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「第3回:社会企業家」
※ 本記事は、2025年9月1日時点で書かれた内容となっています。
菊池寛は、『文藝春秋』という雑誌で成功します。「文学者としての価値は後世の批判を待つしかないけれども、雑誌経営者としては成功したと思っている」――自分でそう振り返るように、菊池は自分の経営者としての手腕に自信を持っていました。
菊池寛は日本における社会企業家の嚆矢です。会社を起こして雑誌を創刊する動機がイイ。頼まれて書くことに飽きた。自分が考えていることを、気兼ねなしに自由に主張したい。「一には自分のため、二には他の人のためにこの雑誌を出すことにした」と言っています。これが菊池寛一流の考え方で、自分のために始めたことが、そのまま人のためにもなる。非常に健全で、頑健な思考様式です。
菊池寛はエピソードが豊富な人なので、それを通して彼の人となりを考えてみようと思います。菊池寛の友人に、同時代の小説家の久米正雄がいます。彼は夏目漱石のお嬢さんに恋心を持っていましたが、失恋してしまいます。その時菊池寛は「同情しないことはないけれども、失恋なんか一時の感情でそんなに大したものではない。今必要なのは、同情よりも善後策だ。一番大切なのは金が儲かること」。要するに原稿料だということで、菊池寛は時事新報というところに話をつけて、久米正雄に連載小説を書かせます。新聞連載小説「蛍草」は当時注目を集めて、久米正雄に大きな収入をもたらしました。その結果、久米は案の定失恋から立ち直ったという話です。
僕は、このエピソードには菊池寛の美点が凝縮していると思います。まず第1に、現実主義であること。第2に、当事者にとっていちばん有効で具体的な解決策を示しているということ。第3に、その現実的な解決策のために自ら動いているということ。いずれも社会企業家にとって重要な資質です。
菊池が人気作家になってからは、才能はあるけれどもなかなか作品を発表する場を持てない文学青年が、周りに集まってきます。お金持ちになっていた菊池は、彼らに食事をおごったり生活費をあげたりしています。小遣いや生活費を無心されると、懐の中からくしゃくしゃになったお札を無造作につかみ出して、「はい」と与える。もらった側が後でしわを伸ばして勘定すると、ちょうど多くも少なくもない額になっている。こういうところも菊池寛のイイところで、金を受け取る相手に心理的な負担を与えない。と同時に、見栄とかその場の勢いで、金を余計に出すこともない。
菊池寛が金を出す基準は3つでした。第1に面識がない人は断る。第2に、生活費以外のお金は貸さない。第3に、貸した以上返してもらうことは考えない。実際、返してくれた人はいなかったそうです。とても親切な人なのですが、義務としてやっているのではない。自分の慰めとしてやっている。無理がなくてイイ。
『文藝春秋』は制作費200円でスタートしています。これは菊池寛がポケットマネーで全額負担しています。個人雑誌ですから、自分が考えていることを一切の制約なしに言えるメディアであり、自分の周りにいる若い人たちが発言できる場でもある。菊池寛自身、無名作家時代が長かったので、こういう発表の場を求める文学志願者の思いはよく分かっていた。
しかし『文藝春秋』は、文芸誌ではなかった。これが重要なポイントです。最初から、言いたいことを主張する論壇という位置付けでした。それが『小説新潮』のような文芸誌と違うところです。今は文藝春秋社にも『文學界』という文芸誌がありますが、『文藝春秋』は、はじめから論壇だった。創刊号である1月号は3,000部で、4月号でもう1万部に達しています。面白いのは、毎号『文藝春秋』の誌面で損益計算を発表していることです。経営の実態を公開することで、読者やステークホルダーの信頼を得る。これも、経営者としてすぐれた近代性を持っていたことが良く分かるエピソードです。
商売についても、非常にフェアネスというものを大切にしていて、有名無名を問わず、寄稿者には原稿料をきちんと払う。当時から「やりがい搾取」は横行していました。名前を売りたい無名作家に対しては、しばしば原稿料を払わないことがあったようです。しかし菊池寛は、そういう無名作家に対してもきちんと同じ条件で原稿料を支払う。資本主義社会のまっとうなルールに則って行動しないと、結局持続しない。こういう世の中の原理原則を、菊池はきちんと理解していました。
