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一橋大学特任教授(PDS寄付講座およびシグマクシス寄付講座)楠木建氏
楠木建教授がリスペクトしている、作家で起業家の菊池寛。その菊池寛について、本誌で対談いただいたフランス文学者の鹿島茂先生が書かれた『菊池寛 アンド カンパニー』は、教授の心をしっかりととらえた。この評伝を通して見えてくる人間菊池寛が、今月のテーマだ。第2回は「生活第一、芸術第二」という菊池寛の名フレーズを掘り下げる。

「第1回:『文藝春秋』という論壇」はこちら>
「第2回:生活第一、芸術第二」

※ 本記事は、2025年9月1日時点で書かれた内容となっています。

菊池寛の考え方とか行動様式は、彼の「生活第一、芸術第二」という言葉に集約されています。僕はこのフレーズが大好きで、人生全般に渡って大きな影響を受けました。

「生活第一、芸術第二」には2つの意味がありまして、1つは文字どおり、「生活第一」というプラグマティズム(実用主義)です。菊池寛は文学者ですが、あくまでも生活が成立していなければ文芸活動はあり得ないという現実主義者でした。作家にとって表現の自由はもちろん重要です。しかし、経済的に自立していないと結局は金のために魂を売ることになります。自由な表現を確立するためには、金のことをあらかじめ考えておく必要がある――これが菊池寛の考え方で、まったくその通りだと思います。

僕は研究の修行として、5年間の大学院生生活を送りました。20代後半まで無給が続くので、わりと貧乏でした。経済的自立の大切さをいやというほど思い知らされていた時にこの言葉と出合いましたから、「生活第一、芸術第二」にはなおさら強いインパクトがありました。仕事として世の中と折り合いがつく仕事にならなければ、結局は研究も続けられなくなる。自分で考えたり、書いたりする仕事は大好きでしたが、大学院を終えた時点で研究機関に採用されなければ、さっさと見切りをつけて次へ行くつもりでした。

話を菊池寛に戻します。この人は非常に苦労した人で、文壇に出るのが遅かった。ところが、デビューしてからはヒット作を連発します。『恩讐の彼方に』『忠直卿行状記』『父帰る』といった文芸作品も有名ですが、大ヒットしたのはエンターテインメント小説の『真珠夫人』。これは最近になってもまだテレビドラマになっています。それ以降は大衆小説路線で一躍人気作家になり、菊池寛は大いに稼ぐようになります。清貧に甘んじて立派な創作に専念しようという気は少しもない。まずは生活の安定のために金になる仕事をやる、これが初期の菊池寛の仕事姿勢です。だからといって金の亡者になるわけではない。あくまでも生活の基盤が大切だということであって、金は目的ではない――この辺の彼の姿勢は実にスカッと爽快です。

『文藝春秋』を創刊した時、商売熱心な菊地は一生懸命に『文藝春秋』を売ろうとします。これがプロレタリア文学者から批判されます。「『文藝春秋』はブルジョア的な雑誌で、けしからん」――菊池寛は「これをブルジョア的雑誌だというのなら、あなたたちはどういう雑誌に執筆しようというのか」と大反論を繰り広げます。多くの読者が読んでくれる雑誌で、資本家の経営でないものなんてひとつもない。少しも妥協しないで現代に対応する方法はない。プロレタリアとかブルジョアなんていうのはケチくさい区別で、文芸を愛するのであればきちんと折り合いをつけて、多くの読者を獲得する作品を書かなくては駄目だろう。まったくその通り。こういう現実主義は実に健全だと思います。

「生活第一、芸術第二」にはもうひとつの重要な意味があります。芸術は人々の精神生活の向上に資するものでなければならないという信念です。彼のデビュー当初の小説作品『恩讐の彼方に』や『忠直卿行状記』といった作品は、まぎれもない傑作です。同時代の芥川龍之介や、後輩の川端康成の文芸作品も素晴らしいのですが、菊池寛の文芸作品はとにかく面白いのです。なぜかというと、明確なテーマがあるから。言わんとすることがはっきりしている。

純粋な芸術の価値というものは確かにある。しかし、文学は同時に普通の人々に訴える内容的な価値を持たなければならない、というのが彼の文学者としてのポリシーでした。内容的な価値は生活に資するものでなければいけない。人生にとって有意義なものでなければならない。大げさに言えば「文芸は経国の大事である」――これが「生活第一、芸術第二」というコンセプトなのです。

僕にしても、この2つの意味での「生活第一、芸術第二」を金科玉条にしています。自分の競争戦略や経営に対する考えは、商売をしている人々に役立つものでなくてはならない。もっと儲けてもらいたい。儲けてもらえれば法人所得税も増えて、社会的な目的に使える富も創出され、雇用も作られる。経国の大事とまでは言いませんが、僕も「生活第一、研究第二」というコンセプトでこれまで仕事をしてきました。明らかに菊池寛の影響です。

第3回は、11月17日公開予定です。

画像: 菊池寛―その2
生活第一、芸術第二

楠木建(くすのきけん)
経営学者。一橋大学特任教授(PDS寄付講座およびシグマクシス寄付講座)。専攻は競争戦略。企業が持続的な競争優位を構築する論理について研究している。著書として『楠木建の頭の中 戦略と経営についての論考』(2024年、日本経済新聞出版)、『絶対悲観主義』(2022、講談社)、『逆・タイムマシン経営論』(2020、日経BP、杉浦泰との共著)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。

楠木特任教授からのお知らせ

思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
この10年ほどX(旧・Twitter)を使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。

・140字しか書けない
・オープンな場なので、仕事や生活経験の具体的な中身については書きにくい
・考えごとや主張をツイートすると、不特定多数の人から筋違いの攻撃を受ける

「楠木建の頭の中」は僕のXの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
不定期ですが、メンバーの方々と直接話をする機会も持ちたいと思います。
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