「第1回:超長期の視点で課題を探索」はこちら>
「第2回:未来の「不安」からの脱出」
「第3回:「政策提言AI」が示唆する未来」はこちら>
「第4回:人間社会とサイバーとの協同システム」はこちら>
「第5回:混生社会実現へのアプローチ」はこちら>
社会課題の根源にあるのは人々の「不安」
――日立京大ラボでは、2050年に私たちの生活を脅かす可能性のある危機を「Crisis 5.0」に示し、その危機から脱出するヒントとして、書籍『BEYOND SMART LIFE 好奇心が駆動する社会』(日本経済新聞出版)を刊行しました。どういった経緯でまとめられたのでしょうか?
水野
われわれは、2050年の社会課題の根源を探索し、その時の大学や企業のあるべき姿を考えることを目的にしています。ただ、2050年の社会がどうなっていて、そこにどんな社会課題があるのかをパッと見通せる人などいませんよね。幸い、京都大学は総合大学ですし、それぞれの専門分野の視座を通してなら、それなりに確度の高い回答が得られるだろうと考えました。
そこでまず、そもそも「社会とは何か」「社会課題はなぜ、どのようにして生まれるのか」という問いからスタートしました。その前段部分を小冊子およびウェブ記事としてまとめたものが「Crisis 5.0」です。その後さらに、元CSI(現・デザインセンタ)のメンバーが、京都大学のさまざまな分野の先生方にヒアリングを重ね、将来に向けて大切にしたいことの提言としてまとめたものが書籍『BEYOND SMART LIFE』になります。
嶺
例えば、京大元総長の山極壽一先生は、人々が集まって価値観を共有する「コミュニティ」に対して、「『社会』とは非常にバーチャルなもので、世相が抱える時代の気分、環境、枠組みによって変化する」ものであると定義しています(書籍『BEYOND SMART LIFE』p13-14)。また、「馬、サル、ゴリラなどが群れをつくり、自身をその中に位置づけているのと同様、ヒトも言語を有する前から社会をつくってきた」と言う。それはなぜか。「『死への不安』と『他者に対する不安』に対抗し、それを克服するためである。そして、ほかの動物の群れと人間社会の大きな違いは、定住と農耕によって不可逆的に生じた、『未来を信じる』という精神性による」。つまり、「作物を育てるという人類の未来への投資行為は、『未来を信じる』という精神性なくしては実現しない」というわけです(「Crisis 5.0」のインタビューより)。
こうした議論を経るなかで、われわれは、社会課題はすべて、人の持つ根源的な「不安」につながっていることを見出しました。この発見を深掘りするなかで、これから人類史レベルで遭遇するであろう危機を直視するためにまとめたのが「Crisis 5.0」なのです。
2050年までに立ち現れる「トリレンマ」
――このなかで、三つの危機を挙げていますね。
嶺
「①信じるものがなくなる」「②頼るものがなくなる」「③やることがなくなる」という、相互に連関したトリレンマ(三重苦)です。
①の「信じるものがなくなる」は「よりよい明日が来る」ことを信じられなくなる、ということ。人間は何かをなそうとするとき、その行動原理の根底には、先ほどの山極先生の言葉にある通り、未来への信頼があります。農耕の「未来への投資」としての側面はその後、資本主義へと引き継がれ、生産と消費を投資によって継続させ、発展し続ける現在へと導きました。しかしいまや継続的な成長と持続性の矛盾のなかで、未来を信じることが困難になってきています。
②の「頼るものがなくなる」は、本来、国民の生命と財産を守る役割をしている国家の自立性が不透明感を増し、信頼が揺らいでいることを示しています。多くのコミュニティが失われ、人間関係が希薄になり、また格差が拡大する日本において、技術の発展によって低コストの社会サービスをいかに実現していくのか、真剣に考えていく必要があります。
