協創を推進するにはアナログ力が不可欠
塩塚
中野さんは、一般向けの本の執筆やテレビ番組へのご出演などを含めて、脳科学のお立場から幅広く活躍されていらっしゃいます。私も何冊か中野さんの本を拝読しましたが、どれもたいへんわかりやすく書かれていて、スーッと頭に入りました。
中野
ありがとうございます。たいへん光栄です。
塩塚
私が読んだ本の中に『科学がつきとめた「運のいい人」』(サンマーク出版)があったのですが、私が今日ぜひとも伺いたかったのは、その「運のいい人」になるという事についてなのですが、その背景を少し説明させていただきます。私が日立の中で担当しているのはデジタル事業という分野でして、情報通信事業や社会イノベーション事業などのいわゆるIT分野です。
中野
いま、最も熱い分野ですね。
塩塚
この事業は世界47か国に広がっていて、そこには日本人だけでなく、国籍も宗教も文化も違う多くの人たちが働いています。さらに、現在では、社外のさまざまな人たちとも協創して、新たな価値を生み出していくことが求められています。そのような多様な人たちが、共に価値を生み出していくためには、まずしっかりと対話を成り立たせる必要があります。しっかりと対話ができて、相手の立場に立って考える想像力といったことがとても大切です。これはテクノロジースキルではなくてヒューマンスキルに属することでしょう。デジタル事業に取り組んでいると、ともするとテクノロジーという切り口で、すべての物事を処理してしまいがちなのですが、それだけでは大事なものが抜け落ちてしまいます。その大事なものが何なのかを考えると、ハートの問題そのものではないかと思ったわけです。それを私は「アナログ力」と名付けまして、機会あるごとに従業員に「アナログ力」を身につけようと呼びかけているんです。
中野
デジタル・テクノロジーの最先端で「アナログ力」を強調するというのは、たいへんユニークですね。
塩塚
私たちがデジタル・テクノロジーを使って、どんな価値を提供したいのかというと、結局は人々に安全・安心で快適な暮らしをお届けするということです。そのために、AIやビッグデータ解析などのデジタル・テクノロジーがあるのであって、テクノロジーは手段です。安全・安心や快適というのは、人を中心に置いた見方で考えていかなければいけませんよね。ですから、デジタル力だけでなく、アナログ力が必要になります。では、そのようなアナログ力を育てていくにはどうしたら良いかと考えている時に、中野さんのご著書『科学がつきとめた「運のいい人」』に出合いました。そこには、脳科学の成果を踏まえて、「運のいい人」の生活習慣や行動パターンなどを分析されていました。それを読んで、「これだ」と思ったわけです。私がアナログ力と呼んでいるのは、まさに「運のいい人」の発想や行動パターンで、私たちの事業で働く人全員が「運のいい人」の集合体になってくれればいいと思いました。そのためにはどんなことを考えるべきか、ぜひ中野さんに伺おうと思ったわけです。
中野
いまのお話で「全員、運がいい人になる」と塩塚さんが発想されたこと自体が、非凡だと思いました。多くの人は、「誰かの運が上がると、その分誰かの運が下がる」というように、運の総和はつねに変わらないゼロ・サム的な捉え方をしています。塩塚さんのように、全員が運のいい人になれば良いと考える人は少ないですね。しかし、理論的には、全員が「運のいい人」になることは可能だと思います。
周囲との比較感が錯覚を生んでいる
塩塚
脳科学から見て、多くの人が運をゼロ・サム的にとらえる理由はあるのですか。
中野
はい。実は運やチャンスというのは、誰にも均等に訪れているのですが、これをゼロ・サム的に錯覚してしまう理由が存在します。運の良し悪しの感じ方は、多くの場合、その結果得られる報酬の多寡と不可分な関係にあります。端的に言えば、収入が上がると、幸福感も上がって、運がいいと感じる機会も増えます。ただし、この場合は、上限があって収入がある点を超えてしまうと、幸福感の上昇が頭打ちになって、時には下がることもあります。これはアメリカでの研究で実証されたものですが、日本で追試をしても同様の結果が得られました。日本ではだいたい1500万円くらいが、その境界になっています。
塩塚
1500万円を超えると、それ以上は幸福感が増大していかないというわけですね。
中野
