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「第5回:やなぎ書房とPASSAGE。
※本記事は、2022年6月12日時点で書かれた内容となっています。
「最近の人は本を読まなくなった」――この何十年もの間ずっと言われ続けてきたことです。ただし、必ずしも人間の知的水準や知的欲求が低下したわけではないと僕は思います。一番大きな理由は、読書以外にも楽しいことがいろいろあるから。一日の時間を何に振り向けるか考えたときに、友達とカフェでおしゃべりするとか、ジョギングするとか、自転車に乗るとか、さまざまな選択肢がある。要するに「豊かな社会」になったということです。時間の使い道が増えた今、本を読まなくなる人が出てくるのも当たり前です。
100年ほど昔の大正時代、知的な楽しみと言えば読書くらいしかなかったでしょうし、今と違ってゆとりがある人自体がかなり少数派でした。しかも、当時の小説家はメディアを賑わすスターで、今で言えば芸能人のような扱い。「芥川龍之介が〇〇〇〇と喧嘩した」といったゴシップやスキャンダルの報道が頻繁にあった。文学少女にとっては小説家がアイドルのような存在で、ファンレターを送る人もいた。文学そのものが一種の大きなエンターテインメントだったんです。当時文学にのめり込んでいた人たちがもし現代の日本に生まれていたら、きっと小説を読まず、ジャニーズの追っかけをしたりYouTubeにハマったりしていたはずです。
僕はつくづく思うんですが、これだけエンターテインメントがありとあらゆるメディアから毎日怒濤のように供給されているにもかかわらず、まだ本を読む人が一定数いる。考えてみれば凄いことです。やっぱり読書の愉しみには底力があります。タイパ重視の若い人がいる反面、本を読むのが大好きな若い人もたくさんいる。
昨年よく読まれた『土偶を読む』(竹倉史人著)は明らかに面白いし、知的にも価値がある。そういう本を、世代にかかわらず多くの人が読んでいる。本当に本好きな人が選ぶ『本屋大賞』も、毎年結構イイ本を選んでいる。老若男女が集まって読書会を開いたりと、いろいろな場所に読書愛好者のコミュニティがある。こういった世の中の動きを見ていると、本が人間にもたらす価値の大きさと日本の文化的な豊かさを改めて感じます。よく「バブルの頃の日本は元気があった」と言われますが、今のほうが読書文化は成熟している。
『土偶を読む』にしても、近年ベストセラーになった岩波新書の『日本軍兵士』(吉田裕著)や中公新書の『応仁の乱』(呉座勇一著)にしても、一見地味だけれども良質な本が何万部、何十万部と売れる国はそんなにないと思います。本質的に知的な好奇心をそそる本は、やっぱり売れる。その辺に、日本における読書趣味の底の固さ、層の厚さを感じます。
インターネットの普及でリアルな本屋が減りつつある一方で、セレクトブックショップが増えています。これまでお話ししてきた読書の「事後性」をすでに克服できていて本を読むのが楽しくなっている人にとっては、大きな本屋よりも、ご自身の趣向に合ったセレクトブックショップのほうが本との出会いの場として理想的です。
その1つが、昨年軽井沢にオープンした、ここ「やなぎ書房」です。象徴的なのは、岩波文庫や中公新書、講談社のブルーバックスを全冊そろえていることです。
店主は、僕の先輩の所源亮(ところげんすけ)さん。彼の知的な関心と哲学が、そのまま書棚に表れている。同じような趣向の人がお店に来られたら、もうたまらないと思います。しかも、店内に腰かけてじっくり読むことができる。一般的な書店と違い、本はすべて出版社から買い取ったものです。商売としてどう成り立っているのか不思議なんですが、所さんに言わせれば「そもそも成り立たなくてもいい」。文化的な豊かさの究極です。
やなぎ書房は極端な例ですが、セレクトブックショップはこれからますます増えるでしょう。しかも、本が大好きな店主が自分の基準でイイ本をセレクトしているので、増えても競合しない。
僕が日常的に利用している本との出会いのチャネルに、新聞や雑誌の書評があります。今でもほとんどの新聞や雑誌にプロの書評家が書いた書評のページがあるのは、それだけ意味がある情報チャネルだからです。自分に合うセレクトブックショップと、自分が好きな書評家を見つける。余計な情報を見なくて済むので、本探しのタイパを高められます。
僕の場合、鹿島茂さん(※)の書評が非常に自分に合っている。その鹿島茂さんのプロジェクトで、PASSAGE(パサージュ)という本屋が神保町のすずらん通りという書店街に2022年3月オープンしました。PASSAGEはマルチ・セレクトブックショップです。約100もの書評家、作家、出版社、読書コミュニティの運営者が一つひとつの書棚を自分のお店として持っていて、そこに自分で選んだ本を納品して販売している。言わば、100の基準でセレクトされた本が並んでいる。その大半が古書です。
※ 鹿島茂(かしましげる,1949年~)。フランス文学者・評論家。書評アーカイブWebサイト「ALL REVIEWS」を主宰。
実は僕も、PASSAGEの棚の1つに出店しています。僕は読み終わった本のうち9割はブックオフに売ることをルーティンにしてきたのですが、そのなかでも特に「これ、イイな」と思った本はPASSAGEの「楠木建の棚」に置かせてもらうようにしています。
僕個人としてもありがたいシステムですし、客として店内を眺めているだけでもすごく面白い。お店に行くたびに「この人、こういう本を読んでいるのか」という発見があります。いろいろなタイプのセレクトブックショップが増えている現状を見ても、僕は「日本の読書文化は死なず」と思いますし、むしろ豊かになって層が厚くなってきているという実感があります。大きな本屋も頼りになりますが、こうしたセレクトブックショップが各地に生まれると、本の好循環が起きるんじゃないか。ぜひ、軽井沢のやなぎ書房と神保町のPASSAGEに足を運んでみてください。
(撮影協力:旧軽井沢 やなぎ書房)
ここでは紹介しきれなかった話をお届けする、楠木建の「EFOビジネスレビュー」アウトテイクはこちら>
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楠木 建
一橋ビジネススクール教授