そして③の「やることがなくなる」は、AI・ロボットによる労働の代替で何が起こるのか――。人間というのは、他者から承認されることで自身の存在意義を確認したいという思いが根底にあります。労働がなくなったとしても、人類が自尊心やアイデンティティを保ちながら生きていけるよう、自己満足や幸福感(ユーダイモニア※ )を感じるような世界をいかに築いていくのか、考えていかなければなりません。
そして、このトリレンマからの脱出のヒントを探るために、次のステップとして、さまざまな専門性を持つ先生方との対話を深めていくことになりました。
※ 古代ギリシアで唱えられ、近年、心理学の分野で議論されている幸福感のこと。「より良く生きる」ことを意味し、善なることへの動機づけに根ざす「ユーダイモニア(Eudaimonia)」に対して、「ヘドニア(Hedonia)」は一瞬の快楽的な幸福を意味する。
好奇心を持って課題を探し、価値を提案する
嶺
『BEYOND SMART LIFE』のなかにズバリ答えが書いてあるわけではないのですが、意図したのは、「好奇心を持って、主体的に社会を問う心」を養うことの大切さです。その心があれば、市民が社会システムの構築や政策決定に主体的に関わることができるし、意思決定のプロセスに参加することで責任を負うことも厭わなくなる。つまり、ありたき未来のために市民自らが行動することが不可欠なのです。
――対話を通じて、お二方の意識も変化したのでしょうか。
嶺
そうですね。私の場合は、京都に来た当初は、課題を探すことに加え、「2050年」という時間軸に面食らったことを覚えています。東京にいたときは、事業部の製品計画に合わせて、ただ課題を解いていればよかったですからね。いまは、課題は与えられるものではなく、自ら探し、対話を通して深めていくものだと思っています。
水野
私のもともとの専門である半導体の世界であれば、ムーアの法則に従ってロードマップを描き、省エネや微細化など、明確な目標に向かって進んでいけばよかった。それが、半導体事業からの撤退をきっかけに、いきなりここへ来たことで、私自身にも大きな意識の変化がありました。ただ、当初は「社会課題解決」といった言葉は新鮮でしたが、いまでは顧客課題解決、SDGsといった言葉も溢れていますし、課題の発見こそが価値の源泉という考え方が浸透してきています。企業の研究開発部門においても、研究テーマを自ら見つけることが当たり前に求められる時代になりました。
そうしたなか、先生方が一緒に課題を見つけ、新しい価値を提案してくださるのは、非常にありがたい。ですから、われわれは、早い段階から課題探索を始めてきた利点を生かして、さらに先回りして、まだ誰も気づいていないような本質的な課題を見つけ、なんらかの指針となるようなメッセージを発信していかなければならないと思っています。(第3回へつづく)
(取材・文=田井中麻都佳/写真=秋山由樹)
水野弘之(みずの・ひろゆき)
日立製作所 研究開発グループ Web3コンピューティングプロジェクトリーダ 兼 基礎研究センタ 主管研究長 兼 日立京大ラボ長。1993年、日立製作所に入社。マイクロプロセッサなどの研究開発に従事。2002年から2003年、米国Stanford大客員研究員。2011年、新世代コンピューティングプロジェクトを開始し、CMOSアニーリングの研究開発と並行し、人文社会学の観点を取り入れた社会システムの研究開発を開始。2013年、戦略企画本部・経営企画室 部長、2016年、研究開発グループ・情報通信イノベーションセンタ長などを経て、2018年より現職。工学博士。IEEEフェロー。
嶺竜治(みね・りゅうじ)
日立製作所 研究開発グループ 基礎研究センタ 主任研究員 兼 日立京大ラボ ラボ長代行、京都大学 オープンイノベーション機構 特定准教授。1995年、日立製作所に入社。中央研究所にて、郵便区分機やカメラ付携帯機器向け文字認識、帳票認識システム、教育支援システムなどの研究開発に従事。2016年より現職。ヒトが人であるがゆえに生じる社会課題の探究をめざし、新たな社会システムの研究を進めている。
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