博報堂側にはどんな期待があったのでしょうか。
もちろん直接的な期待は、日立が持つIT力にあります。ビッグデータを利活用し、マーケティングのPDCAサイクルを回していくためには、データ分析やプラットフォーム技術などのITによる支援が欠かせませんので。
ただ、IT力だけを求めるなら、他のベンダーでもよかったのではという質問がよく出ます。博報堂が日立と組みたいと思った最大の理由は、日立がITだけの会社ではないという点です。日立は常に「IT×社会インフラ」という言い方をしています。社会に変革を起こすための必要不可欠なファンクションとしてITがあるという考えと理解しています。実は博報堂のマーケティングに対する考え方も同じで、お客さまのビジネスを成長させるためのファンクションとしてマーケティングを位置づけています。
博報堂のマーケティングコンサルティング力と日立のIT力、この2つのファンクションを融合することで、お客さまにより高い価値を提供できるようになるのではないかと考えました。
「IT×社会インフラ×マーケティング」という新たなシナジーが生まれるのですね。
そうありたいと考えています。交通や電力などの社会インフラをどのように変え、スマートな次世代都市をどうやって実現していくのか。日立がめざす社会イノベーションにもマーケティングの考え方やプロセスが絶対に必要であり、博報堂のノウハウが貢献できる領域はたくさんあると考えています。
また、新たな街づくりやより良い社会に向けては、博報堂もさまざまなアイデアや構想を持っていますが、それを具現化していく技術やプラットフォームがなければ、単に夢を語るだけになってしまいます。日立と協業することで、博報堂としても、より一層イノベーションに参画していくことが可能になると考えています。
あえて摩擦や衝突を起こしながら両社の融合を進めていく
――社会イノベーションという大きな目標を見据えつつ、両社が協働していく場としてマーケット・インテリジェンス・ラボが始動したわけですね。一方でまったく違った文化を持つ企業どうしが連携していくことには、いろいろ難しい面もあるのではないでしょうか。
おっしゃるとおりで、すんなり融合が進むわけではありません。実は、そんな「摩擦」や「衝突」をあえて起こすことも、マーケット・インテリジェンス・ラボにおける大きなねらいなのです。
――それはどういうことでしょうか。
異なる企業文化で育ってきた者どうしが議論すると、同じテーマで話し合っているつもりでも、使っている言葉の意味にズレが生じることがよくあります。
例えば、「システム」や「ネットワーク」と言った場合、IT分野の専門家たちはコンピュータの技術的な仕組みを連想しがちですが、マーケティング分野の専門家たちはもっと広い概念でのビジネスの体制や事業間のつながりを連想します。
また、一つの案件に対する時間軸も違います。例えば日立が手がけている鉄道ビジネスなどでは、数年から十数年といった長期スパンでの取り組みが必要になると聞きます。一方、私たちが手がけている広告ビジネスは、数週間から数か月といった短いスパンで成果を出すことが求められます。例えばマーケティングプロセスのPDCAサイクルを回すといっても、とらえ方はまったく違ったものになります。
こうしたことからさまざまな認識に違いが生じるわけですが、交わす言葉が違っているのなら、なぜ違っているのか、どうすれば相手の考え方に合わせることができるのか、摩擦を肌で感じながら試行錯誤していかないと、本当の意味でのマーケティングコンサルティング力とIT力の融合を果たすことができません。
――そこで両社から人材を出し合い、同じ場で、膝を突き合わせて議論することが重要になるのですね。
仮にマーケット・インテリジェンス・ラボが単なる研究や実験のプロジェクトだったなら、プロジェクト単位での疎結合の協業でも成り立つのかもしれません。しかし、私たちがめざしているのは、お客さまの実際のビジネスに根ざしたビッグデータ利活用であり、詰めるところはしっかり詰めていかないといけません。そして、そのためには信頼が不可欠であると考えます。
実は、お客さまが一番苦労しているのが、先にお話したようなコミュニケーションではないかと思います。ビッグデータを利活用して「こんなことをやりたい」という思いがあったとしても、マーケティングプロセスとITプラットフォームは別々の会社から導入しているのが実情です。各社が異なる「言葉」で話していたのでは、お客さまは目標に近づくどころか混乱するばかりです。
マーケティングとITを平行線で考えるのではなく、まずは私たち自身がそのブレークスルーを成し遂げることが急務と考えています。
マーケット・インテリジェンス・ラボに相談すれば望んでいたビジネスを実現できる
――マーケット・インテリジェンス・ラボのメンバーがお客さま先に直接出向いて、コンサルティングを行うこともあるのでしょうか。
もちろんです。特にマーケティング領域のビッグデータ利活用では、微妙なニュアンスまで汲み取らないと、お客さまのやりたいことを形にすることはできませんので。
そうなると、現状の15名(日立側7名、博報堂側8名)という体制では、手が回らなくなるのではないでしょうか。
当然、将来的にはもう少し規模を拡大していく必要があると考えています。
ただ、マーケット・インテリジェンス・ラボのほかにもビッグデータ利活用に関連の深い専門家はたくさんいます。例えば日立のスマート・ビジネス・イノベーション・ラボには多くのデータアナリストやシステムエンジニアが所属しており、日常的に密に連携をとっています。また、博報堂のエンゲージメント・ビジネス・ユニットに設置されたビッグデータマーケティング推進チームにおいても、マーケティングコンサルタント、CRMスペシャリスト、インタラクティブプランナーといった専門家が活動しています。
このように専門家は、その時々の課題に応じて参加してもらうことができます。その意味では、マーケット・インテリジェンス・ラボは、新しい市場やビジネスを創っていく開発者であると同時に、まわりの組織や人材をどんどん巻き込んでいくプロデューサー的な存在であると考えています。
――今後、マーケット・インテリジェンス・ラボからどんな価値が創出されていくのか、楽しみにしています。
ありがとうございます。博報堂側の人間としても今回の日立との協業には、非常に大きな可能性を感じて参画しています。マーケティングプロセスを変え、ビジネスのあり方を変え、社会そのものを変えていく、そうした将来ビジョンを共有しているからこそ、私たちは今までの何倍もの強みを発揮していくことができるはずです。
お客さまからも、「マーケット・インテリジェンス・ラボに相談すれば、望んでいたビジネスを確実に実現できる」と評価をいただけるよう、私たちが提供するマーケティングコンサルティング力、IT力の真価を実証していきたいと思います。
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