そうなんです。だいたい1500万円くらいまでは、全所得階層との比較で自分が上位に属しているという満足感が生まれますが、そこを超えると今度は、上位階層の中で自分はそれほどでもないのではないかと感じ始めます。そこで自己評価が下がってしまうのですね。
塩塚
なるほど、そこでの幸福感は周囲との比較で生まれているので、比較対象が変わることで自己評価も変わっていく。
中野
まして会社のような一定の組織や集団の中にいると、そこで顔が見える相手との比較になりますから、その中では、誰かが成功を収めたら自分の成果が注目されないとか、そういう比較感の中にありますから、どうしてもゼロ・サム的な認識になってしまいます。有望な新人が出てくれば、それは組織としては歓迎すべきことですが、個人としては自分の立場が脅かされると感じるなど、いろいろな葛藤が組織の中には生じます。みんなの運を良くするには、それを払しょくしていくことが必要です。それを解決するものを、模索していらして、塩塚さんはアナログ力というキーワードに至ったのではないでしょうか。
コラボレーションの基礎を育む挨拶運動
塩塚
おっしゃる通りです。そういう組織内の葛藤を治めていくには、働く人同士のつながりが大切だろうと考えて、3年ほど前に挨拶運動を始めました。これは朝、玄関に立って挨拶をするというものです。朝しっかりと挨拶できない人たちが、なぜお客さまの心に響く会話ができるのかという思いから、この運動を始めました。というのも、朝、出勤時に玄関に立って見ていますと、従業員の中には、ほんとうに疲れた表情で出社してくる人がいるんです。朝、出がけに何か嫌なことでもあったのかと聞きたくなるくらい暗い表情だったりして。
先ほども申し上げましたが、私たちが取り組んでいる社会イノベーション事業では、日立製作所だけではできないことがいろいろあります。水などの公共事業、鉄道、ヘルスケアなど、どれもほんとうにいろいろな人を巻き込みながら事業モデルを創出して、価値を生み出していくわけです。そのためには、いきなりテクノロジーだけの話から入っても上手くいきません。まず、こちらの思いを伝えていく、それにはきちんと話せなければいけません。
中野
それも素晴らしい発想ですね。実は私が大学の学部生時代にお世話になった先生の中に、日立製作所から来られた先生がいらっしゃいました。この方がたいへん厳しくて、日立というのは、たいへん厳しい会社というイメージを持っていました。日立の社員の皆さんは一人ひとりの方の能力が高くて、コラボレーションで何か一つのことを成し遂げるというよりは、一人ひとりが独立して成果を追求して、切磋琢磨していくというイメージでした。挨拶運動というのは、そういう従来の日立のイメージや会社の文化を変える革命的な取り組みなのではないかと思います。いま、世界の中でも最も熱いIT事業分野で成果を上げていくには、一人ひとり高い能力を持った人たちが、コラボレーションできるようにしていくことで、これまで以上に大きな力を発揮できますね。挨拶運動はそういうコラボレーションの土壌を社内に創出していくものだと思います。
中野信子(なかの・のぶこ)
1975年生まれ。東京大学工学部卒業、同大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。医学博士。2008年~2010年、フランス国立研究所ニューロスピン(高磁場MRI研究センター)に博士研究員として勤務。現在、東日本国際大学教授。『科学がつきとめた「運のいい人」』(サンマーク文庫)、『脳はどこまでコントロールできるか』(ベスト新書)、『ヒトは「いじめ」をやめられない』(小学館新書)、『シャーデンフロイデ』(幻冬舎新書)、『サイコパス』(文春新書)、『キレる!』(小学館新書)など著書多数。
塩塚啓一(しおつか・けいいち)
1977年 株式会社 日立製作所入社、2010年 情報・通信システム社 金融システム事業部長、2012年 理事 情報・通信システム社 システムソリューション部門COO、2013年 執行役常務 情報・通信システム社 サービス部門CEO 、2015年 執行役専務 情報・通信システム社 システム&サービス部門CEO等を経て、2017年より代表執行役執行役副社長 システム&サービスビジネス統括責任者。
シリーズ紹介
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