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仮想空間の発展やAIの高度化、SNSの普及に伴い、虚構と現実、嘘とまことの境界が曖昧になりつつある今日、真実の重みがかつてないほど増している。ノンフィクションライターとして長年にわたって「真実」を見つめ、社会に伝えてきた最相葉月氏は、2023年1月に最新著『証し 日本のキリスト者』(KADOKAWA)を刊行した。構想10年、取材6年を費やした大作を執筆した理由の一つとして、こうした時代だからこそ、人の話をしっかり聴き、書きたかったと語る最相氏。山口周氏との対話を通じ、仕事において自身が大切にしてきた思いを明らかにしていく。

「第1回:一人ひとりの『証し』を通じて宗教のリアルを書く」
「第2回:『人生案内』名回答の秘訣とは」はこちら>
「第3回:優れたコンサルタントと共通するモチベーション」はこちら>
「第4回:『自分は何者でもない』から始まる仕事論」はこちら>
「第5回:多くの人生に触れることで養われる美意識」はこちら>

キリスト教との接点

山口
お目にかかれて光栄です。

最相
こちらこそ。だいぶ以前からお声がけいただいていたのに、失礼いたしました。『証し 日本のキリスト者』を出すまでは執筆に集中したかったものですから。

山口
わかります。私が最相さんの著作で最初に読んだのは『絶対音感』(新潮文庫)でした。ちょうど社会人になったぐらいの頃に上梓されて、同僚の間でも話題でしたね。私自身、音楽をずっとやっていたので、絶対音感に対してはいろいろな思いがありまして。

最相
音楽は小さい頃から?

山口
はい、ピアノと作曲を。それで高校3年生のとき、大学付属だったのでそのまま進学するか、それとも東京藝大の作曲科を受験するか迷って、最終的には音楽の道に進むことを諦めました。そのきっかけになったのがソルフェージュの授業で行われる聴音、耳で聴いた音を楽譜に書くという訓練です。弦楽四重奏の楽譜を書き起こしたのですが、全音だったか二度だったか、全部ずれていた。今でもその瞬間のことは忘れられないですね。もう本当にがっくりきて、藝大は諦めたんです。なので、あの中に書かれていた絶対音感にまつわる悲喜こもごもは身につまされました。

最相
そうだったのですね。

山口
その後も『青いバラ』(岩波現代文庫)、『セラピスト』(新潮文庫)や、最新作の『証し 日本のキリスト者』と、すばらしいノンフィクションを世に送り出されていますよね。

最相
『証し 日本のキリスト者』には書評を書いてくださって(PRESIDENT 2023年 4/14号)、ありがとうございました。

山口
いえ。私は以前からキリスト教に関心があって聖書も長く読んできましたし、キリスト教関連の本にもそれなりに目を通してきましたけれど、『証し 日本のキリスト者』は類例がないように思います。キリスト教の信者、司祭や牧師、135人へのインタビューで構成されていて、最相さんによる解説めいたことは書かれていません。それぞれの信仰に至った過程や人生における信仰の意味などが、1,000ページ以上にわたって独白とルポルタージュの形でひたすら語られている。一人ひとりの言葉を積み上げることで、キリスト教がどのように受容されているのか、その本質に触れることができます。取材も2016年から始められたとのことで、相当な労力やエネルギーを要したことは察するに余りあります。何が最相さんを動かしたのでしょうか。

最相
すでにほかのメディアでお話ししたことと同じ答えになってしまいますけれど、心の癒やしや救いといったことを扱った『セラピスト』を書いているとき、宗教、特にキリスト教とのニアミスがたびたびありました。そもそも、セラピストが行う心理カウンセリングが戦後の日本にもたらされたルートの一つが宣教師と関係があります。宣教師の息子で、のちに茨城キリスト教大学の学長となったローガン・J・ファックスが、戦時中にシカゴ大学で学んだ「来談者中心療法」を戦後、日本で広めたのです。この療法はアメリカの臨床心理学者カール・ロジャースが提唱したもので、心理カウンセリングの基本的なアプローチ法として位置づけられています。

ロジャースは敬虔なクリスチャンの家庭に育ちましたが、自身は宗教から離れ、非行少年の心のケアなどに取り組む中で、人には自分自身で回復する力があることを知りました。その力に注目したとき、相談者にただ寄り添い、信じ、その人が自分自身で立ち直っていくことを促す来談者中心療法の有効性を確信したのですね。その療法は、キリスト教から宗教色を抜いて、心理科学として構築し直したもの、という見方もできます。そんな関係もあって、キリスト教を知りたい、もう少し調べたいと思ったことがきっかけの一つです。

もう一つは、長年交流があって身元保証人も引き受けている中国朝鮮族の女性がクリスチャンであることです。彼女のことは『ナグネ――中国朝鮮族の友と日本』(岩波新書)に書きましたけれど、中国では非合法組織とされている「地下教会」の信者として、弾圧の中で信教を守り続けてきた人です。彼女はキリスト教を絶対視しているところがあって、それはキリスト教自体にそういう面があるのか、それとも信仰を弾圧されてきたせいなのか知りたいと思ったんです。