1964年東京生まれ。幼少期を南アフリカで過ごす。一橋大学大学院商学研究科博士課程修了(1992)。一橋大学商学部専任講師、一橋大学商学部助教授、一橋大学イノベーション研究センター助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科准教授、2010年より現職。
著書に『逆・タイムマシン経営論』(2020,日経BP社)、『室内生活 スローで過剰な読書論』(2019、晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる』(2019、文藝春秋)、『「好き嫌い」と才能』(2016、東洋経済新報社)、『好きなようにしてください:たった一つの「仕事」の原則』(2016、ダイヤモンド社)、『「好き嫌い」と経営』(2014、東洋経済新報社)、『戦略読書日記』(2013、プレジデント社)、『経営センスの論理』(2013、新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。
やなぎ書房(長野県軽井沢町)
今回撮影にご協力いただいたのは、旧軽井沢の「やなぎ書房」。築100年の古民家を改装して2021年8月にオープンしたセレクトブックショップだ。店主は創薬ベンチャーの起業家で楠木氏とは一橋大学の同僚でもあった所源亮(ところげんすけ)氏。「知的欲求をくすぐる本」というコンセプトで、岩波文庫、中公新書、講談社ブルーバック各全冊のほか、文明論から宗教論、科学全般まで古典として長く読み継がれてきた本を多く取り揃えている。一般の書店とは異なり、書籍はすべて出版社からの買い取りという点も特徴の1つだ。「避暑に訪れた人たちが、軽井沢のゆったりとした時間のなかで読書に浸れる空間を提供したい」という所氏の思いから、店内の本は1階の大テーブルや2階の和室などの読書コーナーで自由に読むことができる。宇宙科学をはじめ各界の第一人者が語る「夜話(よばなし)」を昨年は数回開催し、今年はインド仏教や仏教建築などの専門家によるトークを計画している。11月まで営業の予定。軽井沢にお越しの際は、路地裏にさり気なく佇むやなぎ書房をお探しになってみてはいかがだろうか。
<やなぎ書房イベント「やなぎサロン」開催のお知らせ>
『楠木建お茶会トーク』―楠木建先生の点てる抹茶を一服差し上げます―
9月4日(日)、やなぎ書房にて楠木建氏によるお茶会トークを開催。楠木氏のお点前による抹茶を一服いただいたのち、楠木氏を囲んでのフリートークを予定しています。時間は ①10:00〜12:00、②14:00〜16:00。それぞれ8名様限定、会費7,000円。参加ご希望の方は下記までお電話にてお問い合わせください。
やなぎ書房
〒389-0102 長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢 859-1
電話番号 090-9548-8090 (平日13:00~17:00)
楠木教授からのお知らせ
思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
この10年ほどTwitterを使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。
・140字しか書けない
・オープンな場なので、仕事や生活経験の具体的な中身については書きにくい
・考えごとや主張をツイートすると、不特定多数の人から筋違いの攻撃を受ける
「楠木建の頭の中」は僕のTwitterの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
不定期ですが、メンバーの方々と直接話をする機会も持ちたいと思います。
ビジネスや経営に限らず、人間の世の中について考えることに興味関心をお持ちの方々のご参加をお待ちしております。DMM社のプラットフォーム(月額500円)を使っています。
お申し込みはこちらまで
https://lounge.dmm.com/detail/2069/
ご参加をお待ちしております。
シリーズ紹介
楠木建の「EFOビジネスレビュー」
一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。
山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」
山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。
協創の森から
社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。
新たな企業経営のかたち
パーパス、CSV、ESG、カスタマーサクセス、M&A、ブロックチェーン、アジャイルなど、経営戦略のキーワードをテーマに取り上げ、第一人者に話を聞く。
Key Leader's Voice
各界のビジネスリーダーに未来を創造する戦略を聞く。
経営戦略としての「働き方改革」
今後企業が持続的に成長していくために経営戦略として取り組むべき「働き方改革」。その本質に迫る。
ニューリーダーが開拓する新しい未来
新たな価値創造に挑む気鋭のニューリーダーに、その原動力と開拓する新しい未来を聞く。
日本発の経営戦略「J-CSV」の可能性
日本的経営の良さを活かしながら利益を生み出す「J-CSV」。その先進的な取り組みに迫る。
ベンチマーク・ニッポン
日本を元気にするイノベーターの、ビジョンと取り組みに迫る。
デジタル時代のマーケティング戦略
マーケティングにおける「デジタルシフト」を、いかに進めるべきか、第一人者の声や企業事例を紹介する。
私の仕事術
私たちの仕事や働き方の発想を変える、膨らませるヒントに満ちた偉才たちの仕事術を学ぶ。
EFO Salon
さまざまな分野で活躍する方からビジネスや生活における新しい気づきや価値を見出すための話を聞く。
禅のこころ
全生庵七世 平井正修住職に、こころを調え、自己と向き合う『禅のこころ』について話を聞く。
岩倉使節団が遺したもの—日本近代化への懸け橋
明治期に始まる産業振興と文明開化、日本社会の近代化に多大な影響を及ぼした岩倉使節団。産業史的な観点から、いま一度この偉業を見つめ直す。
八尋俊英の「創造者たち」~次世代ビジネスへの視点~
新世代のイノベーターをゲストに社会課題の解決策や新たな社会価値のつくり方を探る。