商売人としても現実的でした。広告を打たなかった時と打った時、それを月ごとに比較して、効果を確かめながら部数を調整する。自分で広告のコピーを考える。どんな言葉がターゲットに刺さるかをしっかりチェックする。今でいうABテストみたいなことを、その頃からやっています。そうした中で出てきた彼の名コピーが、「六分の慰楽、四分の学芸」。「慰めとしての楽しさ」と「教養としての知識」がバランスよく含まれた雑誌、というポジショニングを的確に表現しています。
彼は雑誌や記事を作るためのフォーマットもいろいろと発案しました。「座談会」という記事の形式は、菊池寛が思い付いたものです。僕は『文藝春秋』の座談会にときどき出ていまして、ここ1~2年は間欠的に太平洋戦争の大失敗について、歴史家や政治学者、経営者の方々と議論する機会を得ています。議論そのものを記事にすることで、幅広い読者を巻き込む論壇を作る――彼のアイデアは今も生きています。
第4回は、11月24日公開予定です。

楠木建(くすのきけん)
経営学者。一橋大学特任教授(PDS寄付講座およびシグマクシス寄付講座)。専攻は競争戦略。企業が持続的な競争優位を構築する論理について研究している。著書として『楠木建の頭の中 戦略と経営についての論考』(2024年、日本経済新聞出版)、『絶対悲観主義』(2022、講談社)、『逆・タイムマシン経営論』(2020、日経BP、杉浦泰との共著)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。
楠木特任教授からのお知らせ
思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
この10年ほどX(旧・Twitter)を使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。
・140字しか書けない
・オープンな場なので、仕事や生活経験の具体的な中身については書きにくい
・考えごとや主張をツイートすると、不特定多数の人から筋違いの攻撃を受ける
「楠木建の頭の中」は僕のXの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
不定期ですが、メンバーの方々と直接話をする機会も持ちたいと思います。
ビジネスや経営に限らず、人間の世の中について考えることに興味関心をお持ちの方々のご参加をお待ちしております。DMM社のプラットフォーム(月額500円)を使っています。
お申し込みはこちらまで
https://lounge.dmm.com/detail/2069/
ご参加をお待ちしております。
シリーズ紹介
楠木建の「EFOビジネスレビュー」
一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。
山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」
山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。
協創の森から
社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。
新たな企業経営のかたち
パーパス、CSV、ESG、カスタマーサクセス、M&A、ブロックチェーン、アジャイルなど、経営戦略のキーワードをテーマに取り上げ、第一人者に話を聞く。
Key Leader's Voice
各界のビジネスリーダーに未来を創造する戦略を聞く。
経営戦略としての「働き方改革」
今後企業が持続的に成長していくために経営戦略として取り組むべき「働き方改革」。その本質に迫る。
ニューリーダーが開拓する新しい未来
新たな価値創造に挑む気鋭のニューリーダーに、その原動力と開拓する新しい未来を聞く。
日本発の経営戦略「J-CSV」の可能性
日本的経営の良さを活かしながら利益を生み出す「J-CSV」。その先進的な取り組みに迫る。
ベンチマーク・ニッポン
日本を元気にするイノベーターの、ビジョンと取り組みに迫る。
デジタル時代のマーケティング戦略
マーケティングにおける「デジタルシフト」を、いかに進めるべきか、第一人者の声や企業事例を紹介する。
私の仕事術
私たちの仕事や働き方の発想を変える、膨らませるヒントに満ちた偉才たちの仕事術を学ぶ。
EFO Salon
さまざまな分野で活躍する方からビジネスや生活における新しい気づきや価値を見出すための話を聞く。
禅のこころ
全生庵七世 平井正修住職に、こころを調え、自己と向き合う『禅のこころ』について話を聞く。
寄稿
八尋俊英の「創造者たち」~次世代ビジネスへの視点~
新世代のイノベーターをゲストに社会課題の解決策や新たな社会価値のつくり方を探る。



