始まりは「安うり処」
――御社は1834年(天保5年)に創業しました。どういった背景があって、フルーツを扱うようになったのですか。
大島
初代の大島弁蔵は武蔵国(むさしのくに)千疋村、現在の埼玉県越谷市で道場を営み、武士に槍術を教えていました。ところが天保年間は江戸時代の終盤、幕末に向かっていった時代ですから武芸を志す人がだんだんと減ってしまい、道場経営では生計を立てられなくなっていました。
当時、千疋村界隈は畑作が盛んでした。そこで弁蔵は、地域で採れたフルーツや野菜を船に積んで江戸に運び、商売をしようと思いつきました。ちょうど越谷が古利根川、元荒川といった河川に面し、舟運が盛んだったからです。
――その頃はどんなフルーツを扱っていたのですか。
大島
柿や桃、ミカン、ブドウ、スイカ。それから、マクワウリといってスイカを少し細長くしたような形で果肉の白いものなどが主流でした。そうしたフルーツを持って、弁蔵は江戸の親父橋というところで露天商を開きました。現在の中央区日本橋人形町です。当時、その辺りには「江戸三座」と呼ばれる有名な芝居小屋が3つあり、歌舞伎を観に行く庶民で賑わっていました。そこで弁蔵は、「水ぐわし安うり処」という看板を掲げ、庶民を相手に商売を始めました。“水ぐわし”とは水菓子、つまり今で言うフルーツのことです。
大島
その後、幕末の1864年(元治元年)に弁蔵の跡を継いだ二代目・文蔵の時代に、高級路線に転じました。
――高級路線に転じた理由は何だったのでしょうか。
大島
その頃になると、今の千葉県や神奈川県からもいろいろな種類のフルーツが江戸に入ってくるようになり、競合が増えてきました。そうした状況で千疋屋が生き残るために大きな役割を果たしたのが、文蔵の妻・むらでした。
むらは浅草の鰹節問屋「大清(だいきよ)」から嫁いできた人です。大清は高級料亭に鰹節を納めていましたし、むら自身、浅草の八百善(やおぜん)という料亭で茶の湯の接待を務めていました。八百善は、各藩の偉い方や文人墨客が利用する高級料亭です。むらはそのルートを伝って、千疋屋の商品を上流階級の人たちに広めていきました。そこから「千疋屋はおいしいぞ」という評判が立つようになり、高級路線に転じていきました。
「八百善」は高級な料理を出すということで江戸では有名な料亭でしたから、そこに出入りしていた当時の千疋屋としても、品質の維持には非常に気を遣ったようです。フルーツは当然すべて露地栽培です。冷蔵保存の技術も無い時代ですから、その日の朝早くに収穫したものを船に積み、傷まないうちに江戸まで運んだそうです。また、料亭でデザートとしてお出しするタイミングに食べ頃を合わせるため、室(むろ)というコタツのような仕掛けの中にまだ熟していない硬い桃を入れて、火鉢で温めて食べ頃になるまで熟させてから、お客さま先に納めたとも聞いています。
港へ出向いた三代目・代次郎
――幕末における高級路線への転換が御社にとって最初のターニングポイントだったのですね。
大島
その後もそれぞれの代で、大きな転換がありました。1877年(明治10年)に当主となった三代目・代次郎は、まだ日本には出回っていなかった海外のフルーツに目をつけた人です。
当時、横浜などには食料補給のために外国船がよく寄港していました。そこで代次郎は、港に出向いて船員に「果物を売ってくれないか」と掛け合い、バナナやパイナップルを買い取ることに成功しました。やがて「千疋屋はよい値段で買ってくれる」と評判になり、お店まで売りに来てくださる人も出てきました。そうして徐々に扱う商品を増やし、輸入物を店頭に並べるようになりました。
――海外のフルーツに着目したのは、競合と差別化を図るためですか。
大島
と言うよりも、社会のトレンドをいち早くとらえたのだと思います。開国して海外の文化が入ってくるようになって、世間では輸入物への憧れが高まっていた時代でしたから。その時代の人々にとって、バナナやパイナップルといった海外のフルーツはとても珍しい存在だったのです。
1920年(大正9年)に跡を継いだ四代目・代次郎は、フルーツを使ったデザートを店舗併設の食堂で提供する「フルーツパーラー」を始めた人ですが、同時に技術革新にも着手しました。現在の世田谷区に自社農場を開き、当時の東京帝国大学農学部などと提携してメロンの温室栽培を試みました。ガラス製のハウス内に、石炭で沸かしたお湯の蒸気を循環させて温室としていたそうです。第二次世界大戦が起きるまで、そういった栽培技術の研究が行われました。
大島
そして、わたしの父である大島榮一が5代目・代次郎として社長に就任したのが、戦後の1960年(昭和35年)でした。ちょうど日本は高度経済成長期だったので、路面店を増やすだけでなく、駅ビルや百貨店の中にも積極的に出店するという戦略をとっていました。
小学生にして“利きリンゴ”をマスター
――大島さんは1998年、40歳で千疋屋総本店の代表取締役社長に就任されました。6代目を継ぐことを最初に意識されたのはいつですか。
大島
いつでしたかね…はっきりと自覚するようになったのは大学生くらいだったと思いますが、子どもの頃から「自分はそういう家に育ったんだな」という意識はずっとありましたね。小学生の頃は週末になると親に連れられて、文京区にあった自宅から日本橋の総本店によく遊びに行っていました。すると祖母がいつも番台に座っていて、非常に可愛がってくれました。いずれ自分がこのお店を継ぐのだろうなあ…という思いは、ぼんやりとですが自然に芽生えていきました。