画像: キリスト教との接点

「やらなきゃいけない」という感覚

山口
最相さんのノンフィクションはいつもご自身の色をあまり出されていませんが、『証し 日本のキリスト者』は特に、本に溶け込んでいるように感じられました。

最相
ノンフィクションを談話、証言だけで構築するという手法自体は新しいことではありませんが、今回その手法を選んだのは、キリスト教の信仰とは何か、神を信じるとはどういうことか、生の声を書きたかったからです。潜伏キリシタンのような歴史的な話ではなく、「今はどうなのか」を自分自身が知りたかったこともあります。

SNS全盛の世の中で、みんなが好きなことをネット上でつぶやいて、一部が切り取られて拡散され、炎上し、ということが繰り返されていますよね。コミュニケーションではなく自己主張だけが飛び交っているというひどい時代だからこそ、人の話をしっかり聴きたい、その中にある真実を書きたいという思いもありました。

山口
いくつもの理由が重なったのですね。

最相
それによって自分自身が追い込まれたと言いますか、もう「やらなきゃいけない」というぎりぎりの感覚でした。だから何年も取材に歩くことができたんだと思います。

山口
書評にも書いたように、宗教の話というのは抽象的な解説になりがちで、そうなると全体像は把握できても肌理(きめ)が失われ、リアリティが薄れてしまうんですよね。

宗教は、誰にとっても同じものではないと思います。ミヒャエル・エンデは著書の『鏡のなかの鏡』(岩波現代文庫)について語った対談で 、本と読者の間には合わせ鏡に似たプロセスが生じると言っています。「同じ本をふたりの人間が読むとすると、そこで読まれるものはけっして同じではない。それぞれが本のなかに自分を連れ込むから」と。聖書も同じで、読んだその人がどう読んだかという中にしか真実はない、抽象化が不可能なテキストだと思います。その「一人ひとりの宗教のリアル」をまとめようとしたら、こうした形にならざるを得ないのだろうと感じました。(第2回へつづく)

「第2回:『人生案内』名回答の秘訣とは」はこちら>

画像1: ノンフィクションの原点は「知ってほしい」という思い
人の話を真摯に聴き、伝えることで磨かれるコモンセンス
【その1】一人ひとりの「証し」を通じて宗教のリアルを書く

最相 葉月(さいしょう はづき)
1963年東京都生まれ、神戸育ち。関西学院大学法学部卒業。大手広告会社、PR誌編集事務所などを経てノンフィクションライターとして科学技術と人間の関係性、スポーツ、精神医療などをテーマに執筆活動を展開。著書に『絶対音感』(新潮文庫)(小学館ノンフィクション大賞)、『青いバラ』(岩波現代文庫)、『東京大学応援部物語』(新潮文庫)、『ビヨンド・エジソン』(ポプラ文庫)、『最相葉月 仕事の手帳』(日本経済新聞出版)、『ナグネ――中国朝鮮族の友と日本』(岩波新書)、『辛口サイショーの人生案内DX』(ミシマ社)など多数。『星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社)にて第34回大佛次郎賞、第29回講談社ノンフィクション賞、第28回日本SF大賞、第61回日本推理作家協会賞(評論その他の部門)、第39回星雲賞(ノンフィクション部門)を受賞。近著に『証し 日本のキリスト者』(KADOKAWA)。

画像2: ノンフィクションの原点は「知ってほしい」という思い
人の話を真摯に聴き、伝えることで磨かれるコモンセンス
【その1】一人ひとりの「証し」を通じて宗教のリアルを書く

山口 周(やまぐち しゅう)
1970年東京都生まれ。電通、ボストンコンサルティンググループなどで戦略策定、文化政策立案、組織開発等に従事した後、独立。
著書に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(光文社)、『武器になる哲学』(KADOKAWA)、『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社)、『ビジネスの未来 エコノミーにヒューマニティを取り戻す』(プレジデント社)他多数。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院美学美術史学専攻修了。

シリーズ紹介

楠木建の「EFOビジネスレビュー」

一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。

山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」

山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。

協創の森から

社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。

新たな企業経営のかたち

パーパス、CSV、ESG、カスタマーサクセス、M&A、ブロックチェーン、アジャイルなど、経営戦略のキーワードをテーマに取り上げ、第一人者に話を聞く。

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各界のビジネスリーダーに未来を創造する戦略を聞く。

経営戦略としての「働き方改革」

今後企業が持続的に成長していくために経営戦略として取り組むべき「働き方改革」。その本質に迫る。

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新たな価値創造に挑む気鋭のニューリーダーに、その原動力と開拓する新しい未来を聞く。

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日本を元気にするイノベーターの、ビジョンと取り組みに迫る。

デジタル時代のマーケティング戦略

マーケティングにおける「デジタルシフト」を、いかに進めるべきか、第一人者の声や企業事例を紹介する。

私の仕事術

私たちの仕事や働き方の発想を変える、膨らませるヒントに満ちた偉才たちの仕事術を学ぶ。

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さまざまな分野で活躍する方からビジネスや生活における新しい気づきや価値を見出すための話を聞く。

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全生庵七世 平井正修住職に、こころを調え、自己と向き合う『禅のこころ』について話を聞く。

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明治期に始まる産業振興と文明開化、日本社会の近代化に多大な影響を及ぼした岩倉使節団。産業史的な観点から、いま一度この偉業を見つめ直す。

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新世代のイノベーターをゲストに社会課題の解決策や新たな社会価値のつくり方を探る。

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