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一橋大学特任教授(PDS寄付講座およびシグマクシス寄付講座)楠木建氏
楠木建教授がリスペクトしている、作家で起業家の菊池寛。その菊池寛について、本誌で対談いただいたフランス文学者の鹿島茂先生が書かれた『菊池寛 アンド カンパニー』は、教授の心をしっかりととらえた。この評伝を通して見えてくる人間菊池寛が、今月のテーマだ。最終回の第4回は、菊池寛の率直さについてのエピソードをご紹介いただく。

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「第4回:率直な人」

※ 本記事は、2025年9月1日時点で書かれた内容となっています。

人間は「率直さ」が大切だというのが僕の考えです。率直さは人間の数ある美徳の中でもかなり上位にくると思っています。その点でも菊池寛という人を尊敬しています。飾り気がない、ポーズもない、ありのままの自分を自然に開示する。自分の価値基準に忠実に行動する。表裏がなくて、言動が一致している。だから初対面の人でも親しみを感じる。

そんな彼の率直さを物語るエピソードがあります。料理屋に、菊池寛と芥川龍之介、作家の卵の小島政二郎の3人で出かけます。その頃の日本では、チップを払うという習慣がありました。3人はよくご飯を食べに行っていて、持ち回りでチップを払っていた。その日は菊池寛がチップを払う番で、菊池寛は1円50銭のチップを置きます。すると芥川龍之介が、「1円50銭という半端は変だから、もう50銭足して2円にしとけ」。菊池寛は「なぜだ」と答えます。というのは、彼の考えではサービス内容からして2円を出す気持ちにはならない。だからといって1円ではちょっと少ないだろう。1人50銭ずつ、3人で1円50銭。これ、全然おかしくないじゃないかと反論した。芥川が「いや、祝儀というのは理屈じゃない。中途半端な金額は変なのだから、もう50銭置いておけ」と言うと、菊池ははっきりと、「嫌だ」――芥川龍之介は「こんな小さなことでも自分の基準で判断して行動する、合理性の基準がいつも自分の中にあるのか」と感心したそうです。

有名な人なのでいろいろな会合に出るのですが、つまらないと思うとすぐに帰ってしまう。傍若無人で勝手に見えるのですが、それは自分の基準で動いているということです。例えば、誰かに何かを頼まれても、「それは損だから僕は嫌だ」と、はっきりと言う。

鹿島先生の本を読んではじめて知ったエピソードなのですが、当時の有名人同士の結婚披露宴で菊池寛がスピーチをします。お嫁さんは女優の川崎弘子、お婿さんは当時人気の尺八奏者の福田蘭童。福田蘭童という人は、それまで女性関係でいろいろと問題がある人だった。菊池寛は媒酌人でしたが、お祝いの席であるにもかかわらず、がんがん福田蘭童を攻撃します。「おめでとうと言うのはまだ早い。これから5年間、新郎の交情を見てからにしたい」とクギを刺します。披露宴に出ているお客さんは、結婚する花婿に向かってそんなことを言わなくてもとはじめは思ったようですが、そのうちに菊池の話をじっと聞かずにいられなくなります。率直な言葉がぐいぐいと人の心を突いてくる。人間にとって大切なことを、無駄なくその通りに言葉にする。こんな媒酌人の挨拶は聞いたことがないと、集まった人々は最終的に大いに感銘を受けた。菊池寛の率直さが伝わってきます。

僕が鹿島先生の本ではじめて知ったエピソードがもうひとつあります。当時の小説家は社会的にはある種のセレブリティでした。講演に呼ばれることも多かった。菊池寛が四国に講演旅行に出かけたときの話です。泊まった旅館で、菊地は幽霊に遭遇します。眠っていると急に息苦しくなって目を覚ますと、上に男が馬乗りになって首を絞めてきた。何をするんだとその男を下から押し上げたその瞬間、男の口から血が流れるのが見えた。さすがにこれは人間じゃないなと思って、「君はいつから出ているんだ」と幽霊に尋ねた。すると幽霊は、「3年前からだ」と答えた。