フルーツは本当によく食べましたね。母から聞いたのですが、わたしがミルク以外に初めて口にしたのはリンゴのすりおろしだったそうです。小学生になると、店頭で売れなくなったフルーツを父が持って帰ってきてくれて。もう、主食以上にたくさん食べていました。お通じが緩い状態がずっと続いていたくらい。ですから小学生の時点ですでに、食べただけで品種を当てられるようになっていました。例えばリンゴでしたら、「これは“ふじ”」「これは“王林(おうりん)”」というふうに。
――すごい小学生ですね。ちなみに、一番好きなフルーツは何ですか。
大島
何でも好きなんですけれども、やっぱりマスクメロンかなあ。あとは、マスカット・オブ・アレキサンドリアというブドウの一種。この2つが特に好きですね。
ニューヨークで家業の希少価値を知る
――大学を卒業された後は、すぐに千疋屋総本店に入社されたのですか。
大島
いいえ、すぐには入社せず、経営学を学ぶために海外に留学しました。グローバルな社会を見ておきたいというわたしの考えもありましたし、会社が直面していた状況も関係していました。
大学を卒業した1981年当時、弊社はすでにワインやグレープフルーツ、オレンジを扱っていたのですが、実際の輸入業務は輸入代行業者に依頼していました。そのために支払う手数料が決して小さくない金額でしたので、社長をしていた父としても「そろそろ自社で輸入業務をできるようにしたい」と考えていたようです。わたしに英語力をつけさせて、貿易や経営の勉強もさせたいという父の意向もあって留学させてもらい、ニューヨーク大学で経営学を専攻しました。
その頃、ロンドン大学のリチャード先生という方がニューヨーク大学でも客員教授として教鞭をとられていて、ある時「老舗の経営」というテーマについて講義されたことがありました。ロンドンの歴史ある衣料品店や食料品店の経営事例を基に、少人数の学生でディスカッションするという内容です。その中でわたしが実家のビジネスについて話をしたら、先生がとても興味を持たれまして。当時の千疋屋は創業150年くらいでしたけれども、「フルーツの専門店でそんなに続いている会社は無い」と。
――千疋屋のようなフルーツの高級店という業態は、世界的にも珍しいのですか。
大島
ヨーロッパならロンドンの高級百貨店ハロッズ(Harrods:1849年創業)やパリの高級食料品店エディアール(HEDIARD:1854年創業)、それから日本にもいくつか総合食料品店の老舗はありますが、弊社のようにフルーツ一本でやっているところは海外でもなかったそうです。そこでリチャード先生に誘われてイギリスに渡り、ロンドン大学で半年間老舗経営学を勉強しました。そこで初めて、ブランディングという言葉を知りました。
感じ始めた千疋屋ブランドと時代とのズレ
大島
その後日本に帰って輸入代行業を行う会社に1年半ほど勤め、1985年に千疋屋総本店に入社しました。貿易業務はひと通り覚えたので、それまで自社でしてこなかった輸入をわたしが行うようになったのですが、生ものは難しいと思い知らされました。賞味期限は短いですし、時間が経つと腐ってしまいます。季節によって品質にバラつきもあるので、とてもリスクが大きい仕事でした。
――例えばどんなリスクがあったのですか。
大島
せっかく輸入しても売れ残ってしまったり、店頭に置ける品質のものがごくわずかしかなかったり。その場合、潰してジュースに加工するしか使い道がなくなってしまいます。今ですと品質の統一化や規格化が進み、日本国内では1等級、2等級、3等級と品質によって分けられた状態でフルーツが流通していますが、当時のアメリカからの輸入品は同じ箱の中に大きさがバラバラのオレンジが混在している状態だったので、いかにロスを発生させずに輸入するかでかなり試行錯誤しました。
――その後、1998年にお父さまの跡を継いで、千疋屋総本店の代表取締役社長になられました。会社はどんな状況だったのですか。
大島
最初の3年間は父の経営のやり方を踏襲していたのですが、千疋屋のブランドと時代から求められるものとの間にズレが生じていることにだんだんと気が付きました。当時の千疋屋は、よく言えばレトロ調の店舗だったのですが、悪く言えば古びたイメージでした。それでも父の時代は高度経済成長期でしたから高級品ばかりの品揃えでも売れましたが、いつの間にか時代と合わなくなってしまった。世間からは敷居の高いお店として見られていたように感じますし、実際に売上も伸びていませんでした。
何かを変えなくてはいけないと思い、社長になって4年目に「ブランド・リヴァイタル・プロジェクト」を立ち上げました。千疋屋ブランドを再構築するために、会社のコンセプトから見直す必要を強く感じていました。
シリーズ紹介
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一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。
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