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株式会社 日立製作所 執行役常務 細矢良智/テニスプレーヤー 伊達公子氏
2017年の引退まで、世界に挑み続けたテニスプレーヤー伊達公子氏。2024年4月、日立製作所クラウドサービスプラットフォームビジネスユニットCEOに就任した細矢良智。対談の第2回は、伊達公子氏のテニスの歴史を細矢が掘り下げる。

「第1回:テニスのない人生はない」はこちら>
「第2回:伊達公子のテニスジャーニー」
「第3回:2008年度、日立の転機」はこちら>
「第4回:世界に挑む人財の条件」はこちら>
「第5回:フェイルファスト」はこちら>

一番になれなかった種目

細矢
伊達さんは引退されてもテニスと関わり続けておられますが、テニスとの出会いは何だったのでしょうか?

伊達
私は子どもの頃から運動神経だけは自信がありました。かけっこをしてもいつも一番でしたし、跳び箱を跳んでも6段ぐらいはすぐに跳べるようになったし、縄跳びをやっても二重跳びはすぐできたし。逆上がりもすぐにできた。リレーのアンカーは、自分のためのポジションだと思っていました。どんなに離されてバトンを受け取っても、先頭でゴールするのは絶対に私だ。そういう子どもでしたから、体を動かすことに関しては「できない」ということがあまりよく分かりませんでした。

画像1: 一番になれなかった種目

例えばバレーボールだと、レシーブをしてトスを上げてアタックするためには3人が協力しないと成立しません。私は、なぜ一人で3回打ってはいけないのかずっと疑問でした。全部の役割を自分でやりたくなってしまう、そんな性格なので、団体競技は向いていないという自覚は小さい頃からありました。

テニスとの出会いは小学生になったばかりの頃で、両親が通っていた会員制のテニスクラブに付いて行った時に、大人の人が相手をしてくれたのです。こちらははじめてで緊張して必死になって打ち返すボールを、大人が合わせてラリーにしてくれた。最初は数回しか続かなかったラリーが10回くらい続いていくと、もう打つ時の緊張感がどんどんと高まっていく。その感覚が、テニスにハマる最初のきっかけだったと思います。ラリーを続けることが、未知の世界に踏み込むようなドキドキ感を教えてくれました。それが個人競技だということも私には魅力でしたし、勝ち負けがはっきりしていることもテニスに魅かれる要素でした。

細矢
伊達さんが負けず嫌いだという話を拝見したことがありますが、それは子どもの頃からなのですか。

伊達
はい。とにかく負けず嫌いで、運動は一番が当たり前の子どもでしたが、テニスに関してはずっと一番になれませんでした。小学校時代は、京都、関西の大会でいつも3位。全国へ行くとベスト16とか8が最高で、負けるたびに悔しくて泣いてということを繰り返していました。はじめて優勝できたのが高校1年生の新人戦で、それまではずっと、悔しい悔しい悔しいって、そればかりでした。

細矢
それは、高校のコーチが伊達さんの才能を開花させてくれたということでしょうか。

伊達
もちろんコーチや部活の先生に成長させていただきました。それと高校に入って環境が大きく変わったことも、要因のひとつだと思います。中学校は民間のクラブでテニスをやっていたのですが、そこは名門クラブでしたから私より強い人がたくさんいました。このクラブでトップになるなんて思いもしない、そんな劣等生でした。

しかし高校に入ってみると、生活も練習環境も一変しました。寮の窓を開ければテニスコートが見えて、学校までは5分で行ける。そんなある意味隔絶した環境で、授業が終わればすぐ練習前に6キロ走って、毎日練習漬けです。雨が降らないと休みはない、テニスに打ち込むしかない環境に入ったことは、それまで悔し泣きばかりだった私のテニスを変えてくれました。

画像2: 一番になれなかった種目

細矢
私たちが高校や大学の時に合宿でやっていたような練習や生活を、毎日ずっとやられていた感じですね。

伊達
本当にそうで、高校3年間がずっと合宿のような毎日でした。

孤独なプロ生活

細矢
高校3年生のインターハイでシングルス、ダブルス、団体の3冠をとられて、卒業と同時にプロとなられたわけですが、それはいつ決められましたか。

伊達
高3の春には、もうプロになることを決めていました。右も左も分からない、それこそ英語もまったくできない状態で、とにかくプロになるという意欲だけで世界を回りはじめて、1年過ぎたところでようやく現実が分かってきました。プロテニスの選手というのは、試合をやっていればいいだけではなく、孤独感とも戦わなければならないことに気づかされました。