翌日、一緒に旅行へ行っていた後輩の小林秀雄(※)にこの話をします。小林秀雄が、お化けというのはやっぱりあるのかな、と感想を言うと、菊池寛は「あるのかないのかなんて意味がない。出ただけでたくさんじゃないか」と答えたそうです。小林秀雄はそれを聞いて、感銘を受けます。実際に出た以上は、「君はいつから出ているんだ」という質問になる。これが本当のリアリストではないかと、小林秀雄は述懐しています。
※ 小林秀雄:1902年~1982年 日本の文芸評論のパイオニアであり、編集者、作家、美術・古美術収集鑑定家

『文藝春秋』は、1945年の敗戦のあと、1ヵ月半で復刊しています。復刊号で菊池寛は、『文藝春秋』誌上で太平洋戦争を総括します。「今、敗因がいろいろと語られているけれども、最大の敗因は戦争を始めたことだ」。戦時中の『文藝春秋』は、それなりに勇ましいことを言っていました。菊池の主張は、戦後になっての手のひら返しではないかという批判を受けました。しかし菊池寛に言わせると「全然矛盾はない」。戦争が始まるまでは、一生懸命戦争阻止に努めた。それでも戦争が始まった以上、国の応援に徹するのは国民として当たり前のことだ。戦争に負けてしまえば、もう応援団でいる意味はないので、なぜ負けたかを糾明するのがジャーナリズムだ――この率直さこそが、菊池寛の真骨頂です。

「私はさせる才分無くして文名を成し、一生を大過なく暮らしました。多幸だったと思います。死去に際し、知友及び多年の読者各位に厚く御礼申します」――死に際して残した菊池のメッセージも簡素にして率直でした。かなりこってりした人なのですが、後味はあっさりしている。

私見では菊池寛こそ日本の生んだ文化的リーダーです。興味がある方は、鹿島茂『菊池寛アンド・カンパニー』をぜひお読みください。

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画像: 菊池寛―その4
率直な人

楠木建(くすのきけん)
経営学者。一橋大学特任教授(PDS寄付講座およびシグマクシス寄付講座)。専攻は競争戦略。企業が持続的な競争優位を構築する論理について研究している。著書として『楠木建の頭の中 戦略と経営についての論考』(2024年、日本経済新聞出版)、『絶対悲観主義』(2022、講談社)、『逆・タイムマシン経営論』(2020、日経BP、杉浦泰との共著)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。

楠木特任教授からのお知らせ

思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
この10年ほどX(旧・Twitter)を使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。

・140字しか書けない
・オープンな場なので、仕事や生活経験の具体的な中身については書きにくい
・考えごとや主張をツイートすると、不特定多数の人から筋違いの攻撃を受ける

「楠木建の頭の中」は僕のXの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
不定期ですが、メンバーの方々と直接話をする機会も持ちたいと思います。
ビジネスや経営に限らず、人間の世の中について考えることに興味関心をお持ちの方々のご参加をお待ちしております。DMM社のプラットフォーム(月額500円)を使っています。

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https://lounge.dmm.com/detail/2069/

ご参加をお待ちしております。

楠木健の頭の中

シリーズ紹介

楠木建の「EFOビジネスレビュー」

一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。

山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」

山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。

協創の森から

社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。

新たな企業経営のかたち

パーパス、CSV、ESG、カスタマーサクセス、M&A、ブロックチェーン、アジャイルなど、経営戦略のキーワードをテーマに取り上げ、第一人者に話を聞く。

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各界のビジネスリーダーに未来を創造する戦略を聞く。

経営戦略としての「働き方改革」

今後企業が持続的に成長していくために経営戦略として取り組むべき「働き方改革」。その本質に迫る。

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新たな価値創造に挑む気鋭のニューリーダーに、その原動力と開拓する新しい未来を聞く。

日本発の経営戦略「J-CSV」の可能性

日本的経営の良さを活かしながら利益を生み出す「J-CSV」。その先進的な取り組みに迫る。

ベンチマーク・ニッポン

日本を元気にするイノベーターの、ビジョンと取り組みに迫る。

デジタル時代のマーケティング戦略

マーケティングにおける「デジタルシフト」を、いかに進めるべきか、第一人者の声や企業事例を紹介する。

私の仕事術

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禅のこころ

全生庵七世 平井正修住職に、こころを調え、自己と向き合う『禅のこころ』について話を聞く。

寄稿

八尋俊英の「創造者たち」~次世代ビジネスへの視点~

新世代のイノベーターをゲストに社会課題の解決策や新たな社会価値のつくり方を探る。

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