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第二次大戦の行方を左右したチャーチルの選択
山口
前回のお話でイギリスにおけるリベラルアーツの奥深さがよく分かりましたが、そう考えると、首相在任中にノーベル文学賞を受賞したウィンストン・チャーチルのような人物がいたこともうなずけます。
中西
『第二次大戦回顧録』が評価されたのでしたね。平和賞ではなく、文学賞を受賞したことが作品のレベルを物語っていると思います。今日の実証史学的な見地からすると、内容に問題がないわけではありませんが。それはさておき、チャーチルは政治の道に入る前、新聞の特派員や従軍の経験を基にした小説で高く評価されたことからも分かるように、生来の物書きだったのでしょう。それだけ教養の幅もあったということです。
山口
チャーチルは絵の才能も多方面から評価されていますね。政治家としては紆余曲折を経験した一方で、私生活では趣味人でした。そうした意味では、菜食主義者で酒もたばこも飲まなかった、いわばdisciplinaryで、かつ絵描きとしては芽の出なかったヒトラーと、まさに対照的だったと感じます。
中西
そこはチャーチルを語るうえで大事なポイントです。チャーチルは絵画のほかにレンガ積みも趣味にしていたり、いろいろな新しいカクテルを考案してカクテル図鑑に掲載されて大喜びしたり、実に好奇心旺盛で多才な人でした。これは、おっしゃるように政治家としてジェットコースターのようなキャリアを辿ってきたことにも関係しているでしょう。その時々に、彼の心を惹きつけるもの、精神を躍動させるもの、山口さんの言葉をお借りすればアートの世界、そうしたものへの欲求に素直に従うことでバランスをとっていたのかもしれません。逆にヒトラーという人はおそらく、そうしたものに対して禁欲的だったのだと思います。
チャーチルの偉大さは政治手腕や外交戦略をもって語られることが多いですが、それらは自分の感性や直感に忠実であった生き方と無関係ではないと思います。
山口
第二次大戦におけるナチスドイツとの向き合い方を見ていると、外部要因だけでなくチャーチル自身の歴史観を背景とした直感というものが大きく作用していると感じます。
中西
おっしゃるとおりです。そのことは、イギリス外交史の専門家でもなかなか気づかない核心を突いています。
第二次大戦時におけるチャーチルの基本的な考え方は、ルネッサンス以降ずっと大英帝国の外交戦略の基本であった勢力均衡策、すなわちヨーロッパで覇を唱えようとする国が現れたら、周辺国を組織してバランスオブパワー(力の均衡)で抑え込むという外交戦略でした。彼は、大国のソビエト連邦とアメリカによる包囲網で、危険な人種差別思想を持ったナチスドイツを抑え込み、ヨーロッパの秩序を回復しようという構想を立てたのです。
そのような勢力均衡策は、イギリスの力が低下しつつあった1930年代においては、時代遅れであると国内で批判されました。ただ、チャーチルの歴史観は、自身の先祖である初代マールバラ公爵以来、二百数十年にわたって続いてきた貴族の末裔としてのそれであり、いかにアナクロニスティックなやり方であっても、過去の類例に当てはまるのなら必ずやりきれるという直感があったのでしょう。一方で、アメリカの力を利用しようと考えた背景には、20世紀に入ってアメリカが本格的に世界秩序の担い手として台頭してきたという事実、また、イギリスとアメリカが経済的にも結びつきを深めて一体化している中で、国家という枠を越えたアングロサクソン勢力圏あるいは自由世界という視点を持つことができた、天性の時代感覚もあったと思います。
初代マールバラ公時代の発想というアナクロニズムとそれに対する自信、そして現実の世界情勢を冷静に見抜く力が、すべて整合的に意識していたかどうかは分かりませんが、一人の人間の中にしっかりと結晶していた。その結晶の仕方が、私はチャーチルという人間の核心ではないかと考えています。
大英帝国の繁栄を支えた知恵
山口
彼の中には、大英帝国を作り上げた偉大な祖先たちの末裔として自分があるという意識、ある意味で生きた歴史が血として流れていたからこそ、何をすべきか、すべきでないかという「美意識」があり、それに照らして考えていたということですね。