私のプロとしてのファーストキャリアは1990年代でしたが、まだ世界で活躍する日本人アスリートはわずかでした。ゴルフの青木功さんや岡本綾子さん、もう少しするとメジャーリーグで野茂英雄さんが活躍されますが、20代の私はもう日本と切り離されているような孤独感に襲われました。

当時はインターネットが今のように当たり前のツールではありませんでしたから、日本から来た人が持ってきてくれる日本の新聞が、もううれしくてうれしくて。家庭用のFAXが普及してからは、日本の新聞記事の切り抜きを送ってもらったりしていました。とにかく孤独で、日本の活字に飢えていたのです。今の人には、いつの時代の話ですかという感じでしょうが、90年代の私はそんな環境で世界を回っていました。

細矢
当時はどういうスタッフ編成で転戦されていたのですか。

伊達
あの頃は選手にコーチ、少し金銭的に余裕がある人はトレーナーが付いて、3人体制がマックスという時代でした。その後、マルチナ・ナブラチロワ選手が、栄養士を付けてツアーを回るということを始めた先駆けだったかと思います。

細矢
それでは、伊達さんの食事や栄養管理は、ご自身でされていたのですね。

伊達
テニス選手の場合はホテルを転々とする生活で、食事も外で食べるので、外食でいかにバランス良く栄養をとるかを常に考えていました。他に管理する人がいませんから、自己管理が難しい選手は例えば甘いモノをとり過ぎてパフォーマンスを落とすこともありました。

細矢
2008年のセカンドキャリアの時も、やはり3人体制のままですか。

伊達
時代の流れとともにテニス界のスタンダードに変化が見られました。スタッフの体制は増えました。例えばトレーナーでも、本当に負荷をかけて強化するストレングスのトレーナーと、コンディショニングのトレーナーに分かれたり、ケアをする場合も理学療法士のアプローチの人と鍼(はり)も打てるマッサージの人といったように、専門性が細かく分かれるようになったことが大きな変化です。テニス自体がパワーテニス、スピードテニスに変わってきたことによって、トレーニングも科学的になってきました。

それとテニスがソウルオリンピックで正式種目になってから、ドーピングも厳しくなってきていて、口から摂取するものに最大の気を使いながら生活しなければならないので、セカンドキャリアの時にはそういうケアも必要になってきました。

細矢
より多くの専門家がチームとしてサポートするにはお金がかかるわけですが、そういった変化は賞金が多くなったから起きたことなのか、あるいはスポンサーが多くなったからなのか。どっちなのでしょう。

伊達
どっちが先ですかね。確かに賞金は高くなりましたが、スポンサーが付いたから賞金が上がったとも言えますし、グローバルなスポーツとしてテニスの価値が認められたことでスポンサーが付きやすくなったこともあるかもしれないです。そこにはびっくりするほど高額になった世界中に配信している放映権というのも、大きく影響していると思います。(第2回へつづく

「第2回: 2008年度、日立の転機」はこちら>

画像1: 世界を驚かす次世代の育成
【第2回】 伊達公子のテニスジャーニー

伊達 公子(Kimiko Date)
1970年9月28日、京都府生まれ。6歳からテニスを始める。兵庫県の園田学園高校3年時のインターハイでシングルス・ダブルス・団体の3冠を達成。1989年、高校卒業と同時にプロテニスプレーヤーに転向した。1990年、全豪でグランドスラム初のベスト16入り。1993年には全米オープンベスト8に進出。1994年のNSWオープン(シドニー)では海外ツアー初優勝後、日本人選手として初めてWTAランキングトップ10入り(9位)を果たす。1996年11月、WTAランキング8位のまま引退した。2008年4月プロテニスプレーヤーとして「新たなる挑戦」を宣言し、37歳で11年半ぶりの現役に復帰。2017年9月12日のジャパンウイメンズオープンを最後に2度目の引退をした。その後、2018年に早稲田大学大学院スポーツ科学研究科に入学し、1年間の修士課程を修了。テニス解説やジュニア育成、テニスコート&スポーツスタジオのプロデュースなど、多方面で活躍中。

画像2: 世界を驚かす次世代の育成
【第2回】 伊達公子のテニスジャーニー

細矢 良智(Yoshinori Hosoya)
1988年4月 日立製作所入社。2013年、情報・通信システム社公共システム事業部公共ソリューション第二本部本部長。2014年10月、情報・通信システム社システムソリューション事業本部公共システム事業部事業主管。2017年、公共社会ビジネスユニット公共システム事業部長。2021年、社会ビジネスユニットCOO。2023年、執行役常務 クラウドサービスプラットフォームビジネスユニットCOO。2024年、執行役常務 クラウドサービスプラットフォームビジネスユニットCEO。

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