ところでチャーチルは、1929年に世界恐慌が起きた、まさにそのとき、ニューヨークのマンハッタンに居たそうですね。実はこれは父親から教えられたことなのですが、「チャーチルはいつも決定的な場所に居る」と。それも彼の直感が関係しているのでしょうか。
中西
直感と、それを裏付けるだけの情報があったのでしょう。彼の情報源というのは、近年イギリスの歴史研究分野でも関心の高いテーマで、本もたくさん出されています。チャーチルは自分個人の情報機関を持つほどインテリジェンス(諜報、分析された情報)を重視していただけでなく、人的コネクションも豊富に持っていました。1910年代にはすでに内務大臣や海軍大臣を務めていますから、そこでかなりの情報網を築いていたはずです。大恐慌の現場にチャーチルが居たということは、やはり大きな山が迫っているという直感と情報があったためかもしれません。もちろん彼がインテリジェンスを重視していたのは彼自身のためではなく、あくまでも大英帝国のためであり、彼は帝国を守るために身を賭していた。だからこそ、いつも決定的な場面に居たのだと思います。
山口
先生はご著書の中で、イギリスが選択や進路を決定する際の「知恵」として、「早く見つけ、遅く行動し、粘り強く主張し、潔く譲歩する」ということを書かれています。その一つ目の「早く見つけ」を実践するには、情報、インテリジェンスが不可欠であるということですね。
中西
その言葉は、近代イギリスの外交と国家戦略の特質を端的に表現したものですが、情報を早くつかんでいるからこそ、最適な機を見て行動することができたのです。しかも、必要であれば翻意も恐れないという知恵、行動学とも言えますが、それを実践することでイギリスは世界に確固たる地位を築いてきました。チャーチルもこの行動学を意識していたと思います。
よく考えるとその四つの要素は、「早く、遅く、そして粘り強く、潔く」と各々矛盾したことを言っており、表面上、逆説的で、すべてを実践するためには自己の強い心理的コントロールが必要です。それこそリベラルアーツに裏打ちされた自己陶冶つまり精神的な成熟がなければ、そのようなコントロールは難しいでしょう。
山口
日本人は新規事業を始めるのが下手だとよく言われていますが、私は逆に、止めるのが下手なのだと思っています。粘り強く頑張って、ダメだと思ったら潔く撤退する。そのことが非難されずにできる環境であれば、始めるのも簡単になると思うのですが。
中西
前言を翻すことを潔しとしないのは、日本人独特の美学ですね。しかし、これは時として非常に危ういことです。ただ譲歩も撤退もいかに自分に有利なタイミングで行うかが重要です。「機を見る」ことの大切さは、歴史上のさまざまな出来事が示しています。
中西 輝政(なかにし てるまさ)
1947年大阪生まれ。京都大学法学部卒業、同大学大学院修士課程(国際政治学専攻)修了。英国ケンブリッジ大学歴史学部大学院(国際関係史専攻)修了。京都大学法学部助手、ケンブリッジ大学客員研究員、 米国スタンフォード大学客員研究員、 静岡県立大学国際関係学部教授、京都大学大学院・人間環境学研究科教授などを経て、2012年より京都大学名誉教授。 1989年佐伯賞、1990年石橋湛山賞、1997年毎日出版文化賞、山本七平賞、2003年正論大賞、2005年文藝春秋読者賞などを受賞。主な著書は、『大英帝国衰亡史』(PHP文庫、1997年)、『国民の文明史』(扶桑社、2003年)、 『本質を見抜く「考え方」』(サンマーク出版、2007年)、 『日本人として知っておきたい「世界激変」の行方』(PHP新書、2017年)、『アメリカ帝国衰亡論・序説』(幻冬舎、2017年)、『日本人として知っておきたい世界史の教訓』(育鵬社、2018年)他多数。
山口 周(やまぐち しゅう)
1970年東京都生まれ。独立研究者・著作家・パブリックスピーカー。電通、BCGなどで戦略策定、文化政策立案、組織開発等に従事した後、独立。著書に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 』、『武器になる哲学』など。最新著は『ニュータイプの時代 新時代を生き抜く24の思考・行動様式』(ダイヤモンド社)。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院美学美術史学専攻修了。神奈川県葉山町に在住